28 無事に帰ることはできません!? その1


 りぃん。


 鈴が澄んだ音を響かせたのは、村を出、両側が林に挟まれた道に入って、しばらくした頃だった。


 鋭く息を飲んだ季白が、素早く右手を着物の合わせに突っ込み、一本の巻物を引き抜く。

 器用に片手で巻物をほどいた季白が、《蟲語》で唱える。


「《盟約に従い、我等を守れ! 盾蟲じゅんちゅう!》」


 巻物にびっしりと書かれていた蟲語が淡く光る。かと思うと、巻物から二十数匹もの甲虫が飛び出した。


 大人の手のひらほどの盾蟲の羽ばたきが重なり、じじじ、と空気を震わせる。


 そこへ。


 鋭い風斬り音が鳴る。

 こうべを巡らすいとまもなく。


 ギィンッ!


 風を斬って馬の首へ迫った何かが盾蟲にはじかれ、火花を散らして向きを変えた。


 盾蟲は四寸ほどの大きさの蟲だが、羽も身体も金属のように固く、生半可な矢や刃を通さない。

 だというのに、羽や体を斬られた数匹の盾蟲が、きぃぃっ、ときしむような鳴き声を上げ、地に落ちる。


 もし盾蟲が防いでいなかったら、ぶつかったものはすっぱりと一刀両断されていただろう。


 弾かれ、空中で反転した蟲の姿を明珠は目で追った。木漏れ日を受けて鋭く輝く、あの羽は。


「あれは、《刀翅蟲とうしちゅう》です!」


 明珠と季白めがけて林の中から放たれたのは、刀翅蟲とうしちゅうだった。


 三寸ほどの長さの刃のように鋭く尖った羽を持ち、ふれるものを残らず切り裂く危険極まりない蟲だ。


 季白が咄嗟とっさに盾蟲で防いでいなかったら、馬の首に次いで、明珠と季白の首も胴体とおさらばしていただろう。


 理解した途端、どっ、と背中に冷や汗が吹き出す。

 冷や汗が背を伝う間もなく、新たな風斬り音が耳を打つ。。


 二間強(約四メートル)ほどの道の両側の林から飛んできたのは、幾本もの矢だ。


 人と馬の頭部を的確に狙った矢を防いだのは、季白がもう一本ほどいた巻物から飛び出してきた追加の《盾蟲》だ。


 盾蟲は普通の矢などにはびくともしない。黒光りする甲殻に弾かれた矢が、ばらばらと地面に落ちる。


 季白はおくすることなく馬を操り、矢の雨の中を駆け抜ける。怯える馬を操る技量は、見事というほかない。


 明珠達を逃がすまいと、いくつもの気配が林の中を追ってくるのが、姿が見えずとも分かる。

 隠そうともしない殺気に、喉がひりつき、背中が粟立あわだつ。


 刺客の気配を気にして、道の両側をせわしなく見ていた明珠の視界の端で、鋭い輝きがきらめいた。


 気づいた時には、先ほどの刀翅蟲が空中で大きく弧を描き、滑空していた。狙いは明らかに季白だ。


「きは――!」


 しかし季白は、蟲の気配に怯える馬を巧みに操り、見えないはずの刀翅蟲の一撃をかわす。


 むろん、気配だけを読んで躱したのではない。


 季白の額には、明珠が喚び出した《視蟲しちゅう》がとまっていた。

 大きく翅を広げた蝶のような形をした蟲で、はねが半透明になっている。


 蚕家を出る前に、明珠が喚び出しておいた蟲だ。

 《視蟲》の羽を通して見れば、常人でも蟲を見ることができる。常人が術師や蟲を相手にする際には欠かせない蟲だ。


 高位の術師であれば蟲を同時に十数匹も喚び出すことができる。だが、明珠の実力では、同時に喚び出せるのは、せいぜい三匹か四匹だ。


 貴重な枠を使ってでも、《視蟲》を呼ぶ価値はある。季白に蟲が見えなければ、戦うこともままならない。


 刀翅蟲の攻撃を躱し、安堵する間もなく、視界が陰った。


 めりめりと生木が裂ける嫌な音とともに、突然、目の前に木が倒れてくる。


 季白が素早く手綱を引き、倒れてくる木の枝にぶつかりそうになった馬が、後ろ足で棹立さおだちになる。


 馬のいななきに、轟音が重なった。木が倒れた衝撃に、地面が揺れる。


 あわてて明珠が後ろを振り返ると、後ろの道も同じようにふさがれていた。


 立ち止まった馬に、再び矢の雨が降る。


 盾蟲がその矢を弾き返す。

 が、明珠達を襲ったのは矢だけではなかった。盾蟲の防御網をかいくぐり、刀翅蟲が比較的、守りの薄い馬を狙う。


 鋭いきらめきがひらめいたかと思うと、馬の首がぱっくりと切り裂かれた。


 驚くほど大量の血が噴き出し、鼻を突く血臭に、思わず息を飲む。


 痛みに後ろ足で立ち上がった馬の身体が傾ぐ。


「きゃ……っ」

 外套の頭巾がずれ落ちるが、押さえている暇などない。


 体勢を崩した明珠の腰に季白が腕を回し、抱くようにして鞍から飛び降りる。


 季白がいなければ、無様に落馬していただろう。

 が、礼を言う暇などなかった。


 どうっ、と血を流しながら馬が倒れる。あふれ出す血が、地面に血だまりを作る。


 刺客達の間に、戸惑うような気配が生じたのは、ほんの一瞬。


 次の瞬間には、殺意に彩られた黒衣の刺客達が、抜身の剣を手に、林から飛び出してきた。

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