30 私は、あなたのことを――! その4
ありったけの想いを込めて、告げる。
「英翔様のことを、知りたいんです! 私――」
「明珠……」
「私だって、英翔様のお役に立ちたいんです! 私にできることなんて限られてますけど、それでも……。私一人、何も知らされないままなんて、嫌ですっ!」
言い切った瞬間、強く抱き寄せられた。
英翔の手が、壊れ物を扱うように頬にふれる。下りてきた唇が、優しく涙を吸い取った。
「……お前は、涙でさえ甘いのだな」
「……?」
甘いと言いつつ、英翔の声は苦い。
「わたしは、お前を解呪のためだけの手段だなどと思ったことは、一度もない」
もう一度、今度は優しく抱き寄せられる。
英翔の長い指先が乱れた髪を優しく
あらわになった
「わたしの肩書は第二皇子だが……。母は没落貴族の出で、後宮での地位など、無きに等しかった。現皇帝には、息子が三人いるが、第一皇子の生母は有力貴族の娘、第三皇子の生母は、正妃だ。宮中になんの後ろ盾もなく……だが、代々、皇族に受け継がれる《龍》の気だけは、三人の皇子の中で突出しているといわれるわたしは、第一皇子と第三皇子、どちらの陣営にとっても、目の上の
「そんな……。それで、英翔様は刺客に狙われているのですか?」
明珠は、政治のことはさっぱりわからない。
英翔の命を狙っているのは、第一皇子と第三皇子のどちらの陣営なのだろう?
視線を上げた明珠が見たのは、英翔の苦い笑みだった。
「お前には、深い事情など話したくなかった。事情を知れば知るほど、お前も狙われる羽目になる。お前を危険な目に
英翔の秀麗な面輪が自嘲に歪む。
「わたしは
「逃げ出したりなんてしません! 前に言ったではありませんか、一度引き受けた仕事を放りだしたりなんてしません、と!」
英翔の黒曜石の瞳が不機嫌に細くなる。
「あの時と今では事情が違う! 刺客は本気で動き出した。いつ命を狙われてもおかしくないのだぞ!? もし、お前が解呪の手かがりだと知られたら――っ!」
息が詰まるほど、強く抱きしめられる。
回された英翔の手が、震えている。
明珠は順雪にするように、英翔の広い背中を優しく撫でた。
「大丈夫ですよ。刺客が一介の侍女など、気にするはずがありません。それに……少しは術だって使えます。自分の身くらい、守れますから」
「敵を甘く見るな!」
顔を上げた英翔が、厳しい声で叱責する。真っ直ぐな眼差しは、怖いほど真剣だ。
明珠は英翔と視線を合わせ、こくりと頷く。
「もちろん、わかっております。
「……なぜ、そこまでわたしに協力しようとする?」
英翔の眼差しは、理解できぬと言いたげだ。
明珠は小さく微笑む。
「最初は、英翔様を弟だと思っていたからですが……。たとえ兄弟でなくとも、私はお仕えするなら、英翔様がいいんです」
英翔の黒曜石の瞳を見つめ、
「私……。英翔様なら、きっと民草に優しい
蚕家の子息と第二皇子。立場は違えど、明珠が英翔に抱く想いは変わらない。
仕えるなら、英翔がいい。英翔以外はもう、考えられない。考えたくない。
虚を突かれたように目を見開いた英翔が、とろけるような柔らかな笑みを浮かべる。
「お前という奴は……」
英翔の大きな手が、そっと頬を包み込む。
「?」
わけがわからぬうちに、優しくくちづけをされ。
「……えっ、英翔様っ!? い、今、く、くくくく……っ、そのっ、する必要なんてありませんよねっ!?」
おろおろしながら上目遣いに英翔を睨むと、甘い微笑みが返ってきた。
「お前が、甘すぎるのが悪い」
「なんですかそれっ? どうせ私は、脇も詰めも甘いんでしょうけど……っ。っていうか、あのっ、離してください!」
ようやく今の状況を理解した途端、心臓が暴れ始める。
っていうか近い。近すぎる!
英翔の香の匂いに
「……ってあれ? 御当主様は……?」
明珠が逃げ出してしまい、英翔が追って来てくれたということは。
英翔が不機嫌に吐き捨てる。
「お前を泣かせるような遼淵など、放っておけばよい」
「ちょっ!? 何をおっしゃっているんですか!? だめですよ! ご当主様はお忙しいんでしょう!? お話をうかがえる機会に、ちゃんとうかがわなくては……っ」
「真面目だな、明珠は」
「当り前です! 英翔様の解呪がかかっているんですから!」
拳を握りしめて力説すると、英翔が苦笑した。優しく頭を撫でられる。
「明珠にそう言われては、戻らぬわけにはいかぬな」
英翔が脇に置いていた仮面をつけ、
「ってあの、どうして抱き上げるんですか!? もう自分で歩けます!」
ごく自然な動作で、明珠を横抱きにして歩き出す英翔に抗議する。
「こんなところを、他の人に見られたらどうするんですか!?」
扉を開け、廊下に出ようとする英翔に抗議し、足をばたつかせる。
英翔は「仕方ない」と吐息すると、明珠を下ろしてくれた。代わりとばかりに、手をつないで引かれる。
「今のわたしは幽鬼だ。誰も気に留めん」
「幽鬼って……。何ですか、それ?」
「知らんのか? この青い仮面は、劇では幽鬼を表す仮面だ」
「すみません。演劇なんて、祭りの日に道端でやっている寸劇くらいしか、見たことがなくて……」
劇場の入場料はかなり高い。貧乏人の明珠には、一時の娯楽に使える金など、逆立ちしたって出てこない。
「では、そのうち
あっさり告げる英翔に、小さな頷きだけを返す。
第二皇子である英翔と観劇に行ける機会など、あるはずもない。そもそも、皇族は劇場で観劇するのだろうか。
「英翔様が観劇なさる際には、ぜひお供に選んでくださいね」
手をつないで一歩先を行く英翔を、横目で見上げる。
仮面で目元が隠されていても、英翔の涼やかな美貌はそこなわれていない。
ただ歩いているだけなのに気品を感じさせる所作は、国一番の人気劇団の看板俳優だと言っても、疑う者はいまい。
まるで、明珠の方がお話の中に迷い込んでしまったようだ。
右手を握る英翔の大きく優しい手だけが、ただ一つのよすがのように感じる。
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