7 特別手当の内容がこんなコトなんて聞いてません! その2


「すごい勢いだな、明珠。離邸の周りにちり一つも残さないつもりか?」


 昼食のひつを抱えた張宇が戻ってきたのは英翔達が去ってすぐだった。


 憤然とほうきを動かしていた明珠は、張宇に柔らかに微笑まれ、詰めていた息をようやく吐き出す。


「張宇さん……」

「そんなに一生懸命働いていたら、腹が減っただろう。昼飯にしよう」


 張宇は両手に抱えた大きな櫃を軽く上にあげて微笑む。


 武骨で背の高い張宇は、ともすれば三人の中で一番、威圧感がありそうなのに、人当たりのいい物腰と笑顔のおかげで、一番気安く感じられる。

 穏やかな笑顔を見ているだけで、心の中のもやもやが薄れていくようだ。


「張宇さん、私も何か持ちます!」


 櫃を持った張宇の両腕には、他にも荷物がかかっている。慌てて申し出ると、張宇は笑ってかぶりを振った。


「大丈夫だ。重い荷物じゃない。が、掃除が終わったならほうきをしまって、昼飯を並べるのを手伝ってくれるか? 俺は先に中へ入っているから」


「はいっ」

 明珠は急いでほうきをしまいに走る。


 昨日、季白に受けた説明では、洗濯や食事は、すべて本邸の世話になっており、張宇が離邸と本邸の間を運搬しているらしい。食事は、昼と夜の二回運ばれ、夕食の時に、翌朝の朝食分も一緒に持ってきているとのことだ。


 離邸には台所もあるが、茶を入れる時くらいしか使っていない。


 明珠が手を洗い、台所の横の食堂に行くと、すでに張宇が大きな卓の上に櫃から出した大皿を並べ始めていた。


 英翔と季白も席についているが、離邸に帰る道すがらやりあったのか、二人とも険しい顔つきをしている。

 明珠から話しかける勇気も出ず、明珠は急いで食堂に箸や小皿、取り分けるためのさじなどを取りに行った。


 持ち運ぶ時にこぼさないようにという気遣いからか、本邸から運ばれてくる料理は、すべて大皿に盛られている。


 意外なほど器用な手つきで、張宇が小皿に料理を持って並べた席は。


「あ、あの……、張宇さん……?」


 なぜ、英翔の前ではなく、明珠の席の前なのだろう?


「さ、明珠。お食べなさい」

「ふえっ!?」


 季白ににこやかに勧められて、さらに混乱する。


「しゅ、主人より先に使用人が食べるなんて、とんでもありませんっ! どうしたんですか、季白さん!? 怒りすぎて変になったんですか!?」


「ぶふっ」

 張宇が吹き出し、手に持っていた皿が卓に当たってかしゃんと鳴る。


「違います。あなたが先でいいんですよ。ほら、お腹が空いているでしょう?」


 優しい声音の季白が、逆に恐ろしい。細い目の奥は、やはり笑っていない。


(な、何? もしかして何かの罠なのかしら……? ここで真に受けて先に食べたら、不敬罪でクビとかそういう……!?)


 まだほのかに湯気が立っている料理の数々を前に固まっていると、全員分の小皿に盛り付け終わった張宇が、困ったように頭をかいた。


「あー、その……。いつもは俺が先に食べるんだが。その、毒見も兼ねてな」


「へっ!? 毒見!?」


 予想だにしない言葉に息を飲んだところに、にこやかな笑顔の季白が更に押す。


「さあ、特別手当のためですよ」

「と、特別手当ってこういう内容だったんですか!?」


 まさか、毒見が必要な食事が出る職場とは思っていなかった。とんでもない屋敷に足を踏み入れてしまったのかもしれない。


 と、英翔が苦笑する。


「あくまで念のための用心だ。毒が入っていたことなど、一度もない」


「そ、そうなんですか?」

 英翔の言葉に、少し緊張が緩む。


 椅子に座り、箸を持って料理をにらみつける。一目で高いとわかる手の込んだ料理は、知らなければ、よだれが出そうなほどおいしそうだ。


(毒なんて入っていたことないと英翔様だって言ってるし……。大丈夫、よね?)


