18 あなたのためなら、もう一度 その3


「どうなさったんですか? 今日の英翔様は、何だか、やけにあせって苛立いらだってらっしゃる気がします。いつもの英翔様らしくないですよ。何か、理由があるなら――」


「わたしらしい、か」


(あ、やばい)


 何がやばいかわからないが、本能的に危険を察知する。


 英翔の声は、炎が瞬時にてついたかのようだ。冷ややかで荒々しい怒りが、黒曜石の瞳の中で揺らめいている。


「いつものわたしだと? お前が、一体わたしの何を知っているというんだ? わたしは――」


「知りませんよ!」

 主人への礼儀も忘れ、英翔の言葉をぶった切る。


「英翔様とお会いしてからまだ五日ですもん! まだ知らないことばかりです! だから――」


 明珠はもう一度、手を伸ばし、英翔の右手を両手で握る。


「だから、何に怒ってらっしゃるのか、ちゃんと教えてください! 私に至らないところがあれば、直すように努力しますし、季白さんが厳しすぎるなら、私からも……言うだけ無駄な気はしますが言ってみますし……。とにかくっ! 私にできることがあるなら、ちゃんと言ってくださいっ! 怒ってらっしゃるだけでは、何もわかりません!」


「教えてください、か」


 不意に英翔が明珠が両手でつかんだ右手を突き出し、左手で肩を押す。


「わ……っ」

 上半身がぽすんと寝台の上に仰向けになる。


 ぎし、と寝台がきしんだと思った時には、寝台の上にのぼった英翔が、明珠の腰の辺りに、馬乗りで膝立ちになっていた。


「英翔さ――」

 呆気あっけにとられて呟いた呼びかけを、熱のこもった英翔の声が封じる。


「教えてというのなら、お前こそ、教えてくれないか?」


 英翔が左手をついて前かがみになる。

 後ろで一つに束ねた長い髪が落ちかかる。強くなる香の匂い。


 まるで飢えた獣のような黒曜石の瞳から、目が離せない。


「お前がその身に隠す秘密は何だ? どうすれば、もう一度あの奇跡を見せてくれる?」


 英翔が何を言いたいのか、明珠にはまったく見当がつかない。

 明珠が姉だと気づいているのだろうか。いや、英翔の性格なら、もっとはっきり指摘するだろう。


 喉がひりつく。

 自分より年下の少年のはずなのに、威圧感にのまれ、蛇ににらまれた蛙のように身体が動かない。


「明珠……」

 熱く飢えた声で名前を呼ばれる。


 目を閉じたいのに、吸い寄せられたように黒曜石の瞳から視線が外せない。


 これは誰だろう?

 英翔のはずなのに、英翔ではないようだ。

 むしろ、こっちのほうが、この状況がいったい何なのか教えてほしい。


「英翔、さま……?」


 問うように見返すと、英翔の口元に困ったような笑みが浮かぶ。


 いたずらっぽい光が目に浮かび、いつもの英翔だと安堵した瞬間。

 英翔が、明珠が両手で握ったままの右手を持ち上げ、明珠の指先にくちづける。


「っ!?」

「教えて、くれないのか?」


 吐息が指先をくすぐる。


「困ったな」


 困ったと言いつつ、英翔の声はどこか甘い。

 もう一度くちづけされ、英翔の手を握る指先に、思わず力が入る。


「教えてくれるまで、放せんぞ?」

 指先から離れた英翔の顔が、ゆっくりと降りてくる。


 息を飲むほど秀麗な面輪が大写しになり――、


「何をなさってるんですか――っ‼」


 季白の怒声とともに、引きはがされた。


 猫の子のように、えり後ろを掴まれた英翔が、勢いのあまり、寝台に仰向けに転がる。


「そろそろ昼だと思って来てみれば張宇はいないし、英翔様はっ、英翔様は……っ‼」


 額から角を生やしそうな勢いで怒鳴る季白の声が、憤怒ふんぬのあまり途切とぎれる。言いたいことがあり過ぎて、言葉にならないらしい。


 びききと額に浮かんだ青筋に、季白の血管の強度が心配になった時。


 やにわに、季白が英翔を横抱きにすると、足音も荒く部屋を出て行く。明珠が声を発する間もなかった。


 呆然と季白の背中を見送り、蹴り開けられた扉の揺れがおさまった頃。


「……夢……? さっきのは、夢だったのよ、ね……?」

 明珠は、呆然と呟く。


 うん、寝ぼけて見た夢に違いない。

 夢だろう。夢であってほしい。むしろ夢であれっ!


「なんだったのいったい……?」


 あんな英翔は、初めて見た。

 飢えた獣のような、渇望に満ちた瞳。どこか甘く響く、熱をはらんだ声。


 ……年下の少年とは、とても思えなかった。


 射すくめられるような恐怖など、順雪相手には、一度だって感じたことはない。

 もし、あのまま季白が来なかったら、どうなっていたのだろう。


「……英翔様とは、たぶん互角くらいの力だから……。きっと押し倒し返すなり、逃げるなりできたわよね、うん」


 押し倒し返すのはどうなんだ? とつっこんでくる理性の声は、聞こえないふりをする。


 何にせよ、今日の英翔は変なのだ。あれもきっと、いつものいたずらの一部に違いない。


 ……そう思わないと、羞恥心しゅうちしんに心がもたない。


「とりあえず、答えの出ないことを考えるのはやめよう。どうせ、後で季白さんに説教されるんだし……。いっときの心の平安くらい、取り戻さなくちゃ」


 うんうん、と一人で頷く。


「あー、今日の本邸のごちそうは何かなー。楽しみだなー」


 棒読みで、無理矢理、ごちそうへの期待へと思考をじ曲げ――明珠は、現実に向き合ってあれこれ思いわずらうのを、放棄した。

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