9 胃痛の原因は御神木? その2
「ん? 何だ。明珠からわたしに質問するのは初めてだな」
明珠に抱きついたままの英翔が、嬉しそうに見上げる。
「その……。英翔様のお兄様には、どうやったらお会いできるのでしょうか?」
尋ねた瞬間、英翔の目がすっと険しくなる。
冷ややかな眼差しに、何かしでかしてしまったのかと、鼓動が早くなり、背筋が凍る。
明珠から一歩離れた英翔が、厳しい声で問う。
「なぜ、その者に会いたいのだ?」
詰問口調に、失敗を悟る。
明珠の恩人である青年とは、あまり仲が悪くなさそうだと思ったのだが、違ったのだろうか。
「明珠? 答えられないのか?」
責めるような声音に、胸が締めつけられる。英翔を不快にさせるつもりなど、まったくなかったのに。
「どうしても、お礼とお詫びを申し上げたいんです! 助けていただいたのに、私、気を失ってお礼一つ申しあげられていなくて……。そのことがずっと気にかかっているんです!」
なぜ、英翔が急に険しい顔になったのかわからぬまま、必死に説明する。
本当は、着物を汚した弁償がいくらになるかが一番知りたいのだが、英翔に聞くのははばかられる。
「礼を言う……それだけか?」
英翔が疑わしげな固い声で問う。
「いえ、大変ご迷惑をかけたので、お詫びも……というか、そちらが本命といいますか……」
「なんだそんなことか。そのようなこと、気にする必要はない」
「気にしますよ! それに、気にするかどうかは英翔様が決めることではありませんでしょう!?」
英翔が、「ふむ」と腕を組む。
「残念ながら会えんな。あいつは……うん、本邸の奥住まいだからな。離邸にいるお前が会う機会はないだろう」
「そんな……っ」
がくりと肩を落とすと、
「そんなに会いたいのか?」
と英翔が首を傾げる。
「会いたいです!」
こくこくと頷くと、なぜか突然、英翔が破顔した。
さっきとはうってかわった晴れやかな笑顔に、心臓が跳ねる。
「明珠次第かもしれんな」
「え!? それってどういう……?」
尋ね返した明珠に、英翔はすこぶる楽しそうに、
「秘密だ」
「そんなっ! 教えてくださいよ!」
「駄目だな」
英翔が、突然、身を翻す。
「あっ、待っ――」
神木の太い幹の向こうへ回り込んだ英翔を追いかけようとして、はたと気づく。
このまま追いかけても、きっと追いつけない。
英翔と逆回りに走り出した途端、真正面からぶつかった。
「わっ」
「きゃっ!」
英翔のほうが勢いがよかった分、尻もちをついた明珠の上に英翔がのしかかる。
「すまん、ふざけすぎた」
あわてて英翔が身を起こそうとする。
初めて見るうろたえぶりがおかしくて、明珠は思わず吹き出した。
「大丈夫ですよ。痛くありませんでしたから。英翔様こそ、すりむいたりしていませんか?」
「ああ、大丈夫だ」
頷いた英翔が、明珠の頬に手を伸ばす。
「ようやく、いつもの明珠らしい顔になったな。明珠は、笑っている顔のほうがいい」
頬をすべる優しい指先がくすぐったい。人に頬にふれられたのなんて、何年ぶりだろう。
真っ直ぐ見つめてくる黒曜石の瞳に、居心地の悪さを感じて、視線を逸らす。
「そ、そういえば、この御神木って、桑なんですよね? 私、こんなに立派な桑は初めて見ました」
明珠の視線を追った英翔が、「ああ」と頷いて身を起こす。差し出された手に掴まって、立ち上がる。
着物についた土や草を払おうとしたが、英翔は明珠の手を握ったままだ。順雪を思い出させて、可愛らしい。
「蚕家の神木といえば、有名だからな。わたしも、これほど特異な神木は他に知らん」
「そんなに特別な木なんですか?」
問うと、英翔が驚いたように振り返る。
「知らないのか?」
「すみません、物知らずで……」
申し訳なさに肩を落とす。
おととい、ここへ来るまでの荷車で怪談めいた話は聞いたが、あれは真実ではないだろう。
英翔がごわごわした木の幹に左手で触れる。
「この桑は、解呪の力を宿しているんだ。並みの術師の術なら、この木にふれただけで、強制的に解呪されてしまう」
「そんなすごい木なんですか……っ! 解呪の力を持つ木があるなんて、初めて知りました」
感心すると同時に、御神木にふれた瞬間、なぜ
「神木の解呪の力は強力でな。神木の葉を食べた蚕が吐く糸にも、解呪の力が宿るため、『護り絹』と呼ばれる特殊な絹になる。蚕家は養蚕でも有名だが、この『護り絹』のおかげだな。神木の葉を食わせた蚕からとった絹で作った衣には、解呪の力が宿るため、
とうとうと話す英翔の説明を聞く内に、嫌な予感がひしひしと迫ってくる。
「あ、あの英翔様。蚕家の紋入りのその絹のお召し物って……?」
英翔が軽く頷く。
「『護り絹』で作られた服だ」
「も、もしかして、蚕家の方って、たいてい、その『護り絹』を着てらっしゃるとか……?」
「そうだな。術を使う時には支障が出るから、時と場合によるだろうが……たいていは着ているのではないか?」
「ち、ちなみに、『護り絹』って、いったいおいくらくらいなんでしょうか……?」
胃がきゅうきゅうと軋む音が聞こえるようだ。
だが、聞かないわけにはいかない。
英翔があっさりと告げる。
「糸の状態で、同じ重さの金より少し高いくらいだな」
「ひぃぃっ‼」
「どうした!?」
悲痛な叫びを上げた明珠を、英翔が驚いて振り返る。
「顔が真っ青だぞ!? 手もこんなに冷たくなって……っ!?」
つないだままの手を、英翔がぐいと引き寄せる。
「具合が悪いのか? ならすぐに季白に……」
「い、いえ、違うんです! 用事を忘れてたのを思い出して……すみません失礼します!」
英翔の手を振り払い、脱兎のごとく駆け出す。
先ほどから、おなかの辺りでぐるぐると不穏な気配が渦巻いていたが、もう限界だ。これ以上、聞いていたら、気を失ってしまうだろう。
おなかが痛い。恐ろしさに冷や汗がにじみ出る。
(どうしようどうしよう!? 私、とんでもないものを汚しちゃった……っ!)
英翔から逃げても、何一つ事態が快方に向かいわけではない。だが、今は英翔の絹の衣を見ていられない。
明珠は震える手を握りしめ、離邸へ駆け戻った。
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