26 恋人なんているんですか? その2


 暴れた拍子に、靴が右足からすっぽ抜ける。元の色などわからないほどき古された靴が放物線を描き――本棚の最下段に入れられていた本の背に当たる。


「明珠! 本が傷ついたり、汚れたりしたらどうするのですか!? ここにある本一冊で、あなたの靴が何百足買えると……っ」


「す、すみませんっ!」


 青筋を立てた季白の叱責に身を縮める。優しく明珠を抱き寄せたのは英翔だ。


「明珠を叱るな。わたしがふざけたせいなのだから、文句があるなら、わたしに言え。それに、本の背に靴が当たったくらいで、壊れるものではなかろう」


 英翔が庇ってくれたのはわかるが、聞き逃せない単語に眉が上がる。


「英翔様! ふざけてって……。ひどいです、早く下ろしてください!」


 と、あることに気づく。

 英翔の広い胸板。頬に当たるのは、すべらかな絹の感触。


「今日は、はだけないんですね?」


「ん? ああ、解呪の方法を探るとわかっていたからな。季白が着付けを工夫した。ひだを多めにとって、急に体格が変わっても大丈夫なようにと。毎度毎度、破廉恥だと非難されるのはごめんだからな」


「お心遣いはありがたいですが……。あの、急に横抱きにするなんて、今の状況も十分に破廉恥だと思います!」


 控えめに告げた抗議に、英翔が苦笑する。


「抱き上げるだけでも駄目なのか? 明珠の基準は厳しいな」

「私には、英翔様の基準が謎だらけですっ!」


(昨日みたいに、あっさり、く、くくく……するなんて……)


 うっかり思い返してしまい、頬が熱くなる。


「あの、ほんと下ろしてください。靴も履きたいですし……」


 素足の右足がすーすーして心もとない。

 英翔を見上げて頼むと、仕方がないと言わんばかりの表情で、英翔が歩き出す。


「あ、あの?」


 しかも、本棚とは逆の方向だ。


 そっ、と英翔が椅子の一つに明珠を下ろす。離れた瞬間、輪郭がぼやけ、少年の姿に変わる。体格に合わなくなった着物が着崩れした。


「……少年になった時に着崩れるのは、いかんともしがたいな。それより……。ふれて元に戻った場合は、ふれている間しか、効果がないのか……」


 英翔の呟きを、水晶玉を守り袋にしまいながら聞く。うっかり落として、割ってしまったら大変だ。その間に、英翔が本棚の前から靴を持ってきてくれた。


「すみません!」


 あわてて立ち上がろうとしたが、座っていろと英翔に手で制される。

 が、明珠の前に戻ってきた英翔は、なぜか靴を渡してくれない。


「英翔様、靴を……」


 ぼろ靴なので、正直、まじまじ見てほしくない。案の定、英翔があきれた声を出す。


「前にも思ったが……。明珠、そろそろ靴を新調しないとまずくないか?」


「す、すみませんっ。英翔様のお手を汚しそうなぼろ靴で……。でも、まだ大丈夫ですよ。つくろえないほど大きな穴は開いてませんから」


 それより、「前に」というのは何だろう? 英翔に靴を見せた記憶などないのだが。


「年頃の娘なのだから。もう少し、身を飾ることを覚えても、ばちは当たらんと思うぞ」


 吐息した英翔が、靴を持ったまま、椅子に座る明珠の前に片膝をつく。


 履かせてくれようとしているのだと気づいて、明珠はあわてて、英翔の手から靴を奪い取った。


「え、英翔様にそんなことさせられません! お立ちください! 季白さんがすごい目で睨んでるじゃないですかっ!!」


 怖くて季白の顔を正面から見られないが、視線の矢はびしびしと感じる。胃に穴が開きそうだ。


 明珠が急いで靴を履いていると、隣の椅子に座った少年英翔が、頬杖をついて溜息をつく。


 そんな場合ではないが、身の丈よりも大きな衣を着て、ふてくされたような表情が、ちょっと可愛い。


「どうやら、解呪には、明珠と水晶玉の双方が欠かせぬようだな」


「そうですね。……非常に。非常に、残念ながら」


 季白が忌々しそうな表情で明珠を睨むが、恐縮して身を縮めることしかできない。


 明珠だって、自分と水晶玉が、どんな風に解呪に関わっているのか、わからないのだ。

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