8 甘い、あまい蜜の味 その2


 夜。残り湯で最後に風呂に入った明珠は、薄暗い廊下を歩きながら、「ほう」と幸福の吐息をついた。


(さすが蚕家。離邸にまでお風呂が備えつけられてるなんて……。今日もばたばたしたけど、一日の最後に湯船につかれるなんて、疲れも吹き飛ぶわ……)


 実家では、基本的に濡れた布で身を清めるか、行水くらいで、温かい風呂なんて、半月に一度くらいしか銭湯に行けなかった。


 ちなみに、湯を沸かしているのは張宇だ。

 湯殿の掃除は明珠がしたし、「重いから」と遠慮する張宇を説き伏せて水汲みや巻き運びも手伝ったが、焚きつけや火の番は張宇に任せてしまった。


 英翔の護衛である張宇に、下男の仕事をさせるわけにはいかないと反対したが、


「その……。年頃の娘さんに男が入っている風呂の火の番をさせるわけにはいかないだろう?」

 と、逆に説得されてしまった。


(張宇さんってほんとにいい人……)


「俺は『蟲語』を読めないからな。調べ物を手伝えない分、身の回りの雑事を引き受けているんだよ。こういう作業も嫌いじゃないしな」


 くったくない張宇の笑顔を思い出しながら廊下を歩いていた明珠は、いくつも並んでいる書庫の扉の一つが開いているのに気がついた。

 中から、蝋燭ろうそくのほのかな明かりが廊下へもれている。


(消し忘れかな……)


 贅沢ぜいたくなことに、離邸では床につく時間になっても廊下の蝋燭をすべては消さない。

 本数は減らすものの、歩くのに不自由しない程度の明るさは、一晩中、確保している。

 が、使っていない書庫は、毎晩きちんと消しているはずだ。


 書庫には貴重な資料が数多くしまわれている。消し忘れたろうそくで、万が一にでも火事が起こったら大変だ。


 開いた扉の隙間から書庫をのぞきこんだ明珠は、すでに寝たと思っていた英翔の姿を見つけて驚いた。


 こんな夜更けなのにまだ調べ物をする気なのか、一番風呂に入って夜着に着替えた英翔が、本棚の前で背伸びをしている。

 一番上の段の本を取りたいようだが、あと少しというところで指が届かないらしい。


 一生懸命、背伸びをしている姿が可愛くて、思わず笑みをこぼした明珠は、そっと扉を押し開けた。


 弾かれたように反応した英翔が、険しい眼差しで扉を振り向く。が、明珠の姿を見とめると、ほっと息を吐き出した。


「どうした明珠。こんな遅くまで」

「お風呂をいただいて、髪を洗っていたら遅くなったんです」


 説明しながら本棚に近づき、英翔が手を伸ばしていた辺りを見上げる。


「何色の表紙ですか?」

「薄緑だ。紺と朱色にはさまれている」


「あ、これですね」

 英翔より頭半分ほど高いので、苦も無く手が届く。


「どうぞ」


 差し出すと、英翔は無言で本を受け取った。形良い唇が不機嫌に引き結ばれている。


「あれ? この本じゃありませんでしたか?」

「いや、合っている。助かった」


 英翔の声はぶっきらぼうだ。と、本を持ったまま、急に英翔が距離を詰める。腹立たしそうな眼差しで、明珠の頭の天辺をにらみつけ。


「明珠、背はいくらだ?」

「え? 五尺と少しくらいだと思いますけど……」


 真正面から間近に迫った英翔の顔を見て、本当に綺麗な顔立ちだなと感心する。


 女の自分より愛らしい。もう数年も経てば、町中の娘の視線を一身に集めることだろう。季白や張宇も男前だが、英翔とは格が違う。


(腹違いの姉弟とはいえ、雲泥の差だわ……。私は母親似だって言われているけど、英翔様は父親と母親、どちら似なのかしら……?)


