3 新しく弟ができました? その3


(そこそこ歩いたはずだけど……蚕家ってどれだけ広いの?)


 これは初めてなら案内がいると明珠が納得しかけた頃、ようやく小道の向こうに本邸が見えてきた。


 明珠は本邸の偉容に息を飲む。


(大きい……まるで皇帝陛下が住む王城みたい……って、王城なんて見たことないけど)


 だが、蚕家の本邸は明珠が思い描く王城の印象通りだった。

 染み一つない白壁。朱で塗られた幾つもの欄干。精緻な彫刻が施された飾り窓の数は、数えるのが馬鹿らしくなるほどだ。


(……これが、実の父さんが住んでいるお屋敷……)


 少しだけ、義父の言葉の意味を理解する。確かに、こんな立派な屋敷に住んでいれば、明珠の借金など、大した金額ではないだろう。


(いや、だめだめっ! 会ったこともない父親なんか頼れないわ! 急に娘だなんて言って、信じてもらえるわけがないもの。厄介者扱いされるのが落ちよ。下手したら、詐欺師と間違われて投獄されるかも……)


 それは困る。非常に困る。


(せめて、直接会って、人柄を確かめてからでないと……)


「どうした? 急に頭を振って」


「あっ、いえ、何でもありません! 急に立派なお屋敷が出てきたので、夢でも見てるんじゃないかと思ってしまって……」

 慌ててごまかすと、英翔が口元を緩める。


「面白い奴だな。こいつは、幻じゃないぞ。お前は――」


「あ、明珠」

「は、はいっ!」


 突然、背後から季白に声をかけられ、反射的に背筋が伸びる。


「離邸でしなければならない用事が残っていたのを思い出しました。ここまで来たら、迷うこともないでしょう。家令の蚕秀洞さんしゅうどう殿の所へは、一人で行ってきなさい。帰りも、一本道ですから迷うこともありませんね?」


「はい、大丈夫です!」


 ぴしり、と背筋を伸ばしたまま、きりっと答える。出会ってまた一刻と経っていないのに、季白の声に反射的に背筋を伸ばす身体に調教されている気がする。


「これを秀洞殿に渡すように」

 季白が懐から一通の書状を取り出し、秀洞の部屋への道順を教えてくれる。


(これ、私が身支度整えている短時間で書いたのかしら……? 季白さんって仕事が早い)


