29 隠された正体ですか!? その3


「やっほー、愛しの君♪ キミが戻ってくる前に野暮用を済まそうと思ったら、秀洞に捕まってさぁ。悪いけど、風乗蟲ふうじょうちゅうで、本邸までご足労願うよ」


 突然、露台から聞こえた能天気な声に、四人ともが凍りつく。


 一番早く反応したのは張宇だ。

 つかつかと露台へ続く扉へ歩み寄り、繊細な装飾の施された桟に硝子がはめられた扉を開け放つ。


 広い露台を埋めるようにいたのは、先ほど迎えに来た英翔が乗っていた巨大な蟲だ。

 その頭には、ころんと丸い形の小さな虫、《伝蟲でんちゅう》が止まり、遼淵の声を響かせている。


「もー。愛しの君に早く会いたい一心で、王城から風乗蟲で帰ってきたっていうのに、キミったらお預けをくらわせるんだから。ワタシは我慢の限界だよ。来てくれないんなら、無理矢理さらっちゃうからね♪」


 どこまでも場にそぐわぬ能天気な声で、遼淵がとんでもないことをさらりと言う。


(……あれ? 英翔様ってものすごく身分が高い御方じゃなかったっけ……?)


 呆気にとられていると、英翔に手を握られた。


「行くぞ。……お前がいないと、話にならん」

「えっ? あの……?」


 強引に英翔に手を引かれ、思わず二、三歩、歩いてしまう。


 振り返った英翔の目には、優しい光が宿っていた。


「……会いたいんだろう? 実の父親に」

「そ、それは……」


 「娘がこんなに困窮しているんだ。実の親として、少しくらい援助してくれたって、罰は当たらないだろう?」

 義父・寒節の言葉がよみがえり、歩みが遅くなる。


 今まで言葉も交わしたこともない父親に会って、何を言えばいいのだろう。


 あなたの娘は借金に苦しんでいるんです、助けてくださいと? だめだ。そんなことは言えない。


 だが……。会って、言葉を交わしてみたい。


「それに……」

 英翔がわずかに言いよどむ。


「お前の水晶玉を、遼淵に見せねばならん」


「……そう、ですね……」


 なぜだろう。実の父親に会える喜びよりも、英翔の言葉に、心がずきんと痛くなる。


 英翔と風乗蟲にまたがった途端、風乗蟲が巨大な羽をはためかせ、宙に浮く。風が髪や衣をはためかせる。


 歩けばそこそこの距離だが、蚕家の林の上を一直線に飛べば、本邸まではあっという間だ。


 風乗蟲が止まったのは、本邸の最上階にある露台だった。


 朱に塗られた欄干らんかんには、細かな装飾が施され、諸所に埋め込まれた金の飾りが、陽光を反射してきらめいている。


 待ち構えていたように、露台の扉を開け放って出てきたのは、遼淵だ。


 第一印象の通り、遼淵はどう見ても二十代後半、よくて三十歳過ぎにしか見えない。

 英翔に駆け寄ってくる姿は、まるでおもちゃを見つけた子どもそのままだ。きらきらと瞳が輝いている。


「会いたかったよ! 愛しの君! すまないね、わざわざ来てもらって」


 英翔に抱きついた遼淵は、そのまま英翔を抱き上げ、くるくると回り出す。


「やめろっ!」


 あわてた様子で英翔が声を上げる。まさか、抱っこくるくるされるとは、予想外だったのだろう。


「下ろせ! 遼淵、お前に紹介したい娘が……」

「娘? 何、このコ、女の子かい?」


 遼淵の言葉に、自分が男物の着物のままだったと気づく。


 よく考えれば、服も乱れ、汚れてよれよれだし、みっともない格好だ。

 英翔に急かされたとはいえ、せめてもう少しましな格好をしてくればよかったと、悔んだ瞬間。


「どうでもいいよ、こんなコ。ワタシが興味があるのはキミだけなんだよ、愛しの君~♪」


 明珠も見もせず言い捨てた言葉が、刃のようにざっくり心に突き刺さる。


 当然だ。遼淵にとって、明珠など、顔も見たことのない一介の侍女にすぎない。


「この娘は……っ。いい加減、放せっ!」


 遠慮のない様子で遼淵を蹴りつけた英翔が、腕を振りほどいて露台に下りる。

 英翔に腕を引かれ、遼淵の前に引き出される。


「遼淵。この者は、お前の娘だ」


 英翔が、おごそかかに告げる。明珠は不安を隠せず、遼淵を見つめた。


 遼淵は、若々しい顔に、にこやかな笑みを浮かべ。


「で?」

「っ! おまえ……っ」


「娘って言われてもねぇ。身に覚えもないのに、ナンでか時々、息子だの娘だのが現れるんだよね~。興味なんてないよ、そんなの。ワタシがいま夢中なのは、愛しの君、キミだけさ!」


 にこやかに断言し、抱きつこうとした遼淵の腕を、英翔がひらりとかわす。


 明珠は石になったように立ち尽くしていた。


 ……頭が動かない。


 さっきと同じだ。言葉だけが、耳を通り過ぎていく。

 地面に沈んでいくような感覚にとらわれ、すがるものを探して、無意識に守り袋を握りしめる。


「これでも同じことが言えるのか?」


 苛立いらだった英翔の声。同時に、ぐいっと腕を引かれる。


 唇にふれる、柔らかなもの。


「っ!?」

 息を飲んだのは、自分か、それとも遼淵か。


「なんだいそれっ!? あれほど強力な禁呪が一瞬で解呪されるなんて……!? よく見せてくれっ!」


 遼淵が、明珠から引きはがした英翔に取りすがる。


「遼淵! お前は――っ!」

 英翔が遼淵をはがそうとする。


「ひどいです!」


 その頬に、明珠は思わず平手打ちを食らわせていた。


「急にこんな……っ! と……御当主様の目の前で! 英翔様の破廉恥っ! 私の力だけが必要なら、最初からそうおしゃってくれればいいじゃないですか! 期待なんて、させないでくださいっ!」


 顔が熱い。感情が沸騰ふっとうして爆発しそうだ。


 涙腺が壊れたように、目からあふれ続ける涙をぬぐいもせずに、駆け出す。


 露台を出、部屋の中を突っ切り、


「明珠!」


 英翔の呼びかけを無視し、乱暴に扉を開け放って廊下に飛び出す。


 もう駄目だ。心の許容量はとっくに上限を突破している。

 きっとこれは悪い夢に違いない。


 どこからだろう? 刺客に襲われた時から? 英翔の本当の身分を聞いた時から? 実の父に「どうでもいい」と言われた時から?


 眠蟲を喚び出した時に、自分も眠ってしまったのだ。きっとそうだ。そうならいい。


 そうすれば――目覚めさえすれば、混乱の極みのこの中から、逃げ出せるに違いない。

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