30 私は、あなたのことを――! その2


 涙で周りがよく見えない。

 そもそも、ここがどこだか全くわからない。


 無我夢中で廊下を走っていた明珠は、息切れして足を止めた。

 涙が後から後からあふれてくる。


 何がこんなに哀しいのか、自分でももう、わからない。


 うつむいた目から、ぽたぽたと涙がこぼれ落ちる。


 嗚咽おえつらし、立ち尽くしていると、不意に、近くで扉が開く音がした。


「いったい何の声だ? 面妖な……?」


 廊下に出てきた清陣と目が合う。驚いたのは、相手も同じらしかった。


「お前は……っ」

 つかつかと寄ってきた清陣に、乱暴に腕を掴まれる。


「来いっ!」


 引きずられるように、清陣に連れていかれる。

 突き飛ばされ、入れられたのは、先ほど清陣が出てきた部屋だ。


 豪奢ごうしゃな家具に囲まれた部屋だが、むっとする酒の臭いがこもっている。清陣が吐く息も、酒の気配が濃い。


「このあいだの男は何者だ!? 離邸には今、誰がいる!?」


 清陣が明珠の肩腕を掴み、赤らんだ顔を寄せるようにして怒鳴る。


 怒声交じりの問いに反射的に湧いた疑問に、わずかに思考力が戻る。

 なぜ、清陣が張宇や英翔のことを聞くのだろう。


(英翔様……。ううん、季白さんは龍翔りゅうしょう様と言っていた……。ということは、英翔という名前は偽名なの? 刺客から身を隠すために、離邸にいるのだとしたら……)


 清陣の問いに答えることなどできない。絶対に。


「な、何のことでしょう?」


 苦しいと思いつつ返すと、乱暴に片襟をつかみ上げられた。


「あ……っ」


 襟元がはだけ、思わず身をよじって逃げようとする。

 が、それよりも早く、清陣がのしかかってきた。


 成人男性の重さに堪えきれず、尻もちをつく。


「何をなさるんですか!?」


 抵抗して振り上げた手が、清陣の頬をかすめる。


 痛みなど感じなかっただろうが、清陣の理性の糸が切れるには、それだけで十分だった。


「貴様っ!」


 酒に濁った目に怒気を宿らせた清陣が、縛蟲を召喚する。

 術師としての技量の高さを感心する余裕などなかった。両腕に巻きついた縛蟲に動きを封じられる。


 下りてきた清陣の顔にひじを食らわせると、頬を張られた。


「つっ!」


 頬がけたようにじんじんと痛む。が、抵抗をやめる気はない。


 恐怖に鳴りそうな歯を噛みしめ、のしかかる清陣を押しのけようと、暴れる。幸い、男物の服なので、裾がはだける心配はない。


「どいてくださいっ!」


 清陣を蹴り上げようとした瞬間、


「明珠っ!」


 乱暴に扉が開けられる。


 のしかかる清陣で姿は見えずとも、声だけで英翔だとわかる。

 英翔が召喚したらしい感気蟲が、ふわりと明珠の目の前をよぎった。


「貴様っ‼」

 英翔の声が憤怒にひび割れる。


「ぐっ」

 清陣がくぐもった声を上げて、明珠から身を離す――いや、無理矢理離される。


 清陣の身体に巻きついているのは、淡く銀色に輝く蛇のように細長い蟲だ。

 昨日、短冊を燃やした時に見た蟲とそっくりだが、今日の方がずっと大きい。


 英翔が、床にへたりこんだままの明珠に駆け寄る。


「え――」


 反射的に呼びそうになり、口をつぐむ。今の英翔は、見たことのない仮面をつけている。ということは、英翔の名は呼ばないほうがいいのだろう。


 英翔が明珠を横抱きに抱え上げる。

 両腕に巻きついていた縛蟲は、英翔が「消えろ」と呟いただけで霧散していた。


「どうしようもないろくでなしという噂は、真実だったらしいな」


 侮蔑と怒りに満ちた声は、室内を凍りつかせるのに十分だった。


 矛先を向けられていない明珠ですら、そばにいるだけで威圧感に息が苦しくなる。

 まるで、手負いの虎を目の前にしたようだ。喉がからからに乾く。


「きさま、何を……」


 英翔をにらみつけた清陣の喉を、銀色の蛇が締めあげる。


 酒で赤らんだ顔が苦悶くもんに歪み、どす赤く変わっていく。

 ついに白目をむいた清陣が、どさりと床に倒れた。


「だ、だめです! 殺す気ですか!?」


 床に倒れてもなお、緩む気配のない戒めに、英翔の顔を仰ぎ見る。


「このような下郎げろう、生きている価値もないだろう?」


 仮面の奥の黒曜石の瞳に宿る苛烈な怒りを目の当たりにして、身体が震える。

 が、自分のせいで英翔に手を汚させるなんて、絶対に嫌だ。


「罰を与えたければ自分でします! それに……腐っても、腹違いの兄です」


 息を飲んだ英翔が、唇を噛みしめ、蛇をかえす。


「……やはりお前は、人がすぎる」


 英翔の呟きは乱暴な足取りに紛れて、よく聞こえなかった。

 明珠を横抱きにしたまま、英翔が部屋を出る。


「あ、あの、もう大丈夫です。自分で歩けます」


 英翔が来てくれてすぐは自力で立てる気がしなかったが、今はもう大丈夫だ。

 だが、英翔は下ろしてくれる気配がない。


「あ、あの……」


 口を開きかけ、まだ礼を言えていないと気づく。


「助けていただいてありがとうございました。本当に……」


 はだけた襟元をき合わせて礼を言う。


 清陣にのしかかられた時の恐怖を思い出すと、思わず身体が震え、無意識に守り袋を握りしめる。


 ぎりっ、と英翔が奥歯を噛みしめる気配がした。と、手近な扉の一つを乱暴に開ける。

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