10 潜入! 蚕家本邸! その2


(よし、ここまでは誰にも見つからずに忍び込めたけど……。家人のお部屋って、奥のどの辺りにあるのかしら……?)


 本邸の奥。人気のない廊下の隅で、明珠はきょろきょろと辺りを見回した。


 一人で本邸に来られたこの機会を逃すわけにはいかない。できれば、父の姿を遠目にでも確認して、何より。


(何としても、英翔様のお兄様にお会いしてお詫び申し上げて、弁償金を払える範囲に収めていただかなくっちゃ……っ!)


 青年が着ていたのが『護り絹』かどうかはわからない。だが、


(もし、『護り絹』だったら……)


 ぞっ、と足がすくんで、くずおれそうになり、自分を叱咤する。


(まだ聞いていないんだもの。最悪の事態の覚悟はしておくにこしたことはないけど、むやみに怯えてちゃ、心がもたないわ……。もしかしたら、洗濯で綺麗に染みが落ちてる可能性だってあるんだし……っ!)


 とにかく、一刻も早く青年に会って確認したい。

 この精神的重圧がずっと続けば、そのうち身体にも悪影響が出るだろう。


(それにしても、ほんっと蚕家って広いんだから……っ。かなり奥まで来たはずだけど、いったいどこに行ったら会えるのよ……っ)


 先日、家令の秀洞しゅうどうに会った時に通った廊下より、さらに装飾が豪華になっている。かなり奥まで来ているはずだ。


 蚕家は常に人手不足だと秀洞が行っていた通り、ここへ来るまで、使用人の姿はほとんど見なかった。


(いっそのこと、誰かが通りがかってくれれば聞けるのに……)


 玄関で正直に聞いてくればよかっただろうか。いや、それだと奥に行くのを止められていたかも……。と悶々としていると、不意に、廊下の先の扉の一つが開いた。


薄揺はくよう! 酒を取りに行くだけのくせに、どこで油を売っている!? さっさと――っ」


 乱暴な足取りで廊下に出てきたのは、二十歳すぎの青年だ。


 英翔と同じ、絹の衣を纏っているが――明珠を助けてくれた青年とは、似ても似つかない。

 ふつうにしていれば整っているだろう顔立ちは、怒りに歪んでいるせいで、そこなわれてしまっている。


「……?」

 明珠と目が合った青年が、目を丸くした。不思議そうに目をしばたいた様子に、妙に愛嬌がある。


 この青年が、英翔が「奴」と呼んでいた腹違いの兄だろうか?

 だが、今はそんなことにこだわっていられない。


 明珠は青年に駆け寄った。


「突然、失礼いたします! わたくし、離邸で勤めさせていただいております、楊明珠と申します。蚕家の御子息にお会いしたいのですが……」


「蚕家の子息は、おれだが」

 明珠の勢いに呑まれた様子で答えた青年に、言葉足らずだったと気づく。


「いえ、あなた様ではなく、同じ年頃の、もうお一方の……」


「蚕家の子息はおれだと言っているだろう。お前は、蚕家の子息を探して、ここまで入り込んだのか?」


 青年の顔立ちや口調には、良家の子息特有の傲慢ごうまんさが垣間見えるが、それほど悪い人物には見えない。


「はい、そうなんです。どうしてもお会いしたくて……っ」

 こくりと頷くと、青年が笑みを浮かべる。


「言をろうさずともよい。嘘をついておれの興味を引かずとも、素直に言えばいいのだ。さん清陣せいじん様に会いに来ました、と。照れて小細工を弄する姿も、それはそれで愛らしいが……。お前の容姿ならば、そんなことをせずとも、可愛がってやるぞ?」


