7 特別手当の内容がこんなコトなんて聞いてません! その1


「わっ!」

「きゃあっ!?」


 翌朝。離邸の周りの掃除をしていた明珠は、突然、背後から抱きつかれて、思わず悲鳴を上げた。ほうきを持ったまま振り返り、唇をとがらせる。


「英翔様! いたずらはおやめください! 悪漢かと思って、あやうくほうきで殴りそうになったじゃないですか!」


「殴りかかって腕試しをしてもいいぞ? そうそう後れを取るつもりはない」


 ひょっこりと後ろから顔を覗かせた英翔が、挑むように、つんとあごを上げる。


「そういう問題ではありません! 英翔様に殴りかかったと季白さんに知られたら、お説教の上、即刻クビにされますよ! せっかくこちらで働けるようになったのに、たった一日でクビなんて御免です!」


 季白の説教を想像するだけで背筋が寒くなる。


「そんな心配は不要だ。わたしが辞めさせたりなどせん」


 さも当然のように断言する英翔は、自分の希望が叶えられないことはないと言わんばかりで、いかにも良家の坊ちゃんという風情だ。


 と、英翔が明珠を見上げる。


「明珠は、それほどこの家で働きたかったのか?」

「は、はい。お給金もすごくいいですし……」


 「ふむ」と英翔が思案顔になる。


「昨日、借金があると言っていたな……。明珠、年はいくつだ?」

「え? 十七ですけど」


「その若さで借金持ちとは……」


 明らかに明珠よりずっと年下の英翔に「その若さで」と言われると変な気分だ。


「ふつう、そんな年で借金など背負わぬだろう?」

 英翔が意外そうな面持ちで明珠をまじまじと見つめる。


「……だが、お前は人が良くて、すぐだまされそうだからな……。もしかして、悪い男にたぶらかされて、貢いででもいるのか? 昨日、呟いていた順雪というのは、もしかして恋人か?」


「へっ!? 何をおっしゃってるんですか!? 恋人なんているわけがないですよ! 借金は父が作ったものですし、順雪は弟です!」


 あまりに予想外のことを言われ、一瞬、頭が真っ白になる。というか、どこをどう考えたら、そんな発想が出てくるのだろう。


「英翔様。少しおませ過ぎじゃないですか? その……十歳の子どもが、お、男にみ、貢ぐだなんて言葉……」 


「顔が赤いぞ。それにみまくりだ。お前の方が子どもみたいだ」

 英翔が大人びた顔でくすくすと笑う。


「言い慣れない言葉に噛んだだけです!」


「それと、わたしは十歳ではない」

「あっ、すみません。十一が十二でしたか?」


 不機嫌な顔の英翔は、答えないまま、別の質問を投げてくる。


「……弟の順雪は、いくつなんだ?」


「順雪は十一歳です」

 大好きな弟について尋ねられて、思わず声が弾む。


「もーっ、順雪は、ほんとにいい子で可愛い弟なんですよ!」


 蚕家で奉公することが決まった時に、「姉さん。無理はしないでね。身体を大事にしてね。家のことは心配しないでいいから。僕、頑張るよ」と手を取って言ってくれた順雪の様子を思い出し、心がぽかぽかと温かくなる。


 本当に、もったいないくらいいい弟だ。


「その様子だと、兄弟仲はよさそうだな」


 急に声が弾んだ明珠に、英翔が笑みをのぞかせる。明珠はぐっ、と拳を握りしめて力説した。


「もちろんです! だって、順雪ってば、ほんとに姉想いで性格のいい可愛い子なんですよ! 昔はお姉ちゃんお姉ちゃんって甘えん坊だったんですけど、最近はすごくしっかりしてきて。まだ十一歳なのに、頑張っている姿がいじらしくて、けなげさに胸が打たれるっていうか……! ああ、順雪、元気にしてるかなあ……。ちゃんとご飯食べてるかしら……」


 最後は遠い目をして、離れている弟にしみじみと想いをはせてしまう。


「兄弟というのは、ふつう、そんなに仲が良いものなのか?」


 英翔が不思議そうに小首を傾げ、明珠は物思いから引き戻される。


「うちだけが特別に仲がいいってわけじゃないと思いますけど……。英翔様は、ご兄弟は?」

 確か、明珠より年上の兄が、少なくとも一人はいるはずだ。


 昔、母から、蚕家の後継ぎ争いに巻き込まれるのを避けるために、明珠を身ごもった時に実父の元を去ったのだと聞いた記憶がある。


(というか、英翔様のお兄様って……)


 昨日、出会った青年のことを思うだけで、胸がきゅうっと痛くなり、鼓動が速まる。


(汚した着物、まだ弁償を請求されていないけど、いくらなんだろう……。洗濯で染みは落ちたのかしら……?)


