5 一番初めのお仕事は?


「こちらが秀洞様からお預かりした書状です、季白きはくさ――様」


 離邸に戻った明珠は、秀洞しゅうどうから渡された書状をうやうやしく季白に差し出した。別室にいるのか、英翔と張宇の姿は見えない。


「『さん』付けでいいですよ」

 にこりともせず、季白が告げる。


「え、でも……」


 一瞬、(季白さんって、もしかして意外といい人?)と思うが、蚕家で雇われると決まった今は、季白は先輩だ。礼を尽くすに越したことはないだろう。


 明珠を見もせず告げられた言葉を真に受けていいか悩んでいると、書状に目を落としたまま、季白があっさりと言う。


「さん付でかまいません。敬意を抱いていない相手に様付けされて喜ぶほど、浅い人間ではありませんので」


(前言撤回……っ! やっぱりこの人、冷たい人だ……っ)

 一瞬でもいい人と思った自分が悔しい。


 書状に目を通した季白は、なぜか「ふうむ……」と難しい顔でうなる。


(な、何が書かれているんだろう……?)


 気になるが、聞くのが恐ろしくもある。びくびくしながら季白を見つめていると、


「……まあ、いいでしょう」

 読み終えた季白が書状を畳みながら、深い溜息をつく。


「一応、身元は確かなようですね。では、さっそく働いてもらいましょうか」

「はい!」


 明珠が連れていかれたのは二階だ。先ほど休ませてもらった部屋の隣の扉を、季白が開け放つ。


「まずは、この部屋の掃除からです」

 掃除道具の場所や、離邸のそばの井戸の位置を手早く説明する季白の言葉を、聞き逃すまいと耳をそばだてる。


「夕方までには終わらせるように。いいですね」


「はい!」

 五年前に母を亡くしてからずっと主婦をしているので、掃除は慣れている。


「わたしは一階にある書庫の一つにいますので、わからないことがあれば聞きに来なさい」


 と、去る季白の背中を見送って、明珠は部屋を振り返った。


 長く使われていなかったのだろう。床の隅にはうっすらと埃が積もっており、空気も淀んでいる。


「よーし、やるわよーっ!」


 帯の間から紐を取り出して、邪魔な長い袖をたすきがけにし、明珠は気合を入れて掃除に取りかかった。


  ◇ ◇ ◇


「明珠。どうだ、調子は? ――どうした、その足?」

「へ?」


 掃除を始めて一刻ほど経った頃。


 ひざまずいて床の拭き掃除をしていた明珠は、英翔に声をかけられて、きょとんと戸口を振り返った。


「足、ですか?」

「すり傷だらけではないか」


 ひざまずいているため、着物の裾から、ふくらはぎが見えてしまっている。そこにいくつも走るすり傷に、明珠は「ああ」と頷いた。


「さっき、逃げた時についた傷です。裾をからげて獣道を走ったので……。大丈夫ですよ、こんな傷。放っておいてもすぐに治ります」


 少しひりひりとするが、血が出ているわけでもないし、かすり傷だ。大したことはない。

 軽く答えると、英翔は眉を寄せて渋面になった。


「年頃の娘の肌に傷が残ったらどうする? 季白、薬があっただろう?」

 英翔が、続いて戸口に現れた季白を振り返る。


「く、薬なんていりませんよ! こんなかすり傷に、もったいない!」

 明珠は慌てて裾を掴んで足を隠した。


 一般的に、女性が肌を見せるのは、はしたないとされている。子どもの英翔はともかく、礼儀作法にうるさそうな季白に、はしたない姿は見せられない。


「本人もいらないと言っているんですから、いいんじゃないですか?」


 冷たく告げる季白に、明珠は今ばかりは「そうですよ!」と大きく頷いて同意する。


「こんなのかすり傷です!」


 しかし英翔は納得しない。


「わたしが心配なんだ。季白。いいから薬を取ってこい」

「かしこまりました」


 戸口から姿を消した季白が、すぐに小さな壺を手に戻ってくる。

 てっきり素焼きの壺でも出てくるかと思っていた明珠は、釉薬ゆうやくを塗ったいかにも高価そうな壺を渡されて固まった。


「こんな高そうな薬、使えません!」

 返そうとするが、季白は受け取らない。それどころか、


「せっかく英翔様がご厚情を示してくださったのです。海よりも深く感謝して使いなさい!」

 と、さっきとは真逆のことを言う。


 困り切って英翔を見ると、形良い唇が、いたずらっぽく緩む。


「そんなに使いにくいのなら、わたしが無理矢理ぬってやろうか?」

「英翔様にそんなことさせられません!」


(塗ったふりをして返そう。うん、そうしよう)


