10 潜入! 蚕家本邸! その1


 結局、喉を通る気がしなくて、明珠は朝食の用意はしたものの、自分自身は食事を抜いた。


 いつもなら、多少、調子が悪くても、食欲が落ちないのが自慢なのだが、今朝ばかりは胸がいっぱいでご飯が入る余地がない。

 実家なら食費が浮いたと喜ぶところだが、無料のまかないが出る蚕家では、そうした喜びにひたることすらできない。


 三人が使った食器を洗い終わったところで、季白が台所に姿を現した。


「今日は別の仕事をしてもらいます」

「別の仕事、ですか?」

 首をかしげて問うと、季白が頷く。


「本邸へ行って――」

「本邸ですか!?」

 かみつくように聞き返すと、じろりと冷たく睨まれる。


「ちゃんと最後まで話を聞きなさい。本邸から、『昇龍しょうりゅうの祭り』の準備を手伝ってほしいと要望がありました。具体的な作業は、離邸の軒下のきしたや周りの木々に、灯籠とうろうを吊るすという内容です」


 一度言葉を切った季白は、ふう、と吐息して低く呟く。


「わたしとしては、離邸の周りに灯籠を飾りたくはないのですが……。宮廷術師を輩出する蚕家としては、手抜かりはできないのでしょう。ともかく、あなたの今日の仕事は、本邸へ行って灯籠を受け取って、張宇と一緒に離邸周辺の飾り付けをしてください。あ、張宇は今、英翔様のお相手をしているので、少し遅れます。張宇の足ならば、途中であなたに追いつくでしょう。あなたは先に出発しなさい。いいですね?」


「はい!」

 物差しでぴしりと線を引いたような季白の声に、思わず背筋が伸びる。


 『昇龍の祭り』とは、毎年、春に行われる、国中で一番盛大な祭りだ。


 建国神話によると、ここ龍華国りゅうかこくの祖は、天空に棲まう龍と、龍に愛された人間の娘との間に生まれた皇子だと言われている。その証拠に、皇族には、代々、龍の力が顕現けんげんするのだという。


 建国の日を祝って行われる祭りが、『昇龍の祭り』だ。

 二日間かけて行われる祭りの最終日の宵には、城下を見渡す王城の露台に皇帝と皇子達が姿を現し、その身に宿る龍の力の一端を、民衆に示すそうだ。


 宵闇を、町中に飾られた灯籠が照らす中、皇帝と皇子達が天へと放った龍の形の《気》が、光り輝きながら天空へと高く昇っていくさまは、この世のものだとは思えないほど、美しい光景らしい。


 もちろん、明珠は話に聞いたことがあるだけで、実際に見た経験はないのだが。


 『昇龍の祭り』が始まる前日には、国中の町が灯籠で飾られる。


 建国神話にちなんで、灯籠を飾りつけるのは、若い女性の役目とされている。離邸にいる女性は明珠一人なので、お鉢が回ってきたのだろう。実家にいた頃も、何度か灯籠吊るしの日雇いで働いたことがある。


 自分の家に二つ三つ飾るくらいなら、風情があっていいのだが、町中のあちこちに吊るすとなると、かなりの重労働なのだ。


「わかりました! すぐに本邸に向かいます」


「ちょっと待ちなさい」

 歩き出そうとした明珠は、季白に肩を掴まれた。


 節だった長い指を持つ手のひらが、額に押し当てられる。


「季白さん?」

 明珠の驚きを無視して、季白の手が額から首筋へとすべる。性格とは裏腹にあたたかな手がくすぐったい。


「……熱はないようですね。吐き気や腹痛などは?」

「ありません、けど……?」


 なぜ季白が急に体調の心配を? と考えていると、じろりと睨まれる。


「英翔様があなたの体調を心配してらっしゃいました。顔色も悪くはないようですが……。どこか具合が悪いところは?」


「だ、大丈夫です! 慣れない環境なので、少し疲れが出てしまっただけで! 英翔様には、大丈夫だとお伝えください!」


「なら、いいのですが。わたしは医術の心得があります。調子が悪いと思ったら言いなさい。心配せずとも、ただで診てあげますから。いいですか、くれぐれも無理はしないように! 倒れられたりしたら、そちらの方が迷惑ですからね!」


「季白さん……」


 ぶっきらぼうな声の裏に、心配する気配を感じ取って、感動に声が潤む。

 厳しく接され、説教されてばかりだと思っていだが、ただで診てくれるなんて、いい人だ。


 額を押さえた季白が、いらいらと続ける。


「まったく。小娘の顔色が悪いくらいで、英翔様は心配し過ぎなんですよ。どうせ、寝つきが悪かったとか、月のものだとか、そんな大したことのない理由でしょう? 英翔様がわざわざ心配する価値もない……どうしました? 顔が赤いですよ」


 ふるふると拳を握りしめて、明珠は背の高い季白を睨みつける。


「英翔様がおっしゃる通りです! やっぱり季白さんは破廉恥ですっ!」


「ちょっ!? いったい、英翔様から何を吹き込まれたんですかあなたは!?」

 あわてる季白を無視し、背を向ける。


 一瞬でも、いい人だと思った自分が浅はかだった。それに。


(つ、月のものとか、女性の目の前で言うなんて……っ)


 恥ずかしさに顔が熱い。

 離邸を出た明珠は、怒りに任せて、本邸への小道をずんずんと突き進んだ。


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