26 恋人なんているんですか? その4


「涙か……」

 呟いた英翔が、からかうように口元を歪める。


「いい案だが、そうそう都合よく涙が出るものか?」

「大丈夫です。ちょっと台所に行って、玉ねぎのみじん切りでも……」


「台所に行く必要はありません」


 立ち上がりかけた明珠を、にこやかな笑顔で引きとめたのは季白だ。季白はにっこり笑ったまま。


「明珠を泣かせることなど、簡単です」

「おい、きは――」


「減給」

「ぐはっ!」

 冷ややかに放たれた言葉が、明珠の心に突き刺さる。


「失態を冒して弁償」

「うっ!」

 ぐさぐさっ!


「借金増額」

「ひいぃっ!」

 ぐさぐさぐさっ!


「クビ」

「そ、それだけはご勘弁を……っ」

 ぐさぐさぐさぐさっ!


 心臓が痛い。胃がねじ切れそうだ。吐き気がする。


 胸を押さえて、ぜはぜはと息を荒げていると、英翔が気遣きづかわしげに優しく背をなでてくれる。


「大丈夫か? 顔が白を通り越して青いぞ? 季白、もう少し緩めて……」

「だ、大丈夫です! これくらいじゃめげたりしません! どんとこいです!」


 こわばっている顔を動かしてなんとか笑みを形作り、目元をぐいと袖でぬぐう。


「あ。涙が」

「し、しまった~っ」


 悔むがもう遅い。まなじりにうっすら浮かんでいた涙は、布に吸い込まれてしまっている。


「ううう……。季白さん、もう一回お願いします……」

「ええ、わたしでよければいくらでも」


 やたらと楽しそうな笑顔を浮かべ、季白が頷く。が。


「季白、もういい。涙というなら、嬉し涙だってあるだろう。次はわたしにやらせろ」


 こほんと一つ咳払いし、英翔が割り込む。


「特別手当」

 ぱあっ。


「給金増額」

 ぱああっ。


「借金完済」

 ぱあああっ。


「……順雪かわいい」

 ぱああああっ!


「すごいっ! 英翔様、何だかすごく心がはずんできました!」

「ふっ、くくくくく……」


 英翔が顔を背けて吹き出す。


「あっと言う間に顔色がよくなったな。まるで百面相だ、おもしろい。だが……涙は出ていないな」


「そうですね……。すみません」


「いや、お前の満面の笑顔を見られたので、わたしは満足だぞ」

 英翔が楽しげに喉を鳴らす。


「でも、涙が出なかったら、意味がないですよ。やっぱり玉ねぎを……」


「待て」

 英翔が立ち上がろうとした明珠の手首をつかみ、季白に素早く目配せする。

 季白が一つ吐息して、席を立つ。


「えっ、季白さんに持ってきていただくなんて、申し訳ないです! 私が自分で……」


 明珠の声を無視して、季白が書庫から出て行く。


 振り返った時には、いたずらっぽい笑みを浮かべた英翔が、明珠との距離を詰めていた。


「あれこれ試してみたが、今のところ、確実なのは、昨日と同じ方法しかなさそうだぞ」


「あ、諦めるのはまだ早いですよ! きっと、他にまだ……」


「あるかもしれんが、今は手詰まりだ。蚕遼淵に水晶玉を見せれば、新たに何かわかることがあるかもしれんが」


「なら、早く御当主様にお見せして……」


「落ち着け。昨日、言っただろう。王城から蚕家までは、二、三日はかかる。……あいつのことだ。とんでもない手段を使うかもしれんが……」


 後半の低い呟きは、よく聞き取れない。


「というか」

 英翔がいぶかしげに眉を寄せる。


「なぜ、執拗しつように別の方法を探そうとする? ――それほど、わたしとくちづけをするのが、嫌か?」


「それ、は……」

 問われて、口ごもる。


 嫌とか嫌ではないとかいう問題ではない。兄妹でくちづけするのが、人倫じんりんに背いているのだ。


 英翔の眼差しは真剣そのものだ。

 腰が引け、椅子からずり落ちそうになる。


「危ないぞ」


 英翔が手首を掴んだ手に力を込める。水晶は守り袋に入れっぱなしなので、少年姿のままだ。


「あ、あの……」


 逃げ場を探して立ち上がったが、英翔の手は離れない。つかまれた腕が痛いわけではないが、しっかりつかまれていて、振りほどけそうにない。

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