 心の中でひそかに決意すると、不意に手を伸ばした英翔が、壺のふたを持ち上げて中をのぞきこんだ。


「言っておくが、使ったふりをして返しても、中身が減っていなかったら、すぐにわかるからな」


「な、なんで考えてることがわかったんですか!?」

 驚きのあまり、墓穴を掘ってしまうが、もう遅い。


「顔に書いてあるぞ。考えていることくらい、すぐわかる」


「ええ~……」

 左手で頬を触ってみるが、自分ではわからない。


 明珠はありがたく厚意に甘えることにした。かすり傷だが、痛みがないわけではないのだ。


「ありがとうございます。ありがたく使わせていただきます」


 壺をおしいただき、丁寧に頭を下げたところで、今まで姿が見えなかった張宇が、ひょっこりと顔を出す。


「何かあったのか? すまんが、戸口を開けてくれ。これを運び入れたいんだが」


 張宇が両手に抱えている物は、


「布団……?」

 明珠はきょとんと首を傾げる。


「どなたか、離邸にお泊りになられるんですか?」


「何を言っているんですか」

 季白が冷たい声を出す。


「あなたの布団ですよ。蚕家に勤めている間、ここがあなたの部屋になります」


「わ、私の!?」

 明珠は今まで掃除していた部屋を見回した。


 窓が一つだけの、さほど大きくない部屋だ。

 しかし、備えつけられた戸棚も寝台も卓も、単なる使用人である明珠が使うには、破格に質のいいものだ。何より、一人部屋を与えられるなんて。


「私、一人部屋なんて、生まれて初めてです……っ!」


 実家のあばら家には、一人部屋なんて贅沢を言える空間が、そもそもなかった。こんな好待遇でいいのだろうか。


「張宇さん、ありがとうございます」」

 薬の壺を卓に置き、明珠は布団を運び入れる張宇を手伝う。


「わたしや季白、張宇の部屋は隣や向かいだ」

 寝台に運んでくれた布団を整えながら、英翔の声を背後に聞く。


「一人寝が寂しかったら、一緒に寝てやってもいいぞ?」


「っ! 英翔様っ!?」

 季白が慌てた声を出す。「よいしょ」と布団を広げながら、明珠は苦笑した。


「英翔様ったら。もう一人寝で泣くようなお年じゃありませんでしょう?」


「ぶはっ!」

 なぜか張宇が突然吹き出す。


「? どうしたんですか、張宇さん」


「い、いや、何でも……駄目だ、おかしすぎる……っ」

 張宇は腹を抱えて苦しそうだ。


 季白がやけに嬉しそうな声を出す。


「明珠の言う通りです。もうちゃんと一人寝できますよね、英翔様?」


「黙れ。椎茸しいたけを口いっぱいに詰め込むぞ」

 英翔が眉根を寄せて不機嫌に告げる。


「……どうして椎茸なんですか?」

 不思議に思って尋ねると、英翔がいたずらっぽい表情で楽しげに笑う。 


「もちろん、こいつが苦手だからに決まっているだろう」


 明珠の脳裏に、皿に山盛りの椎茸を前にして渋面を作っている季白の姿が浮かび、思わず吹き出す。


(椎茸が食べられない季白さんなんて、ちょっと可愛いかも……。そういえば、順雪も小さい頃はきのこ類が苦手って言ってたなあ。やっぱり食感が苦手なのかしら?)


 くすくす笑っていると、季白に刃のような視線で睨まれ、首をすくめる。


「英翔様がお望みでしたら、皿に山盛りの椎茸だって食してみせますよ。苦手というだけで、食べられないわけではない……のですからね」


 若干、苦い口調で告げた季白が、ぱん、と手を打って場の空気を引き締める。


「さあ、張宇も戻ってまいりましたし、英翔様はご自分のなさるべきことに戻ってください。わたくしはこの後、明珠にいろいろと説明せねばなりませんので。明珠、もう部屋の掃除はいいですね」


「はいっ」


 何か心に引っかかった気はするのだが、思い出せない。

 布団を整え終えた明珠は、きびきびと歩く季白に続いて、部屋を出た。


  ◇ ◇ ◇


 心に引っかかったのが何だったのかという疑問は、すぐに解けた。


「えっ、私、本邸で働くんじゃないんですか!?」


 季白に案内された離邸の一室。


 なぜか英翔もついてきて、季白に「邪魔ですから張宇と別の部屋に行っていてください」と冷たく追い出される一幕もあったが、本棚や書見台がある部屋で明珠は思わず大声を上げた。


 季白の説明によると、この離邸は書庫として使われており、蟲招術ちょうしゅうじゅつに関する貴重な書物が多数収められているのだという。時には、蚕家以外の術師が研究に訪れることもあるらしい。


 今は、英翔、季白、張宇の三人が離邸を使っているのだという。


「何ですか、その不満そうな顔は。離邸で働くのに何か不都合でも?」


 季白が切れ長の目を不機嫌そうに細める。明珠は慌ててかぶりを振った。

 実父に会える可能性が高まるから本邸勤めがいいとは、口が裂けても言えない。


「いえ、その……。やっぱり本邸勤めのほうが、お給金がいいのかなあって……」


 代わりに、もう一つの懸念事項を口にする。明珠には、一銭でも多く稼いで、借金を減らすという重大使命があるのだ。


「は? 本邸のほうが給金がいいなんて話、どこで聞いたんですか? むしろ、離邸のほうが給金はいいですよ」


「本当ですかっ!?」

 思わず、勢いよく身を乗り出す。季白は重々しく頷いた。


「本当です。ですが、その分、離邸のほうが仕事はきついですよ」


「大丈夫です! 私、せいいっぱい頑張ります!」

 明珠は両手をぐっ、と握りしめて宣言する。


「その心意気はよいですね。あ、そうそう。離邸では、働きに応じて、特別手当がつくこともありますよ」


「特・別・手・当……っ!」

 なんと甘美な響きだろう。


 拳を握りしめたまま、明珠は感激に打ち震えた。思わず息が荒くなる。


「季白さん!」

「何です?」

 さらに身を乗り出した明珠に、季白が冷たく応じる。


「私っ、何でも頑張ります! どんな仕事でも振ってください! 特別手当のためなら、どんな仕事でもこなしてみせますっ!」


「……それは、楽しみですね」


 思いがけない幸運に、喜びにうち震える明珠は気づかない。

 季白の薄い唇が、人の悪い笑みを浮かべたことを。


(ちゃんと、言質げんちは取りましたからね)


 そして、「何でもします!」という言葉が、季白の記憶に、墨痕もあざやかに刻み込まれたことを。

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