8 甘い、あまい蜜の味 その1
(どうしてこうなったの……?)
先ほど、自ら綺麗に掃除した台所。
本邸から運んできた大きな
手伝ってくれるという張宇は、とりあえずいい。
年上の男性、しかも上司を手伝いとして使うのはどうなんだという気もするが、それはひとまず置いておく。問題は。
「英翔様! どうして英翔様まで台所にいらっしゃるんですか!?」
流しなどがある台の後ろにある卓。
今、明珠と張宇が食材を並べている向かい側に座り、頬杖をついた英翔が、好奇心に目を輝かせて明珠を見ている。
正直、場違いなことはなはだしい。が、本人はまったく気にしてないようだ。
「わたしだけではないぞ。すぐに季白も来る」
「そういうことをうかがいたいのではありません! 英翔様と季白さんは、調べ物がおありなんでしょう? 台所にいらっしゃる必要はないじゃないですか!」
「いや、あるぞ」
きりっ、と英翔が大人びた生真面目な表情を作る。
「張宇が隙を見て蜂蜜や砂糖を料理にぶちこまないか、見張っておく必要がある」
「……張宇さんって、そこまで信用がないんですか?」
思わず、じっ、と張宇を見つめると、張宇はあわてた様子で首を横に振った。
「まさか! 明珠の料理に余計な手を出したりしないぞ」
慌てる張宇を楽しそうに見ていた英翔が、あっさり告げる。
「冗談だ」
「英翔様。ひどいです。俺の人格をおとしめるのはやめてください」
張宇ががくりと肩を落とし、英翔が明るい笑い声を上げる。明珠は微笑ましい気持ちで二人のやりとりを眺めた。
季白に対するのと、張宇に対するのでは、英翔の様子がずいぶん違う。
張宇が相手の時のほうが、年相応に無邪気だ。同じ年頃の部下と言えど、季白と張宇では人柄が大きく違うからだろうか。
それとも、季白が特別に英翔に厳しいからか。
ともあれ、明珠は英翔が年相応に振る舞える相手が身近にいることに安堵を覚える。
まだ短い付き合いだが、確かに張宇には人の心のこわばりを溶かすような穏やかさがある。
一番、一緒に作業する時間が長いからだろうが、明珠としても、三人の中で一番、気負わず話しやすい。
「英翔様に信じていだたけないなんて心外です。こうなったら、俺も誠意を見せましょう。俺の大切なこれを、明珠に預けます」
張宇がおもむろに、脇に置いてあった一抱えもある包みを開く。
中から出てきたのは、人の頭ほどもある大きな壺だ。ふたには封のための紙が貼られている。そこに書かれた文字を見た途端、明珠は驚きに息を飲んだ。
「張宇さん! そ、それは……っ。数ある蜂蜜の中でも最高級品と名高い、霊花山産の蜂蜜……っ‼ 私、初めて見ました!」
「おっ、明珠、知ってるのか?」
嬉しそうに張宇が応じる。明珠はこくこくと頷いた。
「話に聞いたことがあるだけで、実際に見るのは初めてですけど……。何でも、上品でくせがない甘みで、まるで黄金を溶かしたような綺麗な色だとか!」
「そうそう、うまいんだよ、この蜂蜜!」
「……お前の作る物がことごとく甘いのは、こいつのせいだったのか……。こんな大きい壺はないだろう、おい」
英翔は、一人うんざりした顔だ。
「えっ! これ張宇さんの私物なんですか!?」
「ん? そうだが」
明珠は両手で口を押え、尊敬の眼差しですらりと背の高い張宇を見上げる。
「すごい……。こんな高級蜂蜜を持ってるなんて、張宇さんってお金持ちなんですね……」
「……感心するところか、そこ」
英翔に冷静につっこまれても、興奮は冷めない。
「だって霊花山の蜂蜜ですよ!? 普通の蜂蜜の十倍の値段はするっていう……! ふわぁ……」
しかも、それがこんな大きな壺いっぱい。
感動して壺を見つめていると、にこにこと嬉しそうに笑いながら、張宇が封をはがす。
「いやー、英翔様も季白も、甘味には興味を示してくれないんだよなあ。明珠は甘い物、好きなのか?」
「大好きです! ……あまり、食べられる機会はありませんけど……」
「おい張宇。わたしは甘味が嫌いなわけではないぞ? お前みたいに、馬のように甘い物ばかり食えんだけだ」
英翔がふてくされたように呟くが、張宇は意に介さない。
「明珠は初めて見つけた同志だな! よかったら味見してみないか?」
ふたを開けた張宇が、手近にあった
「ちょっ! 張宇さん、こぼれますよ! もったいないっ!」
匙からしたたる蜂蜜を手で受け、右手で受け取った匙を急いで口に運ぶ。
口に入れた途端、ふわりと広がる上品な甘み。かすかに花の香気も感じられる。
「おいしい……っ」
心がうっとりとほぐれていく。
甘露とは、まさにこういう味を言うのだろう。こんなにおいしい物なら、大量に料理に入れたくなる気持ちも――明珠には金銭的に不可能だが――わからなくはない、気もする。
「そんなに美味いのか?」
感動に打ち震えていると、英翔がいぶかしげに尋ねてくる。
「あっ、英翔様も味見しますか?」
反射的に右手に持った匙を差し出しかけて、思いとどまる。
一度、口をつけた匙を英翔に使わせるわけにはいかないし、壺の中に突っ込むわけにもいかない。
「ちょっと待ってください。今、新しい匙を……」
「いや、わたしはこれでいい」
なぜか楽しげに笑って、英翔が明珠の左手をとる。かと思うと。
