4(幕間) 親孝行な娘


 下町の酒楼の片隅の卓。

 明珠の父・寒節かんせつは、名前すら知らぬ男と、酒を飲んでいた。


 寒節の向かいに座る男は、先ほどからちびりちびりと酒杯を傾けてはいるが、酔っている様子は全くない。

 冷ややかな眼差しは抜身の剣のようで、目が合うだけで、ひやりと背筋が寒くなる。


「そろそろ、蚕家に着いている頃合いだな」


 男の言葉に、寒節はこくりと頷いた。


「そうですね。順当に行けば、今日中には着くかと……」

 男は、寒節の返事など気にせず続ける。


「娘には、術師の才能があるそうだな?」


「はい……。といっても、きちんと教育を受けたわけでもなく、一人前の術師にもなれぬ半端者はんぱものですが。あれの母親が優れた術師でしたもので……」


 明珠の母、麗珠れいしゅ。彼女のことを思い出すだけで、胸にほのかな火が灯る。同時に、身を切るような切なさも。


 愛に溺れる、とは、こういうことを言うのだろう。


 麗珠れいしゅだけが寒節のすべてだった。麗珠が喜ぶから、明珠も可愛がった。麗珠亡き今、彼女の血と、わずかな才を受け継いだ娘は――麗珠に似て麗珠ではない何者かに過ぎない。


「娘は、確実にアレを食べたか?」


 確認の問いを発されて、寒節は我に返った。肉食獣の眼光が己に向けられている。


「もちろんです。肉まんをわたしの目の前で食べるのを、しっかと確認しました」


 こくこくと何度も頷く。男の視線から逃れようと酒杯を傾けたが、酒の味はまったくしなかった。


「そうか。ならばよい」


 寒節から手元の杯に視線を落とした男の口角が、わずかに上がる。


「……術の才を持つ娘か……。親孝行なことだ」


 口の形は笑みを刻んでいるのに、そこには一片の熱もない。これほど冷ややかな笑みを、寒節は初めて見た。

 手の震えが伝わった杯の中で酒がちゃぷんと揺れ、慌てて卓に置く。


「約束の金だ」

 男がかたわらの荷物から取り出した布袋を差し出す。


「あ、ありがとうございます……」


 じゃらりと重く鳴る袋を押しいただき、そっと袋の口を開ける。銅銭のきらめきに、心が安堵に少しだけ緩む。


 麗珠亡き今、自分は生けるしかばねだ。だが、屍にも銭はる。我が子、順雪のためにも。


「用は済んだ。もう会うこともあるまい」


 杯を干した男が席を立つ。


 きびきびと男が去るのを、寒節は黙って見送った。

 男の姿が、酒楼の扉をくぐり、見えなくなったところで、寒節は詰めていた息をようやく吐き出した。


 同時に、懐に入れた銅銭が罪の意識にずしりと重くなった気がして――寒節は罪悪感を振り払うように、乱暴に酒を飲みほした。

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