3 弟が新しくできました? その2


 ふだんは高く一つに束ねている髪は乱れ、服も土や草の汁でところどころ汚れている。

 着替えている暇はなさそうなので、明珠は服の土を払い、髪を束ね直し、手早く身支度を整えた。


 部屋を出ると、なぜか季白きはくが険しい顔で英翔に相対している。

 安全確認に行ったらしい張宇のすでに姿はない。


「なぜ、英翔様まで一緒に行く必要があるのです!? 本邸までなら、道を説明すれば、子どもだって一人で行けます!」


「だが、来たばかりの、しかもついさっきまで気絶していた娘を一人で放っておくわけにはいくまい?」


詭弁きべんです! 英翔様が――」


 明珠が出てきたのに気づいた季白が口をつぐむ。

 その隙に、英翔がててて、と小走りに明珠の元へやってくる。


「気分は大丈夫か?」


「は、はいっ」

 少年とは思えない可愛らしい顔立ちに見上げられ、慌てて頷く。


「よかった」

 と微笑んだ英翔は、明珠の手を取る。


「わたしが決めたことだ。行くぞ」


 明珠の手を握った英翔が、有無を言わさぬ口調で季白に言い、さっさと歩き出す。


「えっ、あの……」


「英翔様!」

 季白が焦った声を出す。


「なんだ季白。うるさいぞ」

 不機嫌そうに季白に言った英翔が、明珠を見上げて微笑む。


「さあ、行こう」


(か、かわいい……っ)

 英翔の笑顔に、明珠は一瞬でめろめろになる。


 家に残してきた順雪のことを思い出す。順雪が小さい頃、よく手を引いて買い物に行ったものだ。


 今までの言動から、年の割に大人びた少年だと思っていたが、意外と人懐っこいのかもしれない。


 明珠は微笑み返して、つないだ手に力を込める。


 英翔の手は明珠より小さく、すべすべで、絹のような手触りだ。明珠とは身分が違うのだと、はっきりわかる手。


 季白が諦めの吐息をつく。

「本邸に着く前に放してくださいよ。人目については困ります」


「そ、その、やっぱり手をつなぐなんて非常識なら……」

 慌てて手を放そうとしたが、逆に英翔に力を込められる。


「明珠は、嫌か?」


 上目遣いに見上げられ、心の中で「ぐはあっ」と叫ぶ。


「嫌じゃないです全然! っていうか、そんなに可愛くおねだりされたら断れませんよ!」


 途端に、英翔の眉が不機嫌に寄る。


「わたしは男だぞ。可愛いなどとは、褒め言葉ではない」


(いや、その背伸びしている感じが可愛いんですけど……っ)


 明珠は抱き締めて「いい子いい子」となでなでしたい衝動を必死でこらえる。

 そんなことをしたら、不敬罪で即刻、季白に叩き出されかねない。


(駄目だわ、ほんの数日、順雪と離れただけで、弟成分が足りなくなってるみたい……)


 と、英翔が明珠を見上げ、いたずらっ子の笑みを浮かべる。


「でも、そうか。明珠はおねだりされると弱いんだな」


「英翔様!」

 明珠が答えるより早く、季白の叱責が飛ぶ。


「何を企んでいらっしゃるんですか! 新参者の侍女と不用意に接触するなど、わたしが許すはずがないでしょう! 明珠も、英翔様がわがままを言ってきたら、すぐに報告するんですよ! いいですね!」


「は、はいっ!」

 厳しい目つきで睨まれ、明珠は思わず背筋を伸ばす。


(私の採用、不採用は、たぶん季白さんが握っている……)

 庶民の勘が、そう告げている。


 明珠が運ばれた部屋は二階だったらしい。階段を下り、人気のない廊下を進んで、離邸の扉をくぐる。


 離邸は、うっそうとした木々に囲まれていた。木々の向こうに一際大きく枝を広げているのは、先ほど明珠が落ちた蚕家さんけの御神木だ。


 木々の間に、本邸に続いているらしい一本の小道がある。三月の今なら、午後の光の中、にぎやかに小鳥達がさえずっていそうなものだが、さすが術師の最高峰の蚕家。人だけではなく動物も恐れをなしているのか、しんとしている。


 明珠は、機嫌よく手をつないで隣を歩く英翔を盗み見る。


 英翔が着ているのは絹の衣服だ。つややかな黒髪を、高そうな飾り紐で背中で一つに束ねている。髪の陰に、衣の背に刺繍された家紋が見える。桑の葉と蚕のまゆが組み合わさった意匠は蚕家さんけの紋だ。


