28 無事に帰ることはできません!? その5


 空気が動いた気配を感じ、張宇は身構えて腰にいた剣の柄を握りしめた。


 が、刺客の気配はない。張宇は小さく息を吐いて、柄から手を放す。


 ここは離邸の二階にある英翔の自室だ。まさか主人を書庫の床で寝かせるわけにはいかず、張宇がここまで運んできた。


 寝台では、英翔が健やかな寝息を立てている。

 眠る英翔の整った面輪は驚くほど無防備で、身体相応に幼く見える。


 目覚めたら、愛らしい顔が憤怒に染まるに違いないが。


 季白と明珠が離邸を出て、すでに半刻(約一時間)は経つ。何事もなく順調なら、もうしばらくすれば帰ってくるだろう。


 どうか無事に帰ってきてほしいと、心の底から願った時――。


 鼻歌を乗せた強風が吹きつけた。薄く開けていた露台に続く扉が、強風に押し開けられる。


 抜剣し、身構えた張宇の視線の先で、突然、露台に降り立ったのは。


 常人である張宇にも視認できるほどの高位の蟲にまたがった若々しい男だ。


「りょっ、遼淵りょうえん殿っ!?」


 予想だにしていなかった人物の登場に、向けていた剣をあわてて鞘に戻し、膝を折って恭順の礼を示す。


「遼淵殿、あの……」

「んふっふ~♪ ワタシの愛しの君はどこかな~っと♪」


 張宇を一顧いっこだにせず、はずむような足取りで部屋に入ってきた遼淵は、寝台に眠る英翔をを見つけ、おもちゃを見つけた子どもそのままの笑顔で駆け寄った。


「おや。なんで眠蟲が……? えいっ♪」


 おそらく眠蟲が止まっていただろう英翔の額の上を、遼淵が指ではじく。途端。


「明珠っ!?」

 がばりと英翔が身を起こす。


 眠らされる直前との状況の落差に、戸惑ったような表情がよぎったのは、ほんの一瞬。


「あっ、起きたね。愛しの――」


「遼淵! 《風乗蟲ふうじょうちゅう》を貸せっ!」


 寝台から飛び降りた英翔が、遼淵を見もせず命じる。


「お待ちくださいっ!」

 露台に駆けていく英翔を、張宇はあわてて追った。


「ん? 何? 従者クンのお迎えなら大丈夫だよ。襲われてたけど、一応、追っ払って――」


「っ!?」

 のほほんと遼淵が告げた言葉に、英翔が奥歯を噛みしめる。


 衣の裾を翻して風乗蟲にまたがった英翔の後ろに張宇も乗る。


 駄目だ、今の英翔は周りが見えていない。

 何の準備もなく、無力な少年姿のままで飛び出そうとするなんて、ふだんの英翔からはありえない。


「英翔様! 遼淵殿に御助力を……」

「《翔べ! 風乗蟲!》」


 張宇の助言を無視して、英翔が命じる。


 英翔の蟲語に応えて、風乗蟲が巨大な羽をはためかせ、ふわりと宙に舞い上がる。


「《急げ!》」


 英翔の命に、風乗蟲が速度を上げる。

 強風に飛ばされそうな少年の痩せた身体に、張宇は思わず腕をまわした。


 今の英翔にはどんな言葉も届きそうにない。


 なら、張宇の任務は、何があろうと英翔を守りきるだけだ。


 ◇ ◇ ◇


 矢のように飛んでいく英翔達を露台から眺めていた遼淵は、風乗蟲の巨体に乗る二人の姿が視認できないほどの大きさになってから、のんきに「あれぇ~」と首をかしげた。


 今、飛び出していったのは、ここ半月ほどの間、寝ても覚めても脳裏を離れなかった愛しの君のはずだ。


 一刻も早く彼に会いたくて、風乗蟲を召喚して、王城からここまで、一人で飛んできたというのに。


 だが。


 さっき飛び出していった少年は、遼淵が知る「愛しの君」と、本当に同一人物だろうか?


 半月前、自らに禁呪をかけられた時でさえ、落ち着き払って遼淵と取引をした彼が。


 あれほど動揺している姿は、初めて見た。


「ワタシがいない間に、何か面白いコトでもあったのかな~?」


 はなはだ気になるが、愛しの君がいないなら、離邸に留まる理由はまったくない。


「しょーがない。先に本邸に戻って、秀洞しゅうどうのお説教を済ませておくかな~」


 「蚕家の当主ともあろう方が、供もつけずにお一人で蟲に乗ってご帰還なさるなど! いったい何を考えておられるのです!?」と、渋面の秀洞にくどくどと言われるに違いない。


 心置きなく愛しの君を調べるためにも、あらかじめ済ませられる雑務は先に済ませておいたほうが、効率的だ。


 数時間も風乗蟲にまたがっていたせいで、すっかり凝り固まった身体を、「うーん」と伸びをしてほぐしながら、遼淵は口元に笑みが浮かぶのを抑えられなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る