18 あなたのためなら、もう一度 その1


 夕暮れのあかさが血を連想させて、不安をあおる。

 足元から前方に長く伸びる影は、冥界の闇がにじみ出したような暗さだ。


 明珠は走り出したい気持ちを押さえこみ、隣を歩く順雪に歩調を合わせる。


 母の麗珠れいしゅを亡くしてからしばらく、順雪はそれまで何の苦も無く一人でできていた塾の行き帰りやお使いに、一人で行けなくなった。

 なので、順雪が外に出る時は、いつも明珠が手を引いて歩いたものだ。


 母を恋しがって泣く順雪の小さな手を握りしめ、「大丈夫。お姉ちゃんがいつでも、そばについてるからね」と慰めながら。


 懐かしく思い出して――これは夢なのだと気づく。


「順雪……」


 呼びかけ、手をつないで隣を歩く大切な弟の顔を見ようとする。

 夢の中でもいい。笑顔の順雪に会いたい。


 と、うつむいて歩く順雪が、明珠の手をぎゅっと握り直す。

 順雪らしくない、強い力。


 はじかれたように、もう一人の大切な腹違いの弟の顔が脳裏をよぎり――、


「えい……きゃああっ!」


 目を開けた瞬間、呼びかけようとした少年の顔が間近にあって、明珠は心臓が喉から飛び出しそうになった。


「なっ!? なななななっ」


 現状が理解できず凍りついている間に、英翔の額が、こつんと自分の額に当たる。


「……熱はないようだな」

「っ!」


 ふれそうに近い唇かられた吐息が肌をくすぐり、思わず唇をかみしめる。

 英翔の声は、腹立たしいほど冷静だ。


「え、英翔様! 熱を測るなら、手ですれば……。っていうか、熱なんて、ありませんから」


 見惚みほれそうなほど綺麗な顔が不意に目の前に現れるのは、心臓に悪いことこの上ない。


 文句を言いながら、身を起こす。まだ、頭がくらくらする。

 ふらついたところを、英翔が支えようと手を伸ばす。


「あ」

 身体を支えようとした右手に力が入らず、とさりと英翔の胸に倒れ込むと、意外と力強い腕に支えられた。衣にきしめられた香の匂いが鼻をくすぐる。


 一瞬、英翔の兄に会った時のことを思い出し、うろたえそうになるが、少年らしい肉づきの薄い胸が、順雪を連想させ、逆に落ち着きを取り戻す。


「無理をするな。気分が悪いなら寝ておけ。まだ、顔色が悪いぞ」

「だ、大丈夫です」


 本当は大丈夫ではないが、寝台に上半身を起こしてしっかり座り直し、言い切る。

 不安そうに明珠を見つめる顔を見ては、「大丈夫じゃない」とは、口が裂けても言えない。


「明珠! 気がついたのか? 何か、すごい声が聞こえたが……」

 張宇があわただしい足音で戸口に姿を現す。


「すみません。少し寝ぼけてしまって……」


「それならいいんだが、もう起きて大丈夫なのか? 顔色がよくない。もう少し、横になっていてもいいんだぞ?」


 寝台へやってきた張宇が明珠に手を伸ばしかけ――ふれる寸前で、英翔に手首を掴まれる。


「張宇。戻ってきたのなら、明珠も起きたことだし、そろそろ本邸へ行ったらどうだ? 今日は祭りだから、本邸の祝い膳なのだろう?」


 英翔が不機嫌に張宇に命じる。


「ああ、そろそろ昼前ですね。では、季白と交代して――」


「張宇。お前相手にまで、主人がわたしか季白か、かねばならんか?」

 英翔が苛立ちもあらわに冷たく問う。


「俺のあるじはもちろん英翔様です。「まで」ってことは、すでに明珠とやりあったんですね」


 苦笑した張宇が、仕方がないなあ、とばかりに困った表情で頭の後ろに手をやる。


「……季白に説教を食らう時には、援護してくださいよ」


 では、本邸に昼飯を取りに行ってきます、と張宇が部屋から出て行く。

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