24 やり直しなんて要りません!? その1


「明珠。英翔様が、風呂上がりで喉が渇いたから、大きな杯に水をたっぷり入れて持ってきてくれと御所望だ」


 夕食後、台所で洗い物をしていた明珠は、張宇に声をかけられて振り向いた。


「大きな杯に、ですか?」

「ああ、今日は長風呂だったからな。喉が渇いてらっしゃるんだろう」


 張宇がなぜか微妙な苦笑を浮かべる。


「俺は先に風呂をもらうから、悪いが頼めるか?」

「はい、すぐにお持ちします」


 戸棚から杯と水差しを取り出し、水差しにたっぷり水を入れる。喉が渇いているのなら、水差しで持って行ったほうがいいだろう。


 盆に水差しと杯を載せ、二階に上がる。


「英翔様。水をお持ちしました」


 扉を叩いて告げると、中から、少年の高い声で「入れ」と許可が返ってきた。開けると、中にいるのは、やはり少年英翔だ。


 明珠にとっては見慣れた姿に、ほっとする。


 英翔は夜着の上に蚕家の紋が入った上着を羽織っていた。

 長風呂だと張宇が言っていた通り、頬が上気していて、薄紅色に染まった柔らかな輪郭を描く頬が、桃の実を連想させて、何とも愛らしい。


 英翔が本当は青年であることを思わず忘れそうになる。


 英翔の部屋は、離邸の中で、もっとも良い部屋だ。赤みがかった渋い茶色の柱に、漆喰の白い壁が映えて美しい。


 寝台や家具も黒檀こくたんで統一され、どの家具にも、花や唐草、蔦模様などの細やかな彫刻が施されている。それらを毎日磨き上げるのも、明珠の仕事の一つだ。


「どうぞ」


 水差しから硝子の杯に水を注いで差し出すと、受け取った英翔は一息に飲み干した。よほど喉が渇いていたのだろう。いい飲みっぷりだ。


「助かった。干からびて木乃伊ミイラになるかと思ったぞ。まったく、季白の奴ときたら、人の身体を隅から隅までいいように……」


 不機嫌に呟きながら杯を差し出した英翔に、すかさずおかわりを注ぐ。


「今日は、季白さんとお風呂に入られたんですか?」


「違う。あいつが無理矢理、押し入ってきたんだ! 身体に異常がないか調べさせろと。途中で、この姿に戻ったものだから、更に長引いてな。……最後には、鬱陶うっとうしいから出て行けと蹴り出してやったが」


 憤然と告げる英翔に、蹴り出されている季白の姿を想像して吹き出す。


「それはのぼせても仕方がないですね。お水はまだ、たっぷりありますから」


 水差しを置いて退出しようとすると、「待て」と呼び止められた。


「お前を呼んだのは水を持ってこさせるためだけではない。他にも用がある」


 英翔が指し示したのは、水差しを置いたばかりの卓の上だ。

 そこには、すずりと筆、何枚かの色鮮やかな短冊が置かれている。


「毎年、短冊に願いごとを書いて燃やしていると、言っていただろう?」


「言いましたけど……。えっ、わざわざ用意してくださったんですか?」

 驚いて、卓の上をしげしげと見る。


「英翔様ご自身は、願いごとなんてないと、おっしゃっておられたのに……」


「だが、お前は毎年しているのだろう? 今年は、わたしに仕えたばかりに、短冊を燃やせなくて願いが叶わなかったと、後で恨み言を言われるのは御免だからな」


 からかうように告げる英翔の口調はぶっきらぼうだが、明珠のためにわざわざ用意してくれたのは確かだ。


「ありがとうございます!」

 満面の笑顔で礼を述べると、


「では、ここで書いていけ。短冊を燃やす灯籠とうろうも用意してある」

 と促される。


「では、お言葉に甘えさせていただきます。でも、いいんですか? すぐ燃やしてしまうのに、こんな高そうないい短冊に書かせていただいて……」


 染料を混ぜ、色を付けた短冊は手ざわりもすべすべで、明らかに高価ないい紙だ。いつも明珠が短冊に使っている、反故紙ほごしを集めてすき直した中古紙とは、格段に質が違う。


「張宇に短冊を用意させたらそれだったんだ。かまわんから書け」


(張宇さん、英翔様が使われると思って、いい紙を持ってこられたんじゃ……?)


 疑問が浮かぶものの、英翔がいいと言っているので、ありがたく使わせてもらうことにする。


 英翔が、明珠が話した内容を覚えていてくれたのが、純粋に嬉しい。


「では、ありがたく書かせていただきますね」


 椅子に座り、筆をとる。

 短冊は十数枚ほどあるが、明珠の願いは四つだ。


「英翔様は、お書きにならないんですか?」


 杯を手に、向かいに座った英翔に水を向けると、「ふむ……」と考え込む。


「書く気はなかったが、お前が書くのなら、一緒に書いてみるのも一興かもしれんな」


「はいっ! せっかくのお祭りなんですから、満喫まんきつしなきゃもったいないですよ!」


 幸い筆は二本ある。明珠が残りの短冊を全部差し出すと、


「こんなにはらん」


 と英翔が苦笑して一枚、引き抜く。


 自分の短冊を書きながら視線を上げると、英翔は生真面目な顔ですらすらと筆を運んでいく。


 背筋を伸ばし、筆を運ぶ姿は、お手本のように綺麗だ。きっと字も達筆なのだろう。


 書き終えた英翔が、満足したのか柔らかに微笑む。ふだん、大人びた表情か、いたずらっぽい表情しか見せない英翔には珍しい、優しい笑顔。


 視線を外せず、見つめていると、


「もう書き終わったのか?」

 と尋ねられる。


「あっ、ちょっと待ってください。もう少し……」


 最後の願い、「英翔様がいつも笑顔で過ごせますように」と、丁寧に書き上げる。

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