12 涙の理由 その2


「つまり。明珠は英翔様……の、兄上の着物を汚してしまったことを、ずっと気にしていたんです」


 先ほどまで英翔と季白がいた図書室。

 四人が席に着くなり、張宇は開口一番に結論から告げた。


「……は?」

 英翔が珍しく、間の抜けた声を出す。


 代わって口を開いたのは明珠だ。涙はひとまず引っ込んでいるが、目はまだ潤んでおり、鼻も赤い。


「実は……。わたし、塀を乗り越えた時に、英翔様のお兄様のお召し物を、汚してしまったんです」


 実はも何も、張宇も英翔もとうに知っているが、あえて何も言わない。


「それで、弁償しないといけないと思って、いくらになるんだろうって不安になっていたところに、今朝、英翔様から『護り絹』のお話をうかがって、いても立ってもいられなくなって……」


 明珠の目に新しい涙が浮かぶ。


「め、明珠! 泣くなっ! 弁償なんてものはいらん!」


 あわてて口走った英翔に、明珠が「え?」と驚きの視線を向ける。

 英翔はこほんと咳払いすると、説明する。


「汚した服は護り絹ではなかったし、汚れは洗濯でちゃんと落ちた!」


 どちらも嘘だと、張宇は知っている。だが、英翔は明珠を見つめると、きっぱりと断言した。


「汚されたことを怒ってもいない。だから、お前が気に病んだり、弁償したりする必要は、全くないんだ! わかったか!?」


「は、はいっ!」

 反射的に背筋を伸ばして返事をした明珠が、おずおずと英翔を見る。


「あの、英翔様、本当に……?」

「くどい! わたしの言うことを信じられぬと!?」

「いいえっ、とんでもありません!」


 姿勢を正して、明珠がぶんぶんとかぶりを振る。


 英翔にとっては、『護り絹』の服を汚されたことなど。本当にどうでもよい――明珠が気にしているなど、思いもよらなかったことなのだろう。


 そもそも、今、英翔が着ている『護り絹』は、すべて借り物で、今では着る者もいないお古だ。汚されようと何だろうと、気にする物ではない。


 英翔が呆れたように明珠を見る。


「だいたい、泣くほど気にしていたのなら、なぜもっと早くわたしに相談しなかった!? そうすれば、気にすることはないとすぐに教えてやれたものを」


「そ、それは……」

 明珠がちらりと無言で押し黙っている季白を見て、身を縮める。


「着いて早々、大失態をやらかしたので、雇っていただけないんじゃないかと思って……」

 口を開きかけた季白を、英翔が片手で押し留める。


「お前の雇い主はわたしだ。わたしはお前達をクビする気など、これっぽちもない」


「英翔様……っ」

 明珠が嬉しそうに声を弾ませる。


「だからいいか!? 何かあれば、わたし相談しろ。わかったなっ?」

「わかりました! ありがとうございます!」


(いや、わかってないだろう、明珠)

 思わず突っ込みかけて、口をつぐむ。


 英翔の真意は明珠に通じてなさそうだが、英翔が満足したように頷いているので、まあよしとする。


「……今朝、急に顔色が悪くなったのは、そのせいなのか? 朝食を食べなかったのも?」


 英翔が気遣わしげに尋ねると、明珠がぺこりと頭を下げる。


「すみません、ご心配をおかけして。でも、英翔様のおかげで胸のつかえが取れました! 本当にありがとうございます!」


 明珠が、周りの心も明るくするような、花が咲くような笑顔を見せる。と。


 く~きゅるるる~。

 腹の虫が可愛く鳴って、明珠が真っ赤に頬を染める。


「すみません……っ」


 英翔が小さく肩を震わせる。


「食欲も戻ったようで何よりだ。台所に行って、腹に何か入れてこい。本邸の手伝いは後でもいいから」


 笑って促す英翔に、「でも……」と明珠が迷うそぶりを見せる。


「空腹で働いて、倒れられる方が迷惑だ。灯籠吊りなど、急ぎの作業でもあるまい。そうだろう?」


 水を向けられて頷く。

「明珠。英翔様の言う通りだ。先に何か食べてくるといい」


「張宇さんもそう言ってくださるなら……。すみません、失礼します」


 ぺこりと頭を下げた明珠が図書室を出て行く。その後ろ姿を見送って。

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