26 恋人なんているんですか? その5


 いつの間にか、無意識に後ずさりしていたらしい。背中が、本棚に当たる。


「また、季白に叱られるぞ」


 苦笑した英翔が、明珠の腕を放すどころか、もう一方の手を本棚につき、明珠を閉じ込める。


「あの、英翔様? 本が……」

「そうだな。いためたら弁償だな」


 楽しげに言い切った声に、動きが封じられる。

 今の英翔なら、力比べをしても互角だろうが、本を傷つけたら一大事だ。


「明珠。ちゃんとわたしを見ろ」


 強い声で命じられて、弾かれたように伏せていた顔を上げる。


「え、英翔様……?」

 これ以上、後ろに下がれないというのに、英翔が距離を詰めてくる。


「ち、近いっ。近いですよ、英翔様っ! 押さないでくださいっ!」


 衣越しに、背中に本が当たる感触がする。せめて、本にぶつかる面積を減らそうと屈むと、本棚に手をついた英翔が、覆いかぶさるように身を寄せてくる。


 明珠は、掴まれていないほうの左手で、必死に英翔の薄い胸板を押し返した。


「英翔様! 本が……っ」

「それほど、嫌か?」


 見上げた先には、不安に揺れる黒曜石の瞳。


「いえあのっ、嫌とかじゃなくてですね……。常識的に考えてよくないですよ! こ、恋人でも夫婦でもないのに、く、くく……だなんて……っ」


「では、恋人になったらいいわけだな?」


「ちょっ!? どういう思考をしたら、そんな考えに行きつくんですか!? いくら元のお姿に戻りたいからって、焦りすぎですよっ! 私と英翔様の身分でなんて、ありえませんっ! 季白さんの血管をぶち破る気ですかっ!?」


 言った瞬間、手首をつかんでいる英翔の手に、痛いほどの力がこもる。


「……嫌がるということは、恋人か、想い人がいるということなんだな?」


(だから、どうしてそういう思考に――)


 反論しかけて、ふと気づく。


 意外と固いところのある英翔の性格だ。もし、恋人がいるとでも言えば、くちづけは諦めてくれるかもしれない。


 真っ直ぐ見つめる英翔の黒曜石の瞳を見上げ、おずおずと尋ねる。


「も……もし、いると言ったら、どうなさるんですか……?」


「っ‼」

 英翔が息を飲んだ途端、圧力が増した。


 掴まれた右手を胸元へ導かれ、反射的に守り袋を握りしめる。


 左手で、押し返そうとしたが、だめだった。

 英翔の手に顎をつかまれ、上を向かされる。


「英翔さ――」


 声ごと奪うように、乱暴にくちづけられ。


「すまないが――」


 低い声が耳朶じだを震わせ、首をすくめる。閉じていたまぶたを開いた先には、青年英翔の秀麗な面輪。


 怖いほど真剣な眼差まなざしに、心が震えるのを感じる。


「禁呪を解くのは、わたしの悲願だ。今のところ、おまえしか禁呪を解けない以上、おまえを他の男にはやれぬ」


 言葉を裏付けるように、明珠の手首を掴む手に力がこもる。


 深みのある声に、頭の芯がしびれたようになる。まなざしに射抜かれて、身体に力が入らない。


「……なら」


「明珠?」


 ふるふると震え出した明珠に、英翔が首をかしげる。

 明珠は、ふつふつと激情がたぎるのを感じていた。


「いようといまいと関係ないなら、恋人がいるかどうかなんて、聞く必要ないじゃないですか――っ‼」


 感情のおもむくまま、盛大に叫ぶ。


「どうせ生まれてこのかた、恋人も想い人もいませんよ! それをわかった上で問い詰めるなんて、ひどいで――」


「いないんだな?」

 英翔の強い声が、言葉を遮る。


 ちりちりと、うなじが粟立あわだつほど真剣なまなざし。

 吐息が混じりあうほど、顔が近い。


「本当に、恋人も想い人もいないんだな?」


 激情を押さえつけたような声。


「い、いませんけど……」

 気圧けおされつつ答えると、英翔が深く長い溜息をつく。


「……驚かせるな。心臓に悪い」


「何をおっしゃるんですか! 心臓に悪いのは英翔様のほうですよっ!」


 心臓が早鐘のように鳴っているのがわかる。

 本当に壊れてしまったら、いったい、どう責任をとってくれるのだろう。


「今回ばかりは謝らんぞ。先にわたしをだまそうとしたのはお前だからな」

「だ、騙そうなんて……」


 口ごもった明珠から身を離したかと思うと、ふわりと英翔に横抱きにされる。


「英翔様!?」

「本を押しつぶしては、困るのだろう?」


「そ、そうですけど、元はといえば、英翔様が私を追い詰めたからじゃないですか!」


 からかうように笑う英翔に言い返す。


「先に逃げ出したのはお前だろう? だから、こうしてちゃんと捕まえておかねばな」


 英翔が腕に力を込め、密着度が増す。


「下ろしてください! 意図して逃げてなんて……」


 反論しかけ、ふと思いつく。英翔に尋ねるなら、今がいい機会かもしれない。


「あの、張宇さんに、詳しい事情は英翔様に直接、尋ねるようにと言われました。英翔様は、どんな御事情があって、禁呪をかけられるような事態になられたのですか?」


 ぴくりと英翔の肩が揺れる。告げられた声は苦い。


「……それは、明かせぬ」

「どうしてですかっ!?」


 英翔が着ているのが絹だということも忘れ、衣をつかんで食ってかかる。


「禁呪に関することなら、私にも関係のある話じゃないですか! どうして教えてくれないんですか!?」


 張宇に断られた時よりも、ずっと心が痛い。


 さっきまでとは打って変わって固い表情の英翔は何を考えているのか、全く読めない。


「英翔様! どうし――」


 問い詰めようとした声は、扉を叩く音に遮られた。英翔が許可を出すより早く、扉が開けられる。


 英翔に横抱きにされた明珠を見た途端、季白の眉間の縦皺たてじわが、さらに深く刻み込まれた。


「もうくちづけはお済みになったようですね」


 明珠が守り袋を握っていないと気づいた季白が、淡々と言う。

 そんなことを冷静に確認なんてしないでほしい。


「季白。わたしは入室を許可していないぞ」


 英翔が不機嫌に眉を寄せる。が、季白は無視してつかつかと寄ってきた。


「用がお済でしたら、明珠には仕事に戻ってもらいます。祭りも終わりましたし、今日中に灯籠とうろうも片づけたいですからね」


 季白がなかば無理矢理、明珠を英翔から引きはがす。元から下りたいと思っていた明珠に否はない。


「さ、行きなさい」

 季白に目配せをされ、迷う。


 まだ、英翔にさっきの問いの答えをもらっていない。


 だが、唇を引き結んだ英翔は、機嫌が悪そうだ。過保護な季白の前では、話せない内容という可能性もある。それに、今日だけは明珠も英翔に隠さねばらならないことがある。


 問い詰めるのを諦めて、明珠は書庫を出た。

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