 感心するが、言ったところで、季白はちっとも喜んでなどくれないだろう。むしろ、また叱られそうな気がして、明珠は口をつぐんでおく。


「なんだ。明珠を待ってやらんのか?」

 英翔が詰まらなさそうに言う。


「待ちません。英翔様、戻りますよ」

 季白が冷たく、断固とした声で英翔をうながす。


「では明珠、また後でな」

 どことなく残念そうに、英翔が明珠の手を放す。


「寄り道はするなよ。迷子になるからな?」


 自分より五つは年下の英翔に子ども扱いされるが、あわよくば実父の姿を見れないものかと考えていた明珠は思わず言葉に詰まる。


「……はい、わかりました。ここまでご案内いただいてありがとうございます」


 英翔と季白に丁寧におじぎをし、明珠は本邸へ向かった。


  ◇ ◇ ◇


「何を考えてらっしゃるんですか!?」


 明珠の姿が見えなくなり、離邸へきびすを返すなり、季白は今まで我慢していて鬱屈うっくつを吐き出した。


「得体の知れない小娘に自ら不用意に近づいていかれるなど……。危険極まりません!」

 一度言葉にすると、ますます怒りが深くなる。


 季白の敬愛する主は、一度こうと決めたら、とんでもなく大胆になる。側仕えの身としては、ハラハラさせられ通しで、頭も胃も、痛いことこの上ない。


 今も、英翔が季白の諫言かんげんを聞き入れる気がまったくないのは、顔を見れば一目瞭然だ。


「危険、か。しかし、この十日間、何一つとして手掛かりがなかったところに、文字通り降ってわいた娘だぞ? 探らずにはいられまい?」


「英翔様が自ら調べられる必要はございません! ……しかし、本当に幻ではなかったのですか?」


 季白は、英翔と張宇から聞いた話が、どうしても信じられない。どう好意的に解釈しても、都合のいい夢としか思えないのだ。


 季白の疑念に気づいたのだろう。英翔が苛立たしげに鼻を鳴らす。


「わたし一人なら幻の可能性も考えたが、張宇も見ている。何より」


 す、と英翔の目が険しい光をたたえ、慣れている季白ですら、背中に冷や汗がにじむ。


「お前が、わたしの言葉を信じられぬと?」


「滅相もございません」

 かぶりを振った季白は、しかしなおも抗弁した。


「しかし、何かの罠という可能性もございます」


「罠か」

 はんっ、と英翔が冷ややかに吐き捨てる。小さな拳が怒りを込めて握り込まれた。

「術もまだ使えぬ童子をわざわざ罠にかける必要が、どこにある? 殺そうと思えば、すぐに殺せるではないか」


「冗談でもそのようなお言葉をおっしゃらないでください!」


 季白は言霊ことだまなど信じていないが、大切な主人の身に危害を及ばされる可能性を考えただけで、気が狂いそうになる。


「敵が何を考えているかは、わたくしにもわかりかねます。しかし、ここは蚕家。侵入者に対してさまざまな対策が取られていることでしょう。それゆえ、いったん内に入り込み、その上で、暗殺を狙っているやもしれません」


「剣だこもないあんな柔らかな手でか? 動きを見ても、どう考えても武芸を身につけている者の体さばきではないぞ。体さばきはごまかせても、手はごまかせん」


 英翔が明珠の手を取った時は、この方は何を考えてらっしゃるのかと思ったが、英翔なりに意図があったらしい。


 どうせなら、最初から教えてくれれば、余計な心配をせずともすむのだが……英翔が季白にそんな気遣いをしないことは、長年の経験で、身に染みて知っている。


「しかし、暗殺は剣だけに限りません。女であるなら、むしろ内に入って警戒を解いてから、毒を使うことも考えられます」


「腹芸ができそうな性格には見えないがな」


 どのやりとりを思い出しているのか知らないが、英翔が楽しげに喉を鳴らす。


 明珠を気に入ったらしい主人の様子に、季白は顔をしかめた。これはよくない傾向だ。


「それが敵の策かもしれません。くれぐれもお気を許されませんように!」


 この十日間で、かつてなく機嫌のいい主人に釘を刺す。

 浮かれて本分を忘れるような英翔では決してないが、念を入れるに越したことはない。


 そういえば、この方は張宇の妹達――季白にとっては歩く災害としか思えないような賑やか双子――が繰り出す数々の騒ぎを、いつも楽しんでらっしゃったな……と、懐かしい記憶を思い出す。


 季白には理解できない。いや、できても理解したくない精神構造だ。


「とにかく! まだ正体の知れぬ怪しい娘なのです! 決して警戒を解かれませんように!」


(あっ、駄目だ。これは聞く気がない)


 長年の経験から、言った瞬間、無駄だと悟るが……それでも季白は敬愛する主に忠言せずには、いられなかった。


  ◇ ◇ ◇


 今年、齢五十二歳を迎える蚕秀洞さんしゅうどうは、卓の向こうで椅子に座る少女から渡された紹介状と、季白からの書状に目を通し、心中で(ふむ……)と思案した。


 書状には、新採の侍女の身元をしっかり確かめた上で離邸付きにしてほしいこと、また、どこか怪しい点があれば、どんなささいな点も漏らさず教えてほしいと書かれている。


(本邸で新しい侍女を何人か雇うという話は、あちらにも通していましたが、さて……)


 秀洞は、卓の向こうで呆気にとられた様子で部屋のあちこちを見回している少女を、書状の陰から観察する。


 顔立ちはひなにもまれな愛らしさだが、みすぼらしい服といい、立派な調度類に気圧されている様子といい、どこからどう見てもその辺にいる田舎娘だ。


 一体、この娘のどこを見て、離邸付きにしようと決めたのか、さっぱり読めない。


(新人の方が都合がいいからか? いや、それならば、わたしに身元確認など頼むまい。本邸から、身元の確かな侍女を遣わした方が安全だ……)


