30 私は、あなたのことを――! その3
そこは、今は使われていない部屋らしかった。長椅子や卓など家具は置かれているものの、すべての家具に
部屋に入った英翔が、布をかぶせられたままの長椅子に、そっと明珠を下ろす。英翔自身は明珠の前の床にひざまずき。
「すまなかった」
深く頭を下げられ、心底驚く。
「えっ!? な……っ!? どうして英翔様が謝られるんですか!?」
「わたしの失策だ……。遼淵に娘だと告げるなら、もっと時機を見定めるべきだった」
青い仮面の上からでもわかるほど、秀麗な顔をしかめる英翔の声は苦い。
明珠はあわてて口を開く。
「そんなの、英翔様のせいじゃないですよ! いきなり、見知らぬみすぼらしい侍女から、娘ですなんて言われたら、ふつう誰だって疑いますよ!」
「どうでもいい」と何の感慨もなく告げた遼淵の言葉がよみがえり、胸が痛む。
だが、それよりもっと痛かったのは。
「あ、あの……。すみませんでした。平手打ちなんかして……」
英翔の左頬に手を伸ばして――ふれていいものか
「いや、謝るな。殴られて当然だ」
明珠の顔へと視線を上げた英翔の表情が凍りつく。
「っ!? その顔は!?」
「え? あ、さっき清陣様に……」
清陣に張られた頬は、まだ少しじんじんしている。
告げると、仮面の奥の黒曜石の瞳が、先ほど見たのと同じ、苛烈な怒りに彩られる。
「あの男……っ! やはりさっき、
英翔の手が、そっと頬にふれる。
「《癒蟲》」
英翔が召喚した癒蟲が、すぐに痛みを散らしてくれる。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です、これくらい……」
「大丈夫なわけがあるか!」
即座に叱られる。
「すみません……。お手を、濡らしてしまいましたね」
鏡を見ていないのでよくわからないが、大泣きしたので、とんでもなくひどい顔をしているに違いない。
涙で濡れてしまった英翔の手をぬぐおうとすると、左手も掴まれた。
英翔が腰を上げる。
「きゃ……っ」
頬に柔らかなものがふれる。
唇で涙を吸われているのだとわかった途端、恥ずかしさに気を失いそうになった。
「な、何を……っ」
「涙を試そうといったのは、お前だろう?」
いつものからかい混じりの英翔の声に、少しだけほっとする。
「そ、そうですけど、でも……っ」
くちづけも恥ずかしいが、これも十分恥ずかしい。心臓が壊れそうだ。
「頬が熱いな。唇が
「え?」
熱くかすれた声が聞き取れず、顔を動かした拍子に、冷たいものが頬にふれた。英翔が着けている陶器製の仮面だ。
「すまん。当たってしまったな」
低い囁き声で詫びて、英翔が仮面をとる。
「い、いえ……。あの、その仮面は……?」
「遼淵に借りた。……この顔を、蚕家で晒すわけにはいかんのでな」
「……ということは、今後も龍翔様とはお呼びしないほうがいいのですね?」
確認のために尋ねて、気づく。
今後……今後など、あるのだろうか。
両頬の涙を吸い、ようやく顔を離した英翔に、おずおずと尋ねる。
「あの……、不敬罪で死刑になるんでしょうか、私?」
「は? 何を言っている?」
「だ、だって私、皇子様に平手打ちを……っ」
話しているうちに、声が震え出す。
龍華国の第二皇子。今、目の前にいる方は、本来なら直接見ることすら一生叶わぬ、雲の上のお方だ。
「すっ、すみませんっ! お給金も特別手当も、全部返上しますから! どうかなにとぞ、家族に
「落ち着け。お前を死刑になどするわけがないだろうが。お前は、唯一の解呪の手立てだぞ?」
英翔が呆れたように吐息する。
「え、あ……。そ、そうですよね……」
なぜだろう。遼淵に「どうでもいい」と言われた時よりも、心が痛い。
ここは英翔の寛大さに感謝するところなのに。
「そういえば……」
英翔の身分に思い至ると同時に、清陣に尋ねられたことを思い出す。
「さっき、清陣様に、英翔様や張宇さんのことを尋ねられました……。だ、大丈夫です! 何も話していませんから!」
「……もしかして、手を上げられたのは、話さなかったせいか?」
英翔の視線が
「どうだったでしょう……? いえ、抵抗した時に清陣様を怒らせてしまって……」
「あんな
吐き捨てた英翔に、急に抱き寄せられる。
「わたしの
英翔の言葉に、目を見開く。
「な……っ!? どうしてですか!? どうしてそんなことをおっしゃるんです!?」
言い返した声が湿る。
さっき、あれほど泣いたというのに、また目が潤む。
自制しなければと理性が叫んでいるのに、あふれ出す感情と涙が、あっさり理性を打ち崩す。
「私は解呪のための手段にすぎないからですか!? 季白さんや張宇さんと違って、解呪の役にしか立たないからですか!? それとも、信用されてないからですか!? だから――っ!」
「待て、明珠。何を言っている?」
身を離した英翔が、あわてた様子で問う。
戸惑った英翔の秀麗な面輪が、にじんだ視界の中でぼやける。
困って見つめ返す英翔が、ただただ哀しい。
なぜ、わかってもらえないのだろう?
私は、私はこの方を――!
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