9 胃痛の原因は御神木? その1


 明珠の朝は早い。実家にいた頃から、夜明けとともに起き出し、家事を始めるのが日課だ。その分、用がない限り、日暮れとともに寝る。そうすれば、余分な灯火代もかからない。


 蚕家に来ても習慣は変わらない。目覚めた明珠は、手早く着替え、髪を一つに束ね、窓を押し開けた。


 ひやりと澄んだ朝の空気が流れ込む。

 いつもなら、気持ちの良い朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、今日も一日頑張ろうと気合を入れるのだが――『昇龍の祭り』の二日前である今日だけは特別だ。


 死者が向かうという西の方角に向けて、手を合わせて瞑目めいもくする。


 ひとしきり祈ってから、明珠は、部屋を出た。


 廊下はまだしんとしている。英翔達が起き出すのはもう少し後だ。それまでに朝食の準備に取り掛かりたい。


 台所で昨日の残り水で顔を洗い、新しい水を汲んでこようと、空の桶を持って外の井戸へ行こうとした明珠は、裏口のかんぬきが外れているのに気がついた。


 季白が閉め忘れるなんてことはありえない。ということは、誰かがもう起き出しているのだろうか。

 桶を手に外へ出た明珠は、辺りを見回した。あざやかな緑色の衣をまとった人影が、神木の下にすぐ見つかる。


(英翔様、早起きだな……)


 昨日、英翔とは接触しすぎないようにと、季白にさんざん説教されたばかりだ。

 このまま静かに水を汲んで中に戻れば、気づかれない可能性は高い。が――、


(うーっ、朝から思いつめた顔で立たれてたら、気になって無視できないじゃないのーっ!)


 明珠は井戸のそばに桶を置くと、神木に近づく。数歩も行かない内に、気配に気づいたらしい英翔が振り向く。


 夕べもそうだった。英翔は人の気配に敏感だ。抱きつかれるまで、後ろから忍び寄る気配に気づかなかった明珠とは大違いだ。これでは「無防備だ」と言われても仕方がないのかもしれない。


「どうした、明珠。こんな朝早くに」


「私はいつも、このくらいの時間には起きて家事を始めています。昨日は遅かったようですのに、英翔様こそどうなさったんですか?」


 問い返すと、英翔は小さくかぶりを振る。


「眠りが浅くてな。今朝は少し早く目が覚めた。それだけだ」

「ですが……」


 先ほどの英翔の表情は、かなり思いつめているように見えた。ただ早起きしただけとは思えない。

 問いかける言葉を探している間に、英翔が目の前に歩み寄る。


「どうした? 今朝は目が赤いぞ。よく眠れなかったのか?」


 英翔の手が頬に伸びてきて、思わず一歩下がる。

 同時に、目ざとい方だな、と英翔の観察眼の鋭さに感心する。朝、しっかり顔を洗って、かなりごまかせたはずなのに。


「何でもないんです。ちょっと、哀しい夢を見てしまって」

 薄く笑ってごまかそうとしたが、駄目だった。


「哀しい?」

 黒曜石のような深い色の目で問うようにじっと見つめられ、観念する。


「今日は、五年前に亡くなった母の命日なんです。そのせいか、朝方、母が亡くなった時の夢を見てしまって……」


 話している間に声が湿り気を帯びてきて、あわててかぶりを振る。


「大丈夫ですよ! もう五年も前のことですし。少し感傷的になっただけです!」


 母を亡くした時のことを思うと、今でも哀しいが、英翔に余計な心配はかけたくない。しいて笑顔を浮かべると、いたわるような眼差しが返ってきた。


「無理せずともよい。わたしも五歳の時に母を亡くした。哀しい気持ちは、理解できる」


 淡々と告げられた言葉に、衝撃を受ける。


「そんな……っ。まだお小さい内にお母様を……。さぞ、おつらかったでしょうね」

 英翔は淡々としているが、たった五歳で母を亡くしたのだ。哀しくなかったはずがない。


 明珠が母を亡くした時、弟の順雪はまだ六歳だったが、母恋しさに毎日のように泣いていたものだ。明珠自身、一緒に哀しみを分かち合える順雪がいたからこそ、母の死から立ち直ることができた。


