19 今日のご飯はごちそうです! その2


 ガタタッ、と英翔の小柄な身体が椅子から崩れ落ち、卓に当たった拍子に、スープのわんが転がり落ちる。


 だが、誰もそんなことにはかまわない。


「どうなさいました!?」

「まさか、毒か!?」


「蟲です! 蟲が英翔様の中にっ!」


 英翔に駆け寄った明珠は、英翔を助け起こそうとする季白と張宇の間に、無理矢理割り込む。


 苦悶くもんに歪む英翔の蒼白な顔を見た途端、自分の中で何かが切れる。


「どいてっ!」

「なっ!?」


 季白と張宇を突き飛ばし、床に仰向あおむけになった英翔の太ももの上に、馬乗りになる。


 右手でふところの守り袋を、左手で口元を押さえる英翔の右手を引きはがし。


「《大いなる眷属けんぞくよ! 我は蜜、汝は蝶! いざ我の元へとく来よ! 蜜へいざなわれよ! その者を害すること許さんっ!》」


 呪文を唱えながら、わななく唇へ口づける。

 季白と張宇が息を飲む音が聞こえたが、かまってなどいられない。


(来て……っ! 英翔様の身体から出てきなさい‼)


 目を固く閉じて集中し、祈るように蟲に念じる。

 種類はわからないが、英翔の体内に侵入したのは、毒蟲の一種だ。


(誰が仕込んだかしらないけど……英翔様を害させたりなんて、させないんだからっ!)


 食事に仕込まれたのが、毒ではなく毒蟲なら、この場で対応できるのは、術が使える自分しかいない。


(おいで……。私の方へおいでったら‼)


 明珠の祈りに応えるように、右手で握りしめた守り袋が呼応し、熱を持った気がする。腹の奥がぞわりと波立つ。


 永遠のように長くて、短い数秒後。


 ぞる、と英翔の唇の間から、黒い蟲が頭をのぞかせた。

 前歯でくわえ、一気に英翔から引き出す。と同時に、蟲の頭をみ潰す。


 ぷちゅっ、と柔らかいモノが弾ける嫌な感触。


 噛み潰した瞬間、凝縮された呪が明珠の身体をむしばみ、全身が粟立あわだつ。


 内臓がひっくり返るような不快感。

 飛びそうになる意識を叱咤しったし、ぺっ、と床へ蟲の死体を吐き捨てる。行儀になんてかまっていられない。


 べしゃり、と床に吐き出されると同時に、溶けていくように蟲がぐずぐずと形を崩して、消えていく。


 しびれが残る口元から垂れる唾液だえきをぬぐう暇もなく、目を開け、英翔を振り返る。


 大人の明珠でさえ、全身の生気を持っていかれ、意識を失いそうなのだ。身体の小さな英翔は――!


「英翔様!」


 馬乗りになった英翔を見下ろそうとした瞬間、ぐるりと視界が反転した。


 床に仰向けになった眼前に迫った顔は、見慣れた英翔の整った面輪おもわではなく。


「大丈夫か!? 毒蟲を噛み千切るなど、なんという無茶を――っ‼」


 英翔の兄が、目の前にいた。


「口を開けろ! 毒が回っているやもしれん」


「な、なん……」

 問おうとした口元を、青年の大きな左手にふさがれる。


 青年が小声で何事か呟き、唇にふれた手のひらが温かくなったと思った瞬間、明珠の身体に巣くっていた悪寒が、跡形もなく消える。


「え、英翔様はどちらにっ!? どうしてお兄様がいらっしゃるんですか!?」


 青年の手が離れた瞬間、身を起こして尋ねる。


「兄ではない。わたしが英翔だ」


「っ!?」

 告げられた言葉に、頭が真っ白になる。


 明珠の腕を掴んで引き起こした青年――英翔が、明珠を抱き寄せ、頬や首筋にふれる


「おい、具合が悪いところはないか? もしまだ毒が残っていたら……」


 抱き寄せられた拍子に、青年のはだけた素肌にふれ、嫌でも初日の大失態が脳裏に甦る。


 混乱と羞恥しゅうちが一気に頂点に達し、思わず青年を突き飛ばす。


「っきゃ――‼」


(なんでこの人いつも着物がはだけてるの!? 英翔様っ! 英翔様はどこにっ!?)


「落ち着け!」


 青年がぐいと明珠を抱き寄せるが、逆効果だ。


 英翔と同じ香の匂い。だが、抱き寄せる腕の力強さも、胸板の厚さも、明珠が知る少年とは大違いだ。


「は、放してくださいっ! だって、英翔様が急にこんなに大きくなんて……っ。嘘です! 英翔様はもっとちっちゃくて可愛いです! 英翔様をどこに隠したんですかっ!?」


 混乱が頂点に達していて、思考がまとまらない。


「では、どうしたら信じてくれる?」

 真顔で問い返され、困って視線をさまよわせる。


 よく見れば、青年が着ているのは、さっきまで英翔が着ていた蚕家の紋付きの着物だ。

 身体が急に大きくなったせいで、身頃みごろがはだけ、手足がにょっきり突き出している。襟元が汚れているのは、さっき吐き出したスープだろう。


 端正な顔立ちも――似ているどころか、英翔が大人になったらこうなるだろうとしか考えられないほど、そっくりだ。


 理性ではわかる。だが、感情がついていかない。


「だ、だって、英翔様が大人だなんて……っ、もしかして、さっきの毒虫に何かの呪が仕込まれていたんですか!?」


「逆だ」

 見上げた明珠の目を真っ直ぐ見つめ返し、英翔が告げる。


「今の青年の姿が、本来のわたしだ。少年の姿の方が、呪をかけられた仮初かりそめの姿にすぎない」


「へっ?」


「というか、お前だろう。今といい、初日といい。わたしにかけられた呪を解いたのは」


「ええ――っ!?」

 両頬に平手打ちを食らった気分だ。


「じゃ、じゃあ……」


 順雪を思い出して、ほっこりしたのも、腹違いとはいえ、弟だから守らねばと決意したのも。甘えてきたあの可愛さも全部。


(嘘だったの!? 英翔様は、弟じゃなくてお兄ちゃん……っ!?)


「で、でもっ、つないだ英翔様の手は、ちゃんと小さかったじゃないですか!? 幻でもないのに、姿が変わるなんて呪、聞いたことがありません!」


 つないだ英翔の手の感覚は、しっかりと覚えている。抱きしめた小柄な身体も。


 言い返した瞬間、自分がまだ青年の腕の中にいることを思い出し、逃げようと身じろぎする。


「あの、放してくだ……」

「まだ信じてくれぬのか?」


 不意に、とさり、と床に押し倒される。


 間近に迫る、端正な面輪。


 さきほど、自室の寝台で英翔に押し倒された時と同じ体勢だ。だが、押さえる手の大きさがまるで違う。

 黒曜石の瞳が、いたずらっぽい光をたたえる。


「信じてくれぬのなら、今から先ほどの続きをして――」


「信じます信じます! だから放してください――っ‼」


 あ、これ英翔様だ。


 すとん、と心が納得する。

 こんな心臓に悪いいたずらを、心から楽しそうにする方、英翔様の他にいない。

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