6 真夜中の秘密の任務


 夜更けに起き出した明珠は、胸に荷物を抱えて、割り当てられた部屋の戸をそっと押し開けた。


 離邸はしんと静まり返っている。廊下の柱に等間隔に掛けられた蝋燭ろうそく立てで、炎が揺らめいているだけだ。


(みんな寝てる……。今しかない)


 足音を忍ばせて、そっと廊下に出る。

 うろ覚えの廊下を進み、井戸がある裏口の戸の内鍵を外す。そっと戸を開けようとして――、


「何を、しているんですか?」


「ひゃあっ!」

 突然、後ろからかけられた冷たい声に、悲鳴を上げて飛び上がる。


 ぎぎぎ、とびついたからくり人形のように、声の主を振り返る。


「き、季白さん……」

 季白が貫きそうな鋭い視線で、明珠を睨みつけている。


「こんな夜更けにこそこそと部屋を抜け出して、どこへ行くつもりです?」


 尋ねる声は、氷よりも冷ややかだ。


 季白の隣には張宇も並んでいる。明珠を見る眼差しは、昼間とはうって変わった厳しい顔だ。

 腰にいた剣の柄に手をかけている姿に、背筋がひやりと粟立あわだつ。


「あの……」

 驚きと緊張のあまり、とっさに言葉が出てこない。


「言えないような理由でも?」


 季白の眼差しがさらに鋭くなる。もし視線が実体を持っていたら、串刺しになっているところだ。


「その……」

 言葉を探しながら、無意識に胸の荷物を抱え直す。季白の表情が不審に染まる。


「何を隠してるんですか!? 見せなさい!」

 季白の手が、明珠の抱える荷物に伸びてくる。


「やっ、だめ……」

 明珠は荷物を胸に抱え込んで守ろうとした。


「見せられない物!? ますます怪しい……っ!」

「ち、違うんですっ、これは……っ」

「いいから見せなさい!」


 季白の手がむんずと荷物をつかみ、力づくで奪おうとする。

 その手から身をよじって逃げながら、明珠は思わず叫んでいた。


「嫌ですっ! 季白さんの破廉恥はれんちっ!」


「はっ……破廉恥っ!?」

「ぶはっ!」


 季白が絶句し、張宇が吹き出す。

 季白の手が緩んだ隙に、明珠はしっかと荷物を抱え直した。そこへ。


「こんな夜更けに、何を騒いでいる?」

 割って入った涼やかな声に、全員が目を見開く。


「英翔様!」

 一番早く反応したのは季白だ。


「いけません! このような夜更けに一人で出歩かれては……!」


「出歩くも何も、こう騒がれていては、眠れるものも眠れん。何があった?」


 不機嫌に発された問いに、季白と張宇の視線が明珠に集中する。口を開いたのは季白だった。


「明珠が、夜更けに一人で、こっそり外へ出ようとしてので、問いただしておりました」


「明珠が?」

 とがめるような英翔の視線を感じ、明珠は慌てて説明した。


「すみません! 皆さんを起こすつもりはなかったんです! ただ、その……。どうしても、洗濯がしたくて……」


「洗濯? こんな夜更けに何を洗う気だ?」

「その……」


 呆気あっけにとられた英翔の声に、肩身の狭い思いを感じながら、明珠は手に抱えた服の一枚を、そっと広げる。


「昼間、こぼした大根の梅酢漬けが染み込んだ服を、どうしても洗いたくて……。これを洗わないと、着替える服がないんです」


「ああ……」

 張宇が溜息をつき、季白が、

「服ならどうして初めから見せないんですか!」

 と怒る。


「だ、だって、腰布もあるんですよ!? 見せられるわけないじゃないですか!」


 恥ずかしさのあまり、涙声になる。

 明珠だって、いちおう年頃の娘だ、いくら暗いとはいえ、男二人の前で腰布をさらすなんてできない。


 昼間、荷物を開けられた際に、季白に見られたかもしれない可能性については、この際、頭の隅へ追いやる。


「昼間はばたばたしていて、洗う暇がありませんでしたし、明日は明日の仕事があるので、夜の内にと思って……」


 英翔が頭痛を覚えたように額に手を当て、疲れたように吐息する。


「……これは季白、お前が悪い」

「ですな」

「なっ……!」


 張宇にまで頷かれた季白が、目を尖らせる。それを無視して、英翔は明珠に向き直った。


「明珠も明珠だ。来た当日に、夜中にごそごそ起き出していたら、季白達が気にするのも当然だろう」


「お騒がせして申し訳ありません」

 肩を落とした明珠に、英翔が気遣う声で問う。


「というか、そんなに着替えが少ないのか?」

「もともと、あまり持っていなくて……」


 母が生きていた頃は、家族に着物を仕立ててくれたものだが、父が借金をこしらえてからは、ほとんど質に入れてしまった。母が手ずから仕立ててくれた服を質を入れるのは、涙がでるほどつらかった。


 いま着ている服はどうしても手放せなかったお気に入りだ。つぎはぎして、だましだまし着続けている。


「季白。明日、明珠にお仕着せを用意してやれ」


「えっ!?」

 小さく吐息して命じた英翔の言葉に、目を丸くする。


「いいんですか!?」


「染みだらけの服で働かせるわけにはいかんだろう。主人のわたしまで軽んじられる。いいな、季白」


「かしこまりました」

 季白がうって変わって丁寧に頭を下げる。


「それと明珠。洗濯なら本邸に任せればいい。染み抜きもしてくれるだろう。皆、今夜はもう寝ろ。わたしも寝る」


 小さくあくびをし、きびすを返しかけた英翔が、ふと立ち止まる。


「英翔様?」

 振り返り、明珠の手をとった英翔が、いたずらっ子の笑みをひらめかせる。


「常ならぬ時間に起き出すと、寝つけるかどうかわからんな。……明珠、わたしのそばで子守歌でも歌ってくれるか?」


 甘えるような眼差まなざし。蝋燭の炎が刻む陰影のせいだろうか。整った英翔の面輪おもわがやけに大人びて見えて、思わず心が跳ねる。


「英翔様!」

 大声を上げて、明珠から英翔の手を引き剥がしたのは季白だ。


「何をおっしゃられます! 仮にも年頃の娘をこんな夜更けに部屋へ呼ぶなど、非常識着極まりない!」


「……腰布を見ようとしたお前に言われる筋合いはない」


「っ! あれは不幸な事故です! 子守歌が必要でしたら、わたしが歌って差し上げます! ええ、一晩中でも歌いますとも!」


「ぶふっ」

 朗々ろうろうと歌い上げる季白の姿でも想像したのか、張宇が吹き出す。英翔は心底嫌そうに眉をひそめた。


「男の子守歌など聞いて、何が楽しい。それに、どうせお前の子守歌は、すぐに説教に変わるだろうが」


「お小さい頃はわたしの背に負われて、健やかに眠られていたのに、何をおっしゃいます」


「うるさい、黙れ。お前の子守歌を聞くくらいなら、朝まで起きていたほうがましだ」


 季白の手を振り払った英翔が、ずんずんと自室へ歩いていく。


「……明珠も、今夜はもう寝よう。な?」

「はい……」


 疲れたように、張宇が明珠の肩を軽く叩く。

 すっかり眼が冴えてしまった。眠れるだろうかと思いつつ、明珠は素直に頷いた。

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