11(幕間)酒乱の主人


「遅い! この愚図ぐずが!」


 罵声とともに顔目がけて飛んできた小さなさかずきを、薄揺はくようは、盆を持ったまま、避けずに受け止めた。


 避けるのは簡単だが、避ければ主人である清陣の機嫌がさらに悪くなるのは、これまでの苦い経験で嫌というほど思い知らされている。


 がっ、と額に当たった盃の痛みを、唇を噛んでこらえる。


 固い音を立てて床に落ちた盃が割れなかったことに安堵を覚える。


 割れていたら、また罵声が飛んでいたに違いない。かといって、落ちる前に受け止めても叱責されるのだから困ったものだ。


 薄揺は諦めの吐息を胸中に隠す。


 貧しい農家に生まれ術の才があるとわかったのが五歳の時。名門・蚕家に引き取られた時は、天にも昇る気持ちだったが。


 実際は、薄揺の才能はそれほど大したものではなく、同い年の蚕家の嫡男ちゃくなん、清陣の側用人としてこき使われる日々だ。


 薄揺の人生は、このまま、清陣の傲慢さにすり潰されていく日々なのだろう。


「遅くなって申し訳ございませんでした」

 感情を消した声で詫び、形通りの所作で頭を下げる。


 厨房ちゅうぼうから運んできた盆を卓に置く。盆の上に載っているのは、酒が入った瓶と盃だ。


 金で装飾された高価な杯に銘酒を注ぎ、差し出すと、清陣は乱暴な手つきで一気に酒をあおる。


 かんっ、と卓に置かれた盃が、胸がざわめくような固い音を立てる。


「くそっ、何者だ、あの男……っ。この俺を虚仮こけにしやがって……っ」


 酒臭い息とともに吐き出される言葉に、沈黙で答える。

 清陣が酒びたりで不機嫌なのは、いつものことだ。下手に口を出せば、次は酒を浴びせられるだろう。


「おい、薄揺。お前、今、離邸を誰が使っているか知っているか?」


 珍しく質問を投げかけられて、伏せていた視線を上げる。


 清陣が薄揺に問いを投げるのは珍しい。いつもは一方的に命じられるだけだ。


「離邸で、ございますか?」

 問い返しつつ、空いた盃に酒をつぐ。


「明珠と名乗った娘が言っていた。離邸で勤めていると……。あそこにあるのは本ばかりだ。若い侍女連れの術師でも泊まっているのか?」


 問い返した薄揺の声など聞こえていなかったように、清陣は再び酒を呷る。


 「まさか、その娘に手を出されたのではないでしょうね?」と問いただしたい衝動を、とっさにこらえる。


 清陣の不機嫌さからするに、おそらく逃げられたに違いない。そうであってくれと願う。


 清陣には知らされていないが、離邸には今、さる貴人が滞在しているという話だ。厳重に情報が伏されているため、薄揺ですら詳細は知らない。


 だが、万が一、清陣が貴人の侍女に手を出したとなれば、大問題に発展する可能性もある。そうなれば、側付きの薄揺もとがをまぬがれまい。


「くそっ、あの男……っ! 下男の分際で俺に手を出した上に、目の前から娘をかっさらいやがって……。覚えていろ、必ず思い知らさせてやる……っ」


 清陣が呪詛じゅその声を吐く。

 本来なら整っているはずの清陣の顔は、酔いと怒気にまだらに赤く染まっている。


「必ず、痛い目に遭わせてやるぞ。男も、娘もだ……っ」


 清陣が酒と怒りと欲情に濁った目を向ける。


「薄揺、離邸にいる奴はどんな奴なのか調べろ! 俺に手を出した報いを受けさせてやる……っ!」


「……かしこまりました。少々、お時間をください」


 胸中の感情を押し殺し、薄揺は頷いて目を伏せる。


 正直、調べたくなどない。清陣が何やら痛い目に遭ったらしいが、「誰かは知らぬが余計なことを」という鬱陶うっとうしさしか、湧かない。


 後を引き受けさせられる薄揺が迷惑するのだから、清陣に余計なちょっかいはかけないでほしい――清陣の性格だ。若い侍女を見つけて、自分から騒ぎを起こしたに違いないだろうが。


 清陣の命に、異は唱えない。反対すれば、清陣の怒りをぶつけられるのは薄揺だ。


 蚕家の嫡男として育てられ、当代随一の術師である当主・さん遼淵りょうえんの血を引く清陣は、術の腕だけならばたいしたものだ。


 その力が清陣の不興を解消するためだけに、薄揺に向けられるなど、絶対に御免だ。


 気の毒だが、離邸に客人に清陣の怒りをかぶってもらうしかない。

 淡々と考え、薄揺は自分の感情にふたをした。

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