「……嫌になったか?」


 箸を持ったまま逡巡しゅんじゅんしていると、心配そうに眉を寄せた英翔に顔をのぞきこまれる。


 先ほどと同じ、気遣うような、申し訳なさそうな眼差しにぶつかって、明珠は反射的にかぶりを振った。


「大丈夫です! 一度引き受けた仕事を放りだしたりなんてしません!」


 えいやっ、と勢いをつけて、いくつもの皿の中で一番質素な料理――青菜と油揚げの煮物を口に放り込む。


「あ、おいしい……!」


 午前中、あれこれと身体を動かして空腹だった分、おいしいのは当たり前だが、それを抜きにしても、やはりおいしい。

 他の皿にも次々と箸を伸ばし、一通り、口をつける。


「うまいか?」

 明珠が食べるのを黙って見守っていた英翔に、こくこく頷く。


「どれもこれもおいしいです! この小エビの天ぷらなんて、もう絶品ですよ! 冷めないうちに食べないともったいないです」


「ぶっ! ははっ、大物だな、明珠は。ふつう毒見なんて言われたら、緊張のあまり、食べているものの味なんてわからなくなるものなんだが」


 張宇が肩を震わせる。夕べも思ったが、張宇は武骨な見かけによらず、かなりの笑い上戸らしい。


「明珠の様子を見るに、何ともないようですね。わたし達も食べましょう」


 じ、と実験動物を観察するような目で明珠を見ていた季白が箸を取る。


 昨日は季白と遅れて夕食を取ったし、朝は昨日の残り物で済ませたので、本邸からの食事に毒見が必要とは思わなかった。

 あまり緊張感のない季白達の様子を見るに、あくまで念のための用心で、毒見をしているようだが。


 おいしい料理に舌鼓を打っていた明珠は、ふと疑問に思う。


「……毒見をするくらいなら、ご自分達でお作りにならないのですか?」


「「……」」

 英翔と季白がまったく同時に、ふい、と視線を逸らす。


「あ、お料理できないんですね」


 というか、英翔のような身分なら、料理などできなくて当たり前だ。


「いや、俺はできるよ? できるんだけ、ど……」


 次いで明珠と視線が合った張宇が、口の中の物を飲み下して、あわてて弁明する。が。


「わたしはアレを料理とは認めんぞ」


「英翔様のおっしゃる通りです! あれは食事ではありません。『おやつ』です!」


 妙に息のあった英翔と季白の抗議に、張宇が「な?」と困ったように肩をすくめる。


 英翔と季白にこれほど嫌がられる張宇の料理とは、いったいどんなものだろうか。逆に気になる。

 明珠と目が合った英翔が、うんざりした表情で首を横に振る。


「張宇は、食材を切ったり煮たり焼いたりはまともにできるだが……。とにかく味オンチでな。何を作らせても、すべて、ことごとく、例外なく、甘いんだ」


「はあ……」


 庶民にとって、甘味はなかなか食べられない夢の味だ。あいまいに頷いた明珠に、季白が「その顔はわかっていませんね!」と目を険しくする。


「想像してごらんなさい。飯も甘い、煮物も甘い、酢の物さえ甘い! 一つ残らずですよ! しかもこの男、見た目だけはまともに作るんですから……っ。餃子だと思って食べたら、蜜漬け野菜が入っていた衝撃、考えてごらんなさい!」