「っきゃ――!!」
柔らかく、湿ったものが手のひらの上をすべる。手のひらについていた蜂蜜を
「ななななななになさるんですかっ!?」
英翔の手を振り払い、胸の前で両手を握りしめる。
心臓がばくばく鳴って、口から飛び出しそうだ。一瞬で、顔中が燃えるように熱くなったのがわかる。
恥ずかしさに涙目で睨みつけるが、「ふむ。なかなか美味いな」と呟く英翔は平然としたものだ。
「明珠が言ったんだろう? こぼしたらもったいない、と」
「言いましたけど! でも、英翔様がな……なめっ、なめ……っ」
動揺のあまり、口がうまく動かない。明珠とは打って変わった冷静さで、英翔が楽しげに喉を鳴らす。
「顔が真っ赤だぞ。熟れたスモモみたいだ」
「どなたのせいだと思ってるんですか! 英翔様の……は、は、破廉恥っ!」
「ぶはっ!」
呆気にとられた様子で二人を見ていた張宇が吹き出す。
「季白に続きわたしまでもか。……季白はともかく、わたしが破廉恥と評されるのは不本意だ」
「季白はいいんですか?」
張宇の突っ込みを無視して、英翔が不機嫌に顔をしかめる。
「破廉恥とまではいかないが……。そういう明珠こそ、無防備に腕を出しているではないか」
「へっ? 腕ですか?」
掃除の時と同様、今も動きやすいように、腕まくりをして、たすきをかけている。女性が肌を露出させるのは、はしたないとされる風潮は、明珠も知っている。が。
(……たすきがけと手を舐めるのは、同列じゃないと思う……)
「英翔様はご存じないかもしれませんが、庶民なら家事の時、腕を出すのはふつうです、ふつう! 動きやすいですし、何より袖を汚さなくてすみますもん! 家事をしていると、袖って意外と汚れるんですよ」
「今着ているのはお仕着せだろう? 洗濯だって本邸がする。それほど気にせずともよい」
「気にしますよ! お借りしている服なら、汚したら余計に申し訳ないじゃないですか! ……と、すみません。お仕着せ、用意していただいてありがとうございました。お礼を申し上げるのが遅くなってすみません」
深々と頭を下げる。朝一番に張宇がお仕着せを持ってきてくれた時に、張宇には礼を言ったのだが、英翔にはまだ言えていなかった。
「いや、その程度のことなど気にするな。だが……」
英翔はまだ渋面だ。
「いくら便利とはいえ、年頃の娘がそんな無防備に腕を出すべきではないだろう。張宇もそう思わないか?」
急に話を振られた張宇が、びくりと反応する。
「えっ、ここで俺に振るんですか? その話題を?」
肘の上まで袖をめくり上げている明珠に視線を向けた張宇が、うっすらと頬を赤らめて、気まずそうに視線を逸らす。
「でもまあ、英翔様のおっしゃりたいこともわかりますが……」
英翔の目が剣呑な光を宿す。
「張宇。お前もう、明珠の手伝い禁止だ」
「えっ、困りますよ! 高い所の掃除とか、張宇さんにいっぱい助けてもらってるんですから!」
張宇より早く、明珠が反論する。
さっきも不機嫌だったが、今はさらに輪をかけて不機嫌になっている。いったい急にどうしたのだろう。
当の張宇は、あせあせと弁明する。
「あの、英翔様。今は指摘されたので思わず意識しただけですからね? 別にふだんは意識しているとかそういうわけでは……」
「明珠。張宇が何かしたらすぐに言えよ?」
「英翔様! 真顔で冗談はやめてください! その冗談はたちが悪いですよ!? 明珠が本気にしたらどうするんですか!」
張宇がふだんは穏やかな目を険しくする。英翔は真顔で突拍子もないことをいうので、本気か冗談か判断がつかない。
「冗談ではないぞ? 明珠は無防備すぎるところがあるからな。少し警戒するくらいでちょうどいい」
「そんなことないですよ! これでも、実家では近所の人達にしっかり者と評されていたんですよ!」
心外だ、と抗議すると、英翔は「はっ」と小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「それはずいぶんと買いかぶった評価だな。現に、さっきだって、簡単にわたしに後ろをとられていたではないか」
「……何してらっしゃるんですか、英翔様」
張宇が呆れ声を出す。年下の英翔に小馬鹿にされて、明珠はむきになって反論した。
「あれは英翔様が急に後ろから抱きつくからです! あんなの反応できませんよ! そもそも、張宇さんは貴公子ですから、英翔様みたいな真似なんてなさいません!」
ぴくり、と英翔の眉が動く。
「ちょっと待て。その言い方だと、わたしは貴公子ではないみたいではないか」
「そうですよ! 貴公子は急に抱きついてきたり、手を舐めたりなんてしません!」
至極当たり前のことを言ったのに、英翔は納得がいかないと言わんばかりの表情だ。
「では、わたしは何なのだ?」
黒曜石の瞳で真っ直ぐに見つめ返されて、明珠は言葉に詰まった。
失礼かな、と思いつつ、一番初めに心に浮かんだ言葉を、視線を逸らして口にする。
「英翔様はその……。いたずら小僧、って感じでしょうか……?」
「ぶはっ!」
張宇が腹を抱えて笑い出す。
「明珠の言う通りだ……っ、本質を突いている……っ! ぶくくっ」
(お、怒らせちゃったかな……?)