 そもそも、今まで侍女など不要と断っていたのに、一体、どういう風の吹き回しか。


(この娘に何かあるとは思えないが……)

 だが、秀洞に、季白の言に逆らう権限はない。


「すみません。お待たせしましたね」

 優しく声をかけると、娘が椅子の上でぴしりと背筋を伸ばした。


「とんでもありません。お忙しいところ、恐縮です」


 少女が来た町は小さな田舎町だが、所作は意外と洗練されている。もしかしたら、以前にも他の屋敷で働いた経験があるのかもしれない。


「調度品が、珍しいですか?」

 水を向けると、自分の態度を思い出したのか、娘の頬がうっすら染まった。


「す、すみません。こんな立派なお屋敷に入るのは初めてで……」


「他の屋敷で侍女として働いた経験は?」

「ありません。飯店で、厨房の手伝いと給仕ならしたことがありますが……」


 「あのう」と娘が不安そうな眼差しを向けてくる。


「私、こちらで雇っていただけるんでしょうか……?」

 まるで捨てられた犬のような目に、演技ではなく苦笑がこぼれる。


「もちろんですよ。恥ずかしながら当家は働き手が少なくてね。やる気のある者は大歓迎です」


「あ、ありがとうございます……っ!」

 両手を胸の前で握りしめた娘が、今にも泣き出しそうな顔で頭を下げる。


 よほど、この屋敷で働きたかったのか。勤め先が蚕家だというのに、変わった娘だ。

 まあ、他家に比べて破格に給金がいいので、貧乏そうなこの娘が喜ぶ気持ちはわからぬでもないが。


「ああ、そういえば」

 季白へ返事の書状を書きながら、さりげなく鎌をかける。


「久しく顔を見ていないが、町長殿には最近、祝い事があったそうだね。たしか、跡取り息子が結婚したとか……」


「それは一年前です。最新の祝い事は、孫が生まれたことですよ! しかも男の子だったから、もう町長さんったら喜んで喜んで……っ。けちな町長さんが、祝いのお酒をふるまったほどなんですから!」


 娘は鎌かけを笑顔であっさりかわす。


「ああ、そうだったか……。では、蚕家からも祝いを送らねば。教えてくれて、ありがとう」


 祝いは既に送り済だが、うそぶくと、なぜか娘は感動したような顔をした。


「何か?」


「い、いえ……。秀洞様みたいな偉い方が、私みたいな侍女なんかにお礼を言ってくださるなんて……嬉しいです」


 咲いた花のようにはにかむ娘は、人を疑うことなど知らぬようだ。


(他愛のない娘だ……)

 この娘をどう扱うのかは知らないが、害などあるまい、と秀洞は判断する。


(離邸のどちらかの気まぐれ、か? 蚕家に若い侍女は少ない。山出しとはいえ、顔はそこそこよい娘だからな……)


 蚕家に若い侍女がいない原因の一つを連想し、苦々しさを噛み潰す。だが、あくまでも表面上は穏やかに、秀洞は微笑む。


「慣れない内は、困ることも多いでしょう。何かあれば、わたしを頼ってきなさい」


「ありがとうございます!」


 感動のあまり、泣くのではないかと思える潤んだ目で娘が深々と頭を下げる。本当に、御しやすい娘だ。


 季白はこんな娘の何を警戒しているのか。


「あの……。一つだけ、うかがいたいのですが」

 おずおずと娘が口を開く。


「ご主人様には、ご挨拶できないのでしょうか……?」


「ああ……」

 冷笑がばれぬよう、苦笑に隠す。

 この娘は、本当に大きな屋敷でなど働いたことのない山出し娘なのだ。


「蚕家の当主様ともなれば、常にお忙しい方だ。一介の侍女を目通りさせるためだけに、時間は取れぬよ」


「そう、ですか……」

 しゅん、とうちしおれた花のようにうつむいた顔が、記憶の奥底を震わせた。


 だが、泡沫うたかたは形を成す前に闇へと儚く消え去る。


「さあ、この書状を持って、季白殿の所へ戻りなさい。後の説明は、彼から聞くといいでしょう」

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