「あ、あの……?」


 なぜだろう。清陣と名乗った青年と、まったく話がかみ合わない。


 明珠を頭から爪先まで見た清陣が、あざけるような笑みをこぼす。


「ずいぶん、質素な格好だな。だが、雛にはまれな美貌だ。近くの村の娘か? たまには可憐な野の花を摘むのも悪くない」


「?」


 清陣が、明珠の右手を取ったかと思うと、ずいっと身を寄せ、明珠を壁に押しつける。


「あの、清陣様? 私……」

 逃げ場を探して左右に振ったあごを、清陣にとらえられる。


「ああ、心配せずともよい。おれを楽しませてくれれば、後でちゃんと褒美をとらそう」


「な、何を――?」


 ゆっくりと近づいてきた清陣の身体を、押し返そうとする。

 酒臭い息が顔にかかって、思わず目を閉じた。


「あのっ、何か誤解なさって……っ」


 必死で押し返そうとするが、清陣の身体はびくとも動かない。が。


「明珠!」

 不意に、目の前に迫っていた圧力が消える。

 目を開けた明珠が見たのは。


「張宇、さん……!?」

 清陣の腕を後ろに捻りあげている張宇の姿だった。


「い、痛い! 何をする!? 無礼者っ!」


 清陣の声に、張宇がぱっと手を放す。たたらを踏んで離れた清陣が振り返って文句を言うより早く。


「失礼いたしました。この者は不慣れな新人。誤ってこのような奥まで入ってしまったのでしょう。わたしが持ち場に連れていきますので、これにて失礼」


 さっ、と見事な一礼をした張宇が、あっけにとられている明珠の手を引いて背を向ける。清陣が口をはさむ隙すら与えない。

 当然、手を掴まれた明珠は、ついて行くほかない。


「あ、あの張宇さんっ! 待って……っ」


 大股で歩く張宇を、小走りに追いかける。

 明珠を掴む張宇の手は、にかわで張りつけたようにゆるまない。


 顔を見なくても、張り詰めた背中を見ただけで、張宇がとんでもなく怒っているのがわかる。


 廊下の角を何度曲がったことだろう。

 明珠にはどこかわからぬ無人の廊下の片隅で、張宇が足を止める。


「張宇さ――っ!?」


 話しかけようとした途端、掴んだままの手を強く握られる。

 うめいた時には、背中が壁にぶつかっていた。


 どんっ! と顔の横に張宇が手をつく。反射的にびくりと身体が震わせ、目を閉じる。


 目を開けた時には、間近に迫った張宇の顔が大写しになっていた。


 いつも穏やかな張宇からは想像もつかない険しい眼差しに、息を飲む。

 ふだんの温厚さと、初めて見る武人としての姿との落差に、思わず震えてしまう。まるで抜身の剣を喉元に押し当てられたような威圧感に、膝が笑う。


「明珠。君は何者だ?」

 刺すような眼差しに息が詰まる。


「何を企んでいる?」


 重ねて問われて、明珠は唇を噛んだ。


 これほど激昂している張宇は、初めて見る。嘘をついたら、即座に腰の剣で叩き斬られそうだ。


 季白に言いつけられたことを破って、余計なことをしでかしたのは確かだ。だが――。


「わあっ! め、明珠っ!?」


 張宇の狼狽うろたえた声に、自分が泣いているのだと初めて気づく。

 にじんだ視界の向こうに、いつもの張宇に戻った顔が見える。


「すまんっ、怖かったか? 怯えさせてしまったよな? 怖がらせるつもりは……」


 あわあわと言いつくろう張宇に、ぶんぶんとかぶりを振る。


「ちが、違うんです。張宇さんのせいじゃ……。私……っ」


 説明したいのに、うまく言葉が出てこない。

 と、明珠を見つめていた張宇が、静かな声で問う。


「本邸の奥へ入り込んでいたのには、何か訳があるのか?」

 こくこくと何度も頷く。


「それは、英翔様に害を為すような――?」


 もしそうであれば許さぬ、と言わんばかりに、張宇の声が低くなる。明珠は必死でかぶりを振った。


「違います! 英翔様は関係ありません! わた、私が……っ」


「わかったわかった。問い詰めたりしないから、泣かないでくれ。女性の涙は、どうにも苦手だ。落ち着かない気持ちになる」


 張宇が、子どもをあやすように、ぽんぽんと頭にふれる。その優しい手つきに新しい涙がこぼれそうになって、明珠はあわてて手の甲で目元をこすった。


「だが、英翔様に仕える者として、君をこのまま放ってはおけない。いったいどんな事情があるのか、ちゃんと説明してくれるな?」


 強い声でさとすように言われ、こっくり頷く。


 ここまで来たら、隠し立てはできない。クビを言い渡されるかもしれないが、貴重な護り絹の服を汚したことを、正直に話すしかないだろう。


 覚悟を決めた明珠の強張った顔に気づいたのか、張宇がもう一度、優しく頭をなでてくれる。

 張宇の手は大きくて優しい。もし、張宇みたいな兄がいたら、さぞ自慢できるだろう。


「事情はわからないが、大丈夫だ。英翔様に害が及ぶ話でなければ、俺は明珠の力になるよ。せっかく一緒に働けるようになった仲間なんだ。一人で抱え込まずに、相談してくれていいんだぞ?」


「張宇さん……」


 だめだ。張宇の優しさに涙が止まらない。

 しゃっくりを上げながら、明珠は何度も頭を下げる。


「さあ、落ち着いたら、とりあえず灯籠を受け取りにいこう。離邸に戻ってから、話はゆっくり聞くから……」


 なだめようと、背中を優しくなでてくれる張宇に、明珠は何度も頷いた。

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