おずおずと英翔を見た明珠は、とろけるような笑顔を目の当たりにして息を飲んだ。
心から楽しんでいるような、これから何かしでかしそうな、悪戯っ子の微笑み。
「そうかそうか。明珠がそう思っているのなら、期待に応えなくてはな」
「えっ! 期待なんてしてません!」
嫌な予感に一歩退こうとするより早く。
手を伸ばした英翔が、むき出しの手首をつかむ。
「遠慮はいらんぞ。存分に――」
「何を、なさる気でいらっしゃるんですか!?」
突然、割って入った激情を秘めた声に、明珠は台所の入り口を振り向いた。
「季白さん!」
両手に書物を持った季白が、無言でつかつかと歩み寄ってきたかと思うと、どさりと卓に書物を下ろし、英翔の手をべりっと明珠から引きはがす。
季白の登場がこれほどありがたいと思ったのは初めてだ。が、怒りを押さえつけているような無表情が怖い。怖すぎる。
「まったく! 英翔様のわがままで、わざわざ台所で調べ物をする羽目になったというのに……っ。調理の邪魔をするのでしたら、すぐに図書室に戻ってもいいんですよ! 張宇! 馬鹿笑いをしてないで、しゃんとなさい! 英翔様をお止めするのはあなたの役目でしょう! 明珠も明珠です! 英翔様に甘い顔を見せてつけあがらせないようにと言ったはずです! まったく、すぐに英翔様につけこまれるんですから……っ」
イライラと叱る季白の舌鋒の鋭さは、とどまるところをしらない。
はからずも、季白にまで「隙だらけ」と評されて、明珠は情けなさに肩を落とす。
(ううう……。自分ではしっかりしてるつもりなのに……。しょせん、田舎の小さな町での評価だもの。季白さんみたいな、貴族に仕える大人から見たら、頼りないのかもしれない……)
英翔に無防備だと言われたのは、どうしでも納得いかないのだが。
(無防備だっていうなら、英翔様のほうがそうじゃないの。人懐っこく手をつないできたり、抱きついてきたり……。甘えてくれるのは嬉しいし、可愛いからいいんだけど……)
蚕家の子息としては、甘いところを見せてはいけないのかもしれないが、明珠は英翔がふだんは心配になるほど大人びていることを知っている。気安く接せる侍女の前くらい、子どもっぽくふるまってもいいではないか。
「さあ、全員するべきことをさっさとしますよ! 離邸で夕食を作るなんて、今日はただでさえ予定外のことが起こってるんですから!」
ぱんぱん! と手を打った季白に促されて、明珠はあわてて作業に戻る。
張宇が本邸から持ってきてくれた食材を確認し、頭の中でざっと献立を組み立て、調理に取りかかる。
今夜の献立は、英翔に頼まれた揚げ魚の野菜あんかけと鶏肉と大根の甘辛煮と、小松菜のおひたしと、タコときゅうりの酢の物と、具だくさんの卵スープだ。
明珠と張宇が下ごしらえをしているそばの卓で、英翔と季白は黙々と書物を読んでいる。
(英翔様達は何を調べているんだろう……?)
大根の皮をむき、いちょう切りにしながら、明珠は季白が積んだ本に視線を走らせる。
さすが蚕家というべきか、書物の表紙に書かれているのはすべて『蟲語』だ。
(す、すごく難しそうな本ばっかり……)
特殊な言語である『蟲語』は、話すのも大変だが、読み書きはもっと難しい。師匠について何年も学ばなければ、ふつうの人々は、まず読めない。術師でも読めない者がいるほどだ。
明珠は術師であった母に習ったために、読むことができるが。
(英翔様も季白さんもすごい……。苦も無くすらすら読んでるわ……)
さすが蚕家の子息といったところか。明珠には真似のできない芸当だ。
よほど大事なことを調べているのか、英翔も季白も真剣そのものの顔だ。先ほど明珠をからかっていた時の気配はみじんもない。
(真剣に本を読んでいる英翔様を見ると、勉強している時の順雪を思い出すな……)
順雪もよく、明珠が料理をしているそばで、私塾の宿題をしていたものだ。
よく考えると、今夜の献立は順雪の好物ばかりだ。
(順雪、今頃は何をしてるかな……?)
実家の弟に思いを馳せながら、明珠はせっせと手を動かした。
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