 蚕家の紋が入った高価な身なりに、気品のある顔立ち。人を使うのに慣れた物言い。


 間違いなく、英翔は蚕家の子息の一人だろう。ということは。


(この子は、腹違いだけど、私のもう一人の弟なんだ……)


 会って間もないというのに、こんな風に懐いてくれるのは、もしかしたら、半分同じ血が流れているのを、無意識の内に感じ取っているのだろうか。


 そうだったらいい。と明珠は泣きたいような気持で思う。

 決して姉だと名乗りを上げられないけれど、それでも。


「明珠は、どうしてこの屋敷で働く気になったんだ?」


 突然、英翔に問われて、明珠は面食らった。とっさに答えが思い浮かばない内に、英翔が言を継ぐ。


「蚕家は恐れられているだろう? 好んでくる者など、いない」

 英翔の言う通りだ。


 一般の人々にとって、術師はいざという時に頼りになる存在でありながら、得体の知れない蟲を使役する「恐ろしいモノ」。


 そんな術師の親玉ともいえる蚕家で働きたいという者など、いくらお給金がよくても、よほどの事情がない限り、滅多にいない。


「そ、それはやっぱり、お給金の良さに引かれてですけど……」


 言った途端、季白の眼差しが「ぎんっ!」と鋭くなった気がして、ひいぃっ、と息を飲む。


 が、胸をよぎったのは別の感情だった。


 自分の家のことを「恐れられている」と淡々と口にする英翔。


 まるで他人事のように告げているのが哀しくて。

 明珠はつないだ手にぎゅっと力を込めた。


「そ、そりゃあ、最初から望んで来たわけじゃありませんけど……。でも、働けるとなったら、誠心誠意お仕えしますから! 大丈夫です! 私、術師なんて怖くありませんから! もっと怖いものを知っているので!」


「威勢がいいな」

 大人びた顔で、くつくつと喉を鳴らした英翔が、「で?」と明珠を見上げる。


「お前が言う、術師よりも怖いものとは何だ? すこぶる気になる」


「借金、ですっ!」

 きっぱり断言すると、英翔が吹き出した。


「借金か! それは想定外の答えだ」


「笑い事じゃないんですよ!? 借金はほんっとにもう恐ろしいんですから! 何もしていないのに、どんどん利子がかさんでいくあの恐怖……っ!」


 わなわなと空いている左の拳を握りしめた明珠は、ふと気づく。


「すみません、英翔様には経験のない話でしたね」

 絹の衣を着た少年は、借金など生まれてこのかた縁がないに違いない。


「いや、なかなか興味深い話だったぞ。そうか、借金か……」


 まずい、話し過ぎただろうかと、明珠は冷や汗をかく。後ろを歩く季白の眼差しが刺すように鋭くなった気配を感じて、怖くて振り向けない。


「だ、大丈夫です! こちらへ来る前に、ある程度のお金を渡してますから、このお屋敷まで借金取りが押し寄せるような事態には、決してなりませんから!」


 季白の視線が痛い。

 借金持ちだなんて、雇われる前に不利なことを言ってしまったかと焦った明珠は、慌てて続ける。


「万が一、借金取りが来たとしても、即刻、追い返しますから! 大丈夫ですっ」


 ぐ、と拳を握りしめた明珠は、英翔のきょとんとした顔を見た途端、(しまったあ!)と後悔する。


 職場にまで借金取りが押しかけてくるような厄介者など、誰が好き好んで雇うだろう。


「あ、あの、今のはもののたとえでして……」

 ごまかそうとした言葉が上滑りする。


(さようなら、私の奉公……。支度金、どうしよう……)


 己の愚かさを呪った時。

 英翔が吹き出した。喉を鳴らし、すこぶる楽しげにくつくつと笑う。


「え、英翔様?」


「借金取りを追い返すのか! それは面白そうだ、見てみたい!」


「いえだからあの、たとえですからね!? そんな事態、起きませんから!」

 反射的に返した明珠は、おずおずと英翔を見る。


「その……英翔様、私を不採用にしないんですか?」


 ちらりと後ろの季白を振り向くと、「わたしはこんな娘、断固反対です!」とでかでかと墨痕もあざやかに顔に書かれていて、慌てて前を向く。


 英翔が不思議そうに明珠を見上げた。


「不採用にしてほしいのか?」


「とんでもないっ!」

 ぶんぶんとかぶりを振ると、英翔がきゅ、