 いくらになるか、いつ請求されるかわからない借金を待つなんて、心臓に悪すぎる。


 いっそのこと「弁償として銅銭五百枚。返済期限は半年後!」と、はっきりきっぱり言い渡された方がすっきりする。すべきことが見えていない状態というのは、どうにも居心地が悪い。


 物思いに沈んでいた明珠は、英翔の「はんっ」と吐き捨てる声に我に返った。


「腹違いの兄弟なら、一応いるぞ。血のつながりが兄弟の定義だというのならな」


「腹違い、ですか……」

 呟いた明珠は、あれ? と疑問がわく。


「離邸に住まわれているのは、英翔様だけなんですよね? 他のご兄弟は? 本邸にいらっしゃるんですか?」


 午前中、昨日の季白に引き続き、張宇にも離邸の間取りを教えてもらいつつ掃除をしたから知っている。

 離邸はほとんどが図書室や書庫、資料室で、居室は少ししかない。現在、離邸で過ごしているのは、英翔、季白、張宇、明珠の四人だけだ。


「英翔様はどうして離邸に住まわれているんですか?」

 明珠は疑問を口にする。


「そりゃ、離邸だって広くて立派ですけど! でも本邸は比べ物にならない豪華さっていうか、まるで王城みたいな……って、私、王城なんて見たことありませんけど!」


 「ああ」と英翔が軽く頷く。


「早急に調べなければならないことがあってな。書庫がある離邸のほうが都合がいいんだ。それに」

 英翔は淡々と告げる。


「敵が、多いからな」


「!?」

 英翔の整った顔は、どこまでも冷静だ。


 術師の最高峰たる蚕家ならば、敵も多いだろう。だが。


「蚕家に敵が多いとは聞いたことがあります。でも……。それなら、なおさら家族で協力し合うんじゃ……?」


 言いかけ、明珠は気づきたくなかった点に気づく。

 背筋が震え、血の気が引くのが自分でもわかった。


「……ご兄弟とも離れていらっしゃるということは、英翔様の敵は、内部にもいるってことですか? そんな、どうして……」


 貧乏人の明珠は実感としては知らないが、ある程度、大きな家ならば、兄弟間で家督争いが起きる場合もあると、知識としては知っている。だが、納得がいかない。


「私がお会いした方は、英翔様をうとまれるような方に見えませんでした! 何か誤解がおありでは……?」


 明珠があった青年は、突然、上に落ちてきた明珠を叱るどころか、顔色が悪いと心配してくれた。そんな青年が、ずっと年下の可愛い弟を邪険にするとは、とても思えない。


 明珠の言葉に、英翔は吐息してかぶりを振る。


「お前が会った奴ではない。わたしが言いたいのは、別の腹違いの奴だ」

「……腹違いとはいえ、お兄さんを「奴」と呼ぶなんて……」


 明珠は思わず眉をひそめる。もし順雪に「奴」呼ばわりなんてされたら、哀しくて泣いてしまうだろう。

 非難されたと思ったのか、英翔が不快げに顔をしかめる。


「お互い、一片の情愛も抱いていない相手なんだ。奴で十分だろう」


 英翔の声は万年雪のように冷ややかだ。まだ幼いというのに、達観した英翔の様子に、哀しくなる。


 明珠も順雪とは父親違いの兄弟だが、明珠は心から順雪を大事に思っているし、順雪も姉として明珠を慕ってくれていると信じたい。


 決して打ち明けるつもりはないが、もし明珠が英翔の腹違いの姉だと打ち明けても、同じように冷ややかな反応が返ってくるのだろうか。想像するだけで涙がこぼれそうになる。


 明珠の表情に気づいた英翔が、困ったように眉を寄せる。


「明珠は弟を大切にしているのだな。それはとてもいいことだが……世の中には、不仲な兄弟もいるんだ」


 英翔の方が年下なのに、子どもに対するように慰められて、ますます哀しくなる。


「もし私が英翔様のお姉ちゃんだったら、こんなに可愛い弟、猫可愛がりに可愛がって、いっぱい大事にしますよ!」


 本心から告げた言葉に、なぜか英翔は自嘲の笑みを浮かべる。


「可愛い、か。『このまま』なら、もしかしたら、そう思われたかもしれんな。敵にはなりえぬと」


「英翔様?」


 くらい――飢えた獣のような目で謎の言葉を呟く英翔が、急に遠くなった気がして、明珠は思わずほうきを放り出し、両手で英翔の手を取る。


「英翔様。ご無理なさっていませんか?」


「無理? わたしがか?」

 いつもの様子に戻った英翔が、きょとんと目を丸くする。


 明珠から見ると、英翔は明らかに実際の年には不釣り合いな言動や考え方をして、無理に大人ぶっているのだが、本人は自覚すらしていないらしい。


 大人びた振る舞いが、すでに身体に染み込んでいるのだと思うと、そうせざるを得ない境遇が気の毒になる。


 人は嫌でもいつか大人にならなければいけないと、既に母を亡くした明珠は、身に染みて知っている。


 きっと英翔にも、深い事情があるのだろう。だが、明珠はだからといって子どもが無理をしていいとは思わない。英翔の年なら、もっと子どもらしく無邪気に振る舞っていいはずだ。


「無理に大人ぶってらっしゃいませんか? 私の前くらい、年相応に子どもっぽく振る舞ってくださっていいんですよ? 私じゃ何の役にも立ちませんけど、私は英翔様の味方ですから!」


