22 泣きたくなるほど嫌ですか? その1


(英翔様のばかっ! 張宇さんのばかっ! 季白さんのばかっ! 三人ともばかばかばかっ! 最低よ――っ‼)


 離邸のすぐ裏にある井戸のそば。掃除用具などを入れている物置の前に膝を抱えて座り込んで、明珠はひたすら心の中で主人と上司達を罵倒ばとうしていた。


 逃亡先に台所を選ばなかったのは、なけなしの理性が、逆上している時に、刃物がいっぱいの台所はまずいだろうとささやいたからだ。

 自室に戻れないとなると、あとは庭くらいしか、明珠に逃げ場はない。


(なによなによっ! 三人には大した問題じゃないだろうけど、私にとっては大事おおごとなんだから~~っ‼)


 ぎゅっ、と唇をみしめる。


 さっきから涙が止まらない。まるで、心の中に収まらない混乱と羞恥しゅうちが、涙の形をとってあふれているようだ。


 哀しいわけではない。だが、どうしても止まらない。


「……明珠?」


 少年らしい高い声に遠慮がちに名を呼ばれ、伏せていた顔を上げる。


「っ!」

 目が合った瞬間、英翔の顔が傷ついたように歪む。


 同時に、まるで合わせ鏡のように明珠の心もずきりと痛む。


 傷つけた。英翔を。

 決して傷つけたくなどないのに。


 先ほどまで、あれほど荒れ狂っていた怒りは霧散むさんし――代わりに、英翔を傷つけた自己嫌悪に心が裂ける。


 今さら隠せるものではなかったが、手の甲と袖口で乱暴に涙をぬぐう。


「明珠、さっきはすま――」

「すみませんでしたっ!」


 英翔が何か言うより早く、体勢を変え、がばりと土下座する。


「……」

 英翔は無言だ。


(怒ってる……? そうよね。「何でもする」って言ったくせに、約束を破って逃げ出したんだもの……)


 しかも、あんなに傷ついた顔を英翔にさせてしまうなんて。最低だ。

 申し訳なさに顔を上げられないでいると、


「なぜ、お前が謝る?」


 怒ったような英翔の低い声が降ってきて、思わず身体が震える。


「は――っ」


 吐き出された深い溜息。

 衣擦きぬずれの音がし、気配で英翔が目の前の地面に腰を下ろしたのがわかる。


 が、口を開かない。黙ったままだ。


「英翔さ、ま……?」


 口もききたくないほど怒っているのだろうか。


 おびえながらも、沈黙に耐えかねて顔を上げた明珠の目に飛び込んできたのは。


「っ!?」

 まるで捨てられた子犬のような、今にも泣き出しそうに歪んだ少年の面輪。


「ど、どうなさったんですか!?」


 着物が汚れるのもかまわず、英翔ににじり寄る。


「……自分で、自分がわからん」

 うつむいて呟く英翔の声は苦い。


「元の姿に戻るためなれば、何だってする。たとえ、お前を泣かせることになっても。さっきまで、そのつもりだった。だが……」


 今にも泣きだしそうな顔を上げた英翔が、伸ばした指先で明珠のまなじりに残っていた涙をぬぐう。


「お前の泣き顔を見た途端、決意が揺らいでしまった」


 深く息をすいこんだ英翔が、突然、頭を下げる。


「謝らなければならないのは、泣かせてしまったわたしの方だ。……すまなかった」


 うなじが見えるほど深く頭を下げて謝られ、うろたえる。


「違います! 私が悪いんです! 何でもしますって言ったのに、約束を破ったから……っ。だからお願いです! そんな顔をなさらないでください!」


「そんな顔? どんな顔をしている? 今のわたしは?」


 いぶかしげに問われて、戸惑いながら口を開く。


「なんだか……今にも泣きだしそうな、不安そうな顔をなさっています」


「不安、か」

 英翔がわずかに口元を緩める。


「そうだな。これほどの不安を感じたのは、初めてだ」


 英翔が明珠に手を伸ばしかけ――、途中で、何かに気づいたように拳を握り込む。


「英翔様?」

 小首を傾げた明珠に返ってきたのは、不安を隠せぬ英翔の声。

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