「そ、それはなかなか……。厳しいものがありますね」


 母に料理を習い始めたころ、一度だけ塩と砂糖を間違えてしまったことがある。焼き魚が甘かった時のあの衝撃は、なかなか忘れられない。


「おやつとして一つつまむくらいならいいんだがな? 毎食、甘味しかない食事は、ある種の拷問だぞ……」


 げっそりした顔で英翔が呟く。


「俺は旨いと思うんだけどなあ……」


「だまらっしゃいっ、この味オンチ! そういう台詞は、自分以外の誰かに手料理を完食させてから言いなさい!」


 ものすごい剣幕で季白に言い返された張宇が、不満そうに唇を尖らせるが、何も言い返さずに食事に戻る。自分の味覚が一般的ではないという自覚はあるらしい。


「そう言う明珠は、料理ができるのか?」

 英翔に問われて、明珠は胸を張って頷いた。


「もちろんできますよ。これでも、実家では五年間、主婦をしてたんですから。飯店の厨房で臨時に雇ってもらったこともありますし」


「では、今日から食事担当は明珠に決まりだな」

「えっ!?  ……けほっ、がほっ!」


 口の中にあった煮物が変なところに入って咳き込む。すかさず水を渡してくれた張宇が、そっと背中を撫でてくれる。


 明珠が咳をおさめている間に、真っ先に抗議したのは季白だ。


「明珠を食事係になどと……。何を考えてらっしゃるんですか!?」

「じゃあ季白、お前、張宇の飯が食いたいのか?」


「そういう問題ではございません! 食事なら、今まで通り本邸から運ばせれば……」


「そうですよ! 季白さんの言う通りです! 私が作れるのなんて、庶民料理だけですよ! 英翔様のお口に合う料理なんて、とても作れません!」


 料理ができるということと、貴人の口に合う料理を作ることは、まったくの別問題だ。


 明珠はほとんど空になった皿を見る。食材の高価さはともかく、切り方といい、繊細な味付けといい、さすが天下の蚕家と納得させられる料理人の腕前だ。

 この料理人に代わって、英翔達の食事を作れというのは、


(酒がないから水を飲めと言っているのと一緒よーっ! 口には入れられるけど、絶対、満足してもらえないに決まってるもの!)


 やる前から不興を買うとわかっていることに飛び込む気はない。季白が反対している理由は知らないが、明珠は遠慮なく尻馬に乗る。


「英翔様は誤解してらっしゃいます! 英翔様が食べてらっしゃる料理は、誰でも作れるわけではないんですよ!? 私の料理なんて、きっとまずいと――」


「家では、毎日、順雪に作ってやっていたのだろう?」


「え? ええ、まあ……」

 不意に問われて、思わず素直に頷く。


「順雪が好きな料理は、何だったんだ?」


「え? 順雪はお肉やお魚が好きなので、揚げた魚に野菜あんかけをかけたのとか、大根と一緒に煮たのとか……。あと、豚の角煮とか」


 魚もお肉も高いので、食卓に上がる機会は滅多にないのだが。


「あんかけか。それは旨そうだ。今夜の夕食はそれで頼む」


「英翔様!? ですから、お口に合わないとわかっているものを作るなんて――」


「食べたこともないのに、お前の料理がわたしの口に合わないと、どうしてわかる?」


「それ、は……っ」


 真っ直ぐ見つめる英翔に、至極当たり前の指摘をされて、言葉に詰まる。

 淡々と問う英翔は、年よりかなり大人びて見える。静かな威圧感に、言葉がうまく出てこない。


 と、英翔が不意に口元を緩める。


「正直、張宇の飯よりまともな味ならば、多少まずくともよいのだ」

 す、と細めた黒曜石の瞳には、冷ややかな光。


「毒入りの飯を食わされるより、何百倍もマシだからな」


「っ!」

 明珠は料理の話になったそもそもの原因を思い出す。


 そうだ。英翔が、毎日、食事するごとに毒殺の可能性に怯えなければならないなんて――そんなの、許せるわけがない。


「わかりました! お口に合うかどうかわかりませんが、せいいっぱい、心を込めて作らせていただきます!」


「明珠!? あなた、先ほど言っていたことと真逆……!? 英翔様、わたくしは反対です!」


 ぐ、と拳を握りしめた明珠に、季白が目をく。が、英翔は取り合わない。


「それほど明珠の腕が心配ならば、お前も一緒に見張ればいいだろう。張宇はもちろん手伝ってやるんだろう?」


「はい。慣れない台所で一人で作るのは大変でしょうし、食材を切るくらいなら手伝えますから」


 張宇が穏やかに笑って頷く。

「俺も、料理は久々なので、楽しみです」


「張宇、味付けにだけは手を出してはいけませんよ!?」

「明珠の料理を駄目にしたら、一日中季白に説教させるからな?」

「わかってますよ……」


 真顔で念押しした季白と英翔に、張宇はしょぼんと肩を落としてうなだれる。大きな犬みたいな姿が妙に可愛くて、明珠を吹き出すのをこらえるのに苦労した。


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