 幼い英翔は、頼りとする存在をうしなって、それほど心細かっただろう。腹違いの兄とは、哀しみを共有することもできなかったに違いない。


 英翔が明珠を見て、困ったように微笑する。


「つらくなかったと言えば嘘になる。が、明珠がそこまで哀しむ必要はない」


 手を伸ばした英翔にまなじりをぬぐわれ、自分が涙を浮かべていたことに気づく。


「だって、私が母親だったら、小さい子どもを残して逝かなきゃいけないなんて、つらくて心が引き裂かれそうに哀しいですよ! 五年前、私の母が死んだ時も、自分が病に侵されてつらかったにも関わらず、母は最期まで私と弟の身を案じてくれていました。きっと英翔様のお母様だって……」


 英翔が驚いたように目を見開く。


「……母の立場で哀しまれたのは、初めてだな」

 あくまで哀しみを表に出そうとしない英翔の手を、明珠は両手で握り締める。


「英翔様が難しいお立場なのは、おぼろげにしかわかっておりませんけど……。でも、前にも言いましたが、私の前では年相応に振る舞ってくださっていいんですよ? 母親代わりは無理でしょうけど、姉と思って甘えてくださっていいんですからね!?」


 言った瞬間、しまったと思う。

 「姉」なんて言葉は、出すつもりはなかったのに。


 だが、英翔の楽しげな笑みを見た途端、後悔は霧散する。


「……姉ができるのは、初めてだな」


「遠慮なさらなくていいんですよ。たとえば、一緒にお茶や散歩をしたりとか、他愛のない話をしたりとか。もちろん愚痴なんかも聞きますし、他言したりなんて決してしません! 寝つけない夜は一緒に寝る……のは季白さんに怒られるから無理でしょうけど、隣で子守歌を歌ってあげますし、寂しい日は、ぎゅっと抱きしめてあげますからね!」


 拳を握って力説した途端、英翔の頭が、こつんともたれてくる。


 抱きついてきた身体を、両手を広げて優しく受けとめる。明珠の身体に回された英翔の腕は、思っていたよりも力強い。


「……やはり、戻らんか」


「? どうしたんです、英翔様?」

 英翔がぼそりと謎の言葉を呟く。


 問い返した明珠に応えず、英翔は身を離して一歩後ろへ下がると、両手を広げた。


「ん」


 期待するようないたずらっぽい微笑みを浮かべ、英翔がうながす。その可愛らしさに思わず明珠は吹き出した。


「甘えん坊ですね」


 抱きしめると、衣にたきしめられた香の匂いが鼻腔をくすぐる。覚えのある香りに、自然と口元がほころんだ。


「英翔様とお兄様の衣にたきしめられた香は同じなんですね。ふふっ、腹違いとはいえ、やっぱりご兄弟だと好みが似るんでしょうか」


 急に英翔の腕に力がこもる。胸元に顔を近づけた英翔が、鼻をすんと鳴らし、


「明珠はさわやかな匂いがするな。梅酢か?」

「ふえっ!?」


 にやりと笑って言われた言葉に、瞬時に顔が火照ほてる。


「ちゃんと洗ってもらったはずなんですけど、まだ匂います!?」


 今日着ているのは、お仕着せではなく、実家から持ってきた着物だ。みっともないとあきれられただろうか。


 身を離そうとするが、英翔の腕は意外に力強く、ほどけない。

 英翔が楽しげに喉を鳴らす。


「冗談だ」

「もうっ、英翔様ったら! ひどいです!」


 頬をふくらませて抗議すると、英翔の笑みがさらに明るくなる。


「すまん。お前があまりに素直に応じるものだから、ついからかいたくなった」


 「怒ったか?」と可愛らしく小首を傾げられ、ずるいと思いつつかぶりを振る。


「怒ってませんけど……。でも、梅酢と言われると心臓に悪いです」


 呟いた明珠は、聞くのなら今がいい機会だと思いつく。英翔と2人で話せる機会を逃してはいけない。


「あの、英翔様。一つつうかがいたいことがあるのですが……」

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