12 涙の理由 その1


「季白。なぜ、今日に限って窓の幕を閉めきっている?」


 機嫌の悪さを隠さず問うと、対面に座る季白が、書物から顔も上げずにさらりと答える。


「少し薄暗い方が、集中力が増すかと思いまして」


「はっ」

 英翔は軽蔑の声を吐き捨てる。


「昨日までは開けていただろうが」

 苛立いらだちに声の温度が下がっていくのが、自分でもわかる。


「余計な気遣いは不要だ。かえって苛立ちが増す」

「……かしこまりました」


 季白が立ち上がり、ぴったりと閉ざしていた窓幕を開ける。

 とたんに明るい日差しが図書室に入り込み、英翔はまぶしさに目を細めた。


 鳥のさえずり一つ聞こえぬ離邸は、英翔と季白が紙をめくるかすかな音以外に、音らしい音もない。


「今日は、やけに静かだな」

 呟くと、季白が意外そうに視線を上げた。


「そうですか? いつもこんなものだと思いますが」

 いぶかしげな季白の声に、ああそうか、と原因に思い当たる。


「明珠か。今日は明珠が外で作業をしているのだったな」


「ええ……」

 珍しく歯切れ悪く頷いた季白に、冷ややかな視線を向ける。


 季白の気遣いが、己の無力にささくれだった心には、逆に鬱陶しい。


「わたしを日付もわからぬ愚か者とあなどるか?」


「いえっ、決してそのようなことは……っ! わたくしの浅慮をお許しください」


 季白が深々と頭を下げる。

 答えずに、英翔は視線を本に戻した。


 読まねばと頭ではわかっているのに、気ばかり焦って内容が頭に入ってこない。

 英翔は吐息して、卓の上に置いてあった杯を呷った。すっかり冷めた茶が喉を通る。


 今日はやけに、明珠の顔が見たい。明るい笑い声を聞けば、心に鬱屈うっくつする苛立ちも、わずかな間は忘れられそうな気がする。


 英翔は己の思考に苦笑した。


 出会ってから、まだたった三日だというのに、明珠の声が聞こえないのを寂しく思うとは、我ながら、どうかしている。


 明珠は今頃、張宇と二人でせっせと灯籠の飾りつけをしているのだろうか。


 ふと、何かに呼ばれたように窓の外へ視線を向ける。予想した通り、張宇が支える台に乗った明珠が、灯籠を木の枝にぶら下げている。


 が――どこか、明珠の様子がおかしい。

 ふらつく足取りで明珠が台から下りる。


「おい季白。お前ちゃんと明珠の体調を確認……」

「はい?」


 遠目に、明珠の横顔に光る涙を見たと思ったのは、一瞬――。


「英翔様っ!?」


 がたたっ!

 季白が驚愕の声を上げて立ち上がる。


 その声も耳に入らず、弾かれたように英翔は窓枠を乗り越え、走り出していた。


  ◇ ◇ ◇


「ちょっ、明珠! 落ち着いて……っ」


 張宇の胸に寄りかかってきた明珠の柔らかな身体が、不意に離れる。


「明珠っ‼」


 張宇の視界に飛び込んできたのは、息を荒げ、この上もなく激昂した主の顔――。


 明珠を背に庇い、張宇を睨みつける強い眼差しに、ふと、目の前の方を、生涯の主と定めた遠い日のことを思い出す。


 が、今は過去にひたっている場合ではない。このままでは、張宇の未来が危うい。


「張宇っ、説明しろ! 何があった!?」


 張宇を睨みつける英翔の表情は、返答次第では斬りつけられそうだ。

 英翔に手を握られた明珠が、英翔の背後で泣きじゃくりながら、力無くかぶりを振る。


「あのっ、わた……っ、張宇さんに……」


「――張宇。何をした?」


 英翔の声は地底の底から響く、魔物のうなり声のようだ。

 背筋が凍える声に、張宇は必死で首を横に振る。


「英翔様! 誤解です! 俺はただ……っ」

「そ、です。張宇さんは、悪くありませ……っ。私が、勝手に……っ」


 明珠が張宇の弁明をしようとするが、逆効果だ。


 何をどう誤解しているのか、英翔の黒曜石の瞳が、さらに鋭く、研いだ刃のようになる。視線の剣に貫かれて、今にもあの世へ旅立てそうだ。


「め、明珠! 頼むから、少し口を閉じててくれないか!?」

「張宇!! 貴様まさか、明珠に人に言えないようなことを……っ!?」


 もし今、英翔の腰に剣があったら、張宇の首は、胴体と永遠におさらばしていただろう。


 万が一にも英翔に奪われないように、腰にいた剣の柄を押さえながら、張宇は必死に言葉を紡ぐ。


「英翔様! あなた様に誓って、俺は明珠に何もしていませんっ! 明珠が泣いているのは、元はといえば、英翔様のせいなんです‼」


「わたしの? ……いったいどういうことだ、それは?」


 予想だにしていないことを告げられ、虚を突かれた英翔が、ようやくわずかに冷静さを取り戻す。

 そこへ、離邸から駆けてきた季白がようやく合流した。


「英翔様! 窓から飛び出されるなんて、いったい何が……!? 張宇、いったい何をしたんです!?」


「あー、うん。そのやりとりはもう、英翔様と済ませたから。みんな、一度、中へ入りましょう。英翔様が納得されるまで、一からちゃんと説明しますから……」


「張宇! わたしも納得するまで引きさがりませんよ!」


 主人第一のあまり、ときどき極端に視野が狭くなる同僚を、生温かい目で見やる。


「うん、わかったから。とりあえず、明珠を泣かせっぱなしにはできないでしょう?」


 明珠を理由に使うと、英翔が戸惑ったように「まあ、そうだな」と頷く。


「泣くな、明珠」


 明珠を振り返り、涙をぬぐってやるさまは、先ほど怒気を向けていた人物と同じとは思えないほど、穏やかで、優しい。


 こんな英翔を見るのは何年ぶりだろうか。ずっと昔は、張宇の双子の妹達を慰めている姿を見た記憶があるが。


「張宇! 何をにやにやと笑っているのですか。話があるなら、さっさと言いなさい!」


 季白の声に我に返る。


「そうだ。話の内容次第では、ただではおかんからな」


 張宇を振り返った英翔の厳しい声に、あわてて片手で口元を隠す。

 緩んだ口元を見られて、またあらぬ誤解を受けてはたまらない。

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