12 涙の理由 その3


「……で。明珠の事情はわかったが、それでなぜ、お前が明珠を抱きしめる必要がある?」


「あ、そこまだ納得してらっしゃらないんですね」

 英翔に険しい目で睨みつけられ、思わず苦笑する。


「その……」

 どう話したら英翔を怒らせずに説明できるかと考えを巡らす。


「明珠が本邸の奥へ忍び込もうとしていたので、捕まえた時に、少し怯えさせてしまいまして。とりあえず、本邸を出て事情を聞くからと連れ出して、作業をしながら事情を聞いているうちに、明珠が泣き出してしまって……。ふらついたところを支えて慰めただけで、英翔様がお怒りになるようなことは、まったくしていません! 誤解です」


「明珠が本邸に忍び込んだ?」


 険しい顔で反応した季白を横目に、張宇は静かな声で指摘する。


「英翔様。『兄上』が本邸にいると、明珠に話されましたね?」


「あー……」

 英翔が頭痛を覚えたように、額を押さえる。


「言った。確かに言った」


 季白と張宇の責めるような視線を受けて、英翔はやけになったように声を荒げる。


「仕方ないだろう。他にどう言えと!? まさか、明珠が本邸の奥へ忍び込もうとするとは、予想できんだろうが」


 はあ、と椅子の背にもたれた英翔が、疲れたように吐息する。


「……まったく。あの娘は、思考も行動も、まったく予想できんな」


 英翔自身は気づいているのだろうか。

 呟く英翔の表情は、どことなく楽しげだ。


「英翔様の作り話は、さほど害にはなりませんでしょう。明珠にはもう、本邸に忍び込む理由もありませんし。ただ一つ、気がかりが」


「何だ?」

 声を落とすと、英翔の目にも厳しさが戻る。


「偶然かと思いますが、本邸の奥に忍び込んだ明珠が、蚕遼淵さんりょうえんの息子、清陣せいじんと接触しました。明珠を連れ出す際に、俺も顔を見られています」


「明珠が蚕家の密偵という可能性は?」

 季白の問いに、張宇はちらりと英翔を見て、口を開く。


「俺が見たところ、偶然のように見受けられました。その……見つけた時、清陣に迫られて、困っている様子でしたので」


 ひやり、と英翔から冷気が立ち昇った気がして、首をすくめる。


 一気に室温が下がる。まるで真冬に戻ったかのようだ。

 英翔が、黒曜石の瞳に刃のような冷たい怒りを宿し、淡々と告げる。


「蚕清陣と言えば、まだ若いが、酒好き女好きと、ろくでもない噂ばかりらしいな?」


「は、左様で」

 季白が英翔と視線を合さず、短く答える。


「遼淵がわたしを裏切ることは、おそらくあるまい。あれは変わり者だ。わたし以上の好条件を提示されぬ限り、わたしに手は出さぬだろう。だが……。蚕家も一枚岩ではあるまい。ここ十日ほどは穏やかに過ぎたが……。襲撃の失敗を挽回しに、そろそろ次の刺客が来る頃かもしれん。くれぐれも用心しろ」


「「はっ」」

 張宇と季白はそろって首肯する。


 顔を上げて英翔に厳しい目を向けたのは季白だ。


「用心とおっしゃるのでしたら、英翔様こそ、お一人でふらふらと出歩かないでくださいませ! 特に、いまだ怪しさの解けぬ明珠と二人きりでいるなど、もってのほかです! 英翔様が自ら危険に飛び込まれては、守れるものも守れません!」


 従者として、至極まっとうな苦言を呈した季白に、英翔は鬱陶しそうに顔をしかめる。


「それについては、聞かぬ、とすでに何度も言っているだろう」

「ですが……っ」


 抗弁する季白を手で制し、英翔は張宇に視線を向ける。


「いい機会だ。明珠と一番接している張宇の意見も聞こうではないか」


 英翔と季白の視線を受け、張宇はこの三日間、明珠と掃除をしたり料理をした時間を思い出す。

 張宇の目から見た明珠は。


「……たしかに、あの性格やふるまいが演技だとしたら、稀代きだいの役者でしょうね。しかし」


 喜色を浮かべた英翔が口を開くより早く、続ける。


「季白の心配ももっともです。家令の蚕秀洞さんしゅうどう殿に簡単な身元確認はお願いしたものの、裏は取れていません。明珠が特異な存在であることは確か。むやみに警戒を解くのは、時期尚早かと」


 しいて生真面目な言い切った張宇は、ふ、と息を吐いて笑う。


「まあ、そばで見ていて飽きない娘なのは確かですが」


「よりかかられて悪い気はしない程度にはか?」


「英翔様! あれは誤解ですと……!」

 にやりと笑った英翔にからかわれ、唇をひん曲げる。


「からかっただけだ」

 楽しげに笑う英翔を、不思議な気持ちで見つめる。


 たしかに、くるくるとよく動く表情といい、明るく活発な性格といい、明珠は魅力的な娘ではある。

 今まで英翔の周りにいなかったたぐいの娘であることも確かだ。


 だが、それだけで、英翔がこれほど心を砕くものだろうか?


 張宇には、どうしても信じられない。


 やはり、出会った日に明珠が見せたことが、英翔の興味を引いているのだろうか。


「明珠の正体を知りたいのはわたしも同じだ。張宇、一緒に作業する時間は、お前が一番長い。何か気づいたことがあれば、ささいなことでもいい。すぐに報告しろ」


「かしこまりました」

 敬愛する主の命に、張宇は深く頭を下げた。

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