 真心を込めて告げた言葉に、英翔は小さく「はっ」と鼻を鳴らした。口元に皮肉げな笑みが刻まれる。


「口なら何とでも言える」

「じゃあ証明させてください!」


 間髪入れずに言い返すと、英翔が目を丸くする。


「証明?」


「口だけじゃ信用できないとおっしゃられるお気持ちはわかります。借金だって、証文がなかったら信用されませんもんね! それなら、英翔様が納得いくまで、私を試してください!」


 口だけで終わらせるつもりはない。英翔だって明珠の弟なのだ。可愛い弟の笑顔のためなら、多少の労苦はいとわない。


「何だって受けて立ちますよ! どんとこいです!」


 むんっ、と腕まくりしている両腕を上げ、力こぶを作ってみせると、目を丸くして明珠を見ていた英翔が、こらえきれないとばかりに吹き出す。


「ふっ……はははははっ、なんだその格好は!」


「え? 気合を表明しただけですけど……」


 英翔が笑うほど、変な格好をしただろうか。

 何にせよ、英翔の明るい笑顔に明珠の心も弾む。


「証明か……」


 笑いをおさめた英翔が、腕組みをして明珠を見上げる。いたずらを考えているかのような表情は、やけに大人びて見える。


「お前の方からそう言うのなら……」


「英翔様!」

 明珠に伸ばしかけた英翔の手が、背後からの声に、ぴくりと止まる。


 振り返らずとも、声の主はすぐにわかった。


「探しましたよ! 無断で席を外されないでください! しかも勝手に明珠と二人で会うとは……無防備にもほどがあります!!」


 血相を変えて駆けてきた季白が、英翔の手を掴み、小さな体を背後にかばう。まるで、悪漢から可愛い我が子を守る母親のようだ。


「明珠! 昨日言ったことを理解してないようですね⁉ 英翔様と――」


「やめろ。季白。わたしが明珠に話しかけたのだ。明珠のとがではない」


 季白の手を振り払い、背後から出た英翔が、目を怒らせて説教しかけた季白を止める。


「英翔様から!? 昨日、あれほど――」


「聞かぬ、と言っただろう。忘れたとは言わせん」


 季白の激怒など、どこ吹く風で英翔が答える。

 びきっ、と季白の額に青筋が浮かんだ音を、明珠は確かに聞いた気がした。


「ええ、忘れておりませんっ。忘れておりませんとも……っ。英翔様がそのおつもりなら、わたくしにも考えがございます! 今後は、英翔様から一時も目を離すわけにはまいりませんね……っ!」


「遠慮する。四六時中お前に張りつかれるなんて、気が滅入る」


 英翔が心底うんざりした顔を見せるが、季白の笑みは深くなるばかりだ。


「いぃえぇ、遠慮なさらなくてよろしいんですよ、英翔様。たとえかわやへ行かれるとおっしゃても、ついて行かせていただきます!」


 明珠は、にこやかなのにこんなに恐ろしい笑顔を初めて見た。止めたいのに、季白が怖すぎて口がはさめない。


「厠はやめろ。気持ち悪すぎるぞ」

 本気で嫌そうに英翔が吐き捨てる。


「そうおっしゃるのでしたら、もう少しご自分のお立場をご理解して、一人でふらふらとなさらないでください! まったく、張宇はいったい……」


「あ、あの張宇さんは本邸に……」


 ようやく隙を見つめた明珠が口をはさむ。英翔が来るほんの少し前まで、張宇と一緒に仕事をしていたのだが、張宇は本邸に昼ご飯を取りに行ったのだ。


 「ああ」と頷いた季白の目が冷ややかに細められる。


「英翔様。張宇がいないということまでわかった上で、明珠の元へ来ましたね?」


 英翔は答えない。だが、季白を見上げる不敵な眼差しが答えを物語っていた。


「?」


 なぜ、英翔が張宇のいない隙を見計らって来る理由があったのか、明珠には理解できない。

 が、無言で睨み合う二人の威圧感にのまれて、聞くどころではない。


「さ、英翔様。お戻りいただきます」

 季白が丁寧に、しかし有無を言わせぬ様子で英翔の腕を掴んで歩き出す。


「あっ、待っ――」


 反射的に止めかけた明珠は、季白の刺すような視線に射抜かれて、言葉を飲み込んだ。


「これはあなたの職分に関係ありません。余計な口出しはやめなさい」

 にこりとも笑わずに、季白の目が、形だけ笑みの形に細められる。


「せっかく得た職を、すぐに失いたくはないでしょう?」


「っ!」

 柔らかな口調で、だが明白な脅しを込めて告げられた言葉に、反射的に身体が凍りつく。


 その隙に、季白は英翔の小さな体を引きずるようにして、離邸へと連れていく。

 ちらりと振り返った英翔と、一瞬だけ目が合う。


 黒曜石の目が明珠を気遣うように、申し訳なさそうに歪められ――明珠は幼い英翔に気遣わせてしまった自分の無力さが情けなくて、唇を噛みしめた。


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