 しかし今は、秀麗な顔に不満そうな顔をたたえているのが、年相応で、なんとも可愛らしい。

 ねた時の順雪を連想させて、明珠はごく自然に英翔の頭を撫でた。


「心配しなくても大丈夫ですよ。英翔様は男の子ですもん。数年もしない内に、私の背なんて軽く追い越して大きくなられますから」


「知っている」

 考えを読まれたのがしゃくだと言わんばかりに、英翔が眉根を寄せる。


 「知っている」とはずいぶん自信にあふれた物言いだが、すこぶる英翔らしい。


 明珠は笑みを深くして絹のようにすべらかな髪を撫でた。と、不意に撫でていた右手を掴まれる。


「髪が乱れる」

「あ、すみませ――」


 謝ろうとした瞬間、英翔の手が伸び、洗った後、下ろしたままにしておいた髪を一房手にとる。


「髪を下ろしていると、雰囲気が変わるな」

「そうですか? 私は束ねている方が動きやすくて好きですけど」

「お前らしいな」


 笑みをこぼした英翔が、指先で優しく髪を梳く。


「綺麗な髪だ。わたしは下ろしているのも好きだぞ?」


 いつの間にか、英翔の顔からねた表情が消えている。代わりに浮かんでいるのは、いつものいたずらっぽい笑み。


「というか、いくら三月になって暖かくなって、風呂上がりとはいえ、その薄着はどうなんだ? 風邪をひくぞ。それとも――」


 英翔がもう一歩、明珠との距離を詰める。実家にいた時から愛用している――というか、冬用以外では一枚しか持っていない使い古した夜着に、居心地の悪さを感じた時。


「英翔様! 夜更けに勝手にお部屋を抜け出されては――明珠!?」


「ひゃっ!」

 突然、戸口に現れた季白の鋭い声に、身を縮める。


「騒ぐな、季白」

 英翔が前に出て、季白と明珠の間に立ちふさがる。


「いったい、こんな夜更けに何を――!?」


「気になったことがあったので、早いうちにと調べに来ただけだ。明珠は風呂を使った帰りで、会ったのは偶然だ」


 理路整然と説明する英翔の後ろで、明珠はこくこくと同意の頷きを返す。今回に限っては、季白に怒られるようなことはしていない……はずだ。


 と、英翔がそばの卓に本を置いたかと思うと、夜着の上に羽織っていた蚕家の紋が刺繍された上着を脱ぎ、振り返りもせず明珠に差し出す。


「まだ夜は冷える。羽織っておけ」

「大丈夫ですよ? 寒くなんてありません」


 なぜ急にそんなことを言い出したのか、と、きょとんと返すと、英翔は不機嫌に眉を寄せて振り返り、ぐいと上着を押しつけてきた。


「夕食はうまかった。お前が熱を出したら誰が食事を作る? わたしは張宇の飯などごめんだ」


「お気遣いありがとうございます。でも、英翔様の上着なんてお借りできませんよ! 絹じゃないですか、これ!」


 梅酢で汚した着物が頭をよぎり、明珠はぶんぶんと首を横に振って、必死で上着を押し返す。

 気遣いは嬉しいが、万が一、これまで汚したらと思うと、とてもではないが着るなどできない。


「私は大丈夫です! 英翔様が着ていてください!」


 明珠の抵抗が激しいと見て取った英翔が、季白に視線を向ける。


「では季白。お前が上着を脱げ」

「なぜわたしが!?」

「お前のは綿だろう?」


「あのっ、本当に大丈夫ですから!」


 明珠はあわてて割って入る。季白の上着だとしても、借りるなんてできない。


「私、すぐに部屋に戻りますから! お気遣いは結構です! 失礼します!」


 明珠は一息に言うと二人の前から逃げ出す。

 季白に借りを作るなんて恐ろしい目はごめんだ。


 ◇ ◇ ◇


 英翔は長い髪を揺らして逃げていった明珠の足音が消えてから、ようやく上着を羽織り直した。我知らず、溜息とともに愚痴がこぼれる。


「まったく……。無防備すぎるだろう。年頃の娘が、薄い夜着一枚で、男の前をふらふらと……」


「それも、何かの罠かもしれません。……色仕掛けをするには、絶望的に色気が皆無ですが」


 淡々と述べた季白が、英翔に疑わしげな視線を向ける。


「最近、周りに女っ気がなかったとはいえ、まさか、あんな小娘に色気など感じてらっしゃらないでしょう?」


「からかいがいはある娘だぞ。すぐに動揺して赤面するところが面白い」


 明珠とのやり取りを思い出すと、自然と口元が緩む。

 季白が信じられないとばかりに目を見開いた。


「英翔様!? 望めば、どんな美姫でも手に入れられるあなた様が、あんなちっぽけでつまらない小娘に興味を持たれるとは……!? やはり、どこか加減がお悪いのでは!?」


「黙れ。張宇の蜂蜜を壺ごと突っ込むぞ」


 英翔に対しても、明珠に対しても、この上なく失礼なことをのたまう季白に冷たく告げる。


 確かに、明珠はこれまで会った中で一番の美女というわけではない。美女など見飽きるほど見ている。だが。


「出会いが『あれ』だったんだ。興味を覚えない理由がどこにある? お前も明珠のことを気にしているではないか」


「当り前です! 刺客の疑いがある者を英翔様に近づけるわけにはまいりません! ついでに申し上げると、わたくしが彼女に持っているのは、「興味」ではなく、「猜疑さいぎ」と「警戒」です!」


詭弁きべんだな。それも一種の興味だろう?」


「いいえ! わたくしは正の感情は持っておりませんので」


 かたくなな口調で告げる季白は、とりつくしまもない。


 英翔も、ふだんなら季白の言を受け入れていただろう。素性の知れない侍女をそばに置き、しかも自分から接するなど、刺客に狙われている身ですることではない。だが。


 自分の手をじっと見る。


 明珠にふれるたびに我が身に流れ込む甘やかな感覚は、いったい何なのだろう。もっとずっと、明珠にふれていたくなる。


 まるで、寒さに凍える子どもが温かな毛布を求めるように。喉が渇いた旅人が泉を求めるように。


 甘い快感に、流されそうになる。


 人に対してこんな飢えを覚えたことは、これまで一度もない。自分で自分に驚くほどだ。

 季白や張宇に相談しても、気の迷いと断じられるのが落ちだろう。明かす気もない。


 昼間、明珠の手についた蜂蜜を舐めた時――、一瞬で酔いそうになったあの甘みが、蜂蜜のものか、それとも明珠にふれたからか、自分でも判断がつかないなどと、誰に話せるだろう。


「どうかされましたか?」

「いや、なんでもない」


 自分の手を握りしめる。

 柔らかで小さい、頼りない子どもの手。


 元の姿を取り戻すためなら、何だってする。


 この渇きは、明珠がその鍵を握る者だと、本能的に感じているからなのか。


「探していた本は見つかった。部屋へ戻る」


 一方的に言い捨て、卓の上の本を取って背を向ける。

 材料の欠片は見つかったが、具体的な方法はまだ闇の中だ。


(『昇龍の儀』まで、あと二日か……。間に合いそうには、ないな)


 胸中にわきあがる苛立ちや焦りを、決して季白に気取られぬよう、意志の力で押し込め、英翔は書庫を出た。

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