19 今日のお昼はごちそうです! その1


 廊下へと出て行った英翔と季白が言い争う声が聞こえなくなってから、たっぷり百は数えて、明珠はそろそろと扉を押し開けた。


 しんと静まり返った廊下には誰もいない。


 まもなく始まる昼食では、食堂で嫌でも顔を合せなければならないのだが、せめてそれまでの短い間くらい、心穏やかに過ごしたい。


 せっかく動悸も、頬の熱さも落ち着いたというのに、今、英翔に会ったら、顔を見ただけで動揺しそうだ。


(ほんと、さっきの英翔様は、いったい何だったんだろう……?)


 英翔のいたずら好きは知っているが、さっきの英翔は、真剣この上なかった。


 射抜くような視線と、熱をはらんだ声を思い出すだけで、恥ずかしさに「わーっ」と叫んでどこかへ駆けだしたくなる。


(きっと、英翔様は何か誤解なさっているんだわ。それが何かはわからないけど……。きっと、そうに決まっている)


 間違っても途中で英翔や季白に会わないように、耳を澄ませ、足音を忍ばせて一階の食堂兼台所まで下りる。


 扉を開けると、まだ張宇は本邸から戻っていなかった。明珠の主観では、かなり長い時間が経っている気がしていたのだが、違ったらしい。


 茶の支度をしつつ、固く絞った布巾で食卓を拭き、はしさじ、小皿などを用意する。


 今日は祭りで特別な日だが、季白も張宇も酒を飲んだりはしないだろう。

 季白も張宇も呑めるクチだが、酔っては護衛の役目を果たせないため、離邸にいる間は、決して呑むことはないと、以前に聞いている。


 仕事もせずに酒ばかり呑んでいる父親に、二人の爪のあかでもせんじて飲ませたいくらい、立派な姿勢だ。


(順雪は、今ごろ何をしてるかな……? 私がいないから、灯籠は、誰か別の人が飾ったのかしら……? せめてお祭りの今日くらい、おいしいものを食べてくれていたら、いいんだけど……)


 実家に残していた順雪に思いをはせながら支度をしているうちに、張宇が戻ってきた。

 張宇が抱えているのは、いつも以上に大きなひつだ。慌てて運ぶのを手伝う。


 張宇が櫃のふたを取った途端、思わず歓声を上げる。


「うわあっ、すごい……っ! さすが、『昇龍のお祭り』のごちそうですねっ!」


 大皿に盛られた料理は、どれもこれも凝っていて、おいしそうだ。


 飯店はんてん厨房ちゅうぼうで働いていた経験があるので、貧乏人の割に、料理にはくわしいと自負している明珠だが、張宇が取り出す皿には、見たこともない料理もある。


 張宇を手伝い、二人で小皿に料理を取り分けていく。途中で、憮然ぶぜんとした表情の英翔と、苦虫を噛み潰したような顔の季白が、食堂に入ってきた。


「あっ、英翔様! すごいですよ、今日のごちそう! さすが蚕家ですねっ!」


 反射的に、笑顔で声をかけ――、先ほどのやりとりを思い出して、ぎこちなく動きが凍る。


 が、明珠の心情を察したらしい英翔は、いつも通りのいたずらっぽい笑みを浮かべた。


「そうか。明珠がそこまで喜んでいるのなら、きっと美味いのだろうな。楽しみだ。あんまり急いで食べ過ぎて、喉を詰まらせるなよ?」


 ふだんと変わらぬ様子を見せてくれる英翔に、感謝の念が湧くが……年下の英翔に気を遣わせるなんて、情けない。

 だが、助かったのは確かだ。


「英翔様は、もう少しお肉をつけるために、しっかり食べられた方がいいと思います!」


 英翔に小皿を差し出そうとして、そういえば、本邸からの料理は、毒見が必要だったと、手を止める。


「……今日は、かなりの量だし、あまりに冷めてももったいないしな。今日は、俺と明珠で、手分けして先に食べよう」


 明珠の戸惑いを読んだかのように、張宇が優しく声をかけてくれる。


「はいっ。では、お先にいただきます」

 席に着くと、一番、手近にあったスープの器を手にとる。


 乳白色のスープは、とろみがつけられていて、中に肉や飾り切りにされた野菜がたっぷり入っている。


 離邸に持ってくるまでにほどよく冷めたスープを一口飲むと、深みのある味わいに、思わず感動を覚える。いったい、何種類の具材が煮込まれているのだろう。蚕家の料理人の手間と矜持きょうじを感じさせるおいしさだ。


「おいしい……っ」

 蚕家に奉公できたことを心から感謝し、次の料理に箸を伸ばす。


「うまそうに食べるお前の顔を見ていると、食べなくても満足できそうだな」


 茶を飲みながら、明珠の食べる様子を見ていた英翔が、笑みをこぼす。

 明珠は驚いて英翔を見返した。


「英翔様!? こんなおいしいお料理を食べなかったら、悔やんでも悔やみきれませんよ!? しっかり食べて、いっぱい大きくなってください!」


「わかったわかった。だが、これほど多くては食べきれん。明珠、お前のおすすめは?」


「どれもこれもほっぺたが落ちるほどおいしいです! でも、そうですね……。このスープは特に絶品ですよ。絶対に食べてください!」


「よし、手分けして、すべての皿の料理に口をつけましたから。英翔様もどうぞお食べください」


 張宇の言葉に、英翔と季白も箸を取る。季白は、先ほどからずっと、憮然とした表情で黙ったままだ。


 季白に説教をされて、せっかくのご馳走を台無しにしたくない。明珠はそそくさと箸を動かす。


 大きな鯛の姿焼き、豚肉と野菜の炒め物、蟹入りのあんかけがかけられた炒飯、春野菜の五目煮、何種類もの点心……。


 まるで夢でも見ているようだ。いや、夢の中でもこれほどのご馳走は見たことがない。


 明珠の健啖けんたんぶりを見ていた英翔が、自分も料理を口に運ぶ。子どもながら、その所作は洗練されていて、気品がある。


「ふむ。明珠が言う通り、どれも美味いな。だが……」

 いたずらっぽく微笑んだ英翔と、視線が合う。


「わたしは、明珠の料理の方が好きだぞ?」

「っ!?」


 さらりと告げられた言葉に、衝撃を受ける。


「……え、英翔様って……、もしかして味オンチなんですか!? いつでもこんな豪華なお料理が食べられる御身分なのに、なんてもったいない……っ!」


「ぶはっ! ……げほっ、げほっ!」


 吹き出した張宇が、食べ物が変な所に入ったのか、盛大に咳き込む。黙々と箸を動かしていた季白が、眉をひそめて口を開いた。


「汚いですよ、張宇」

「そうだ。本物の味オンチのお前に、笑われるいわれはない」


 張宇を睨みつけた英翔が、スープの匙を口へ運ぶ。


 不意に、言いしれない悪寒を覚えて、明珠は英翔を見た。

 唇にふれた匙の中で、何か小さいモノが蠢いた気配がし――、


「英翔様!?」


 明珠が叫んだのと、スープを飲み干した英翔が、口を押えて呻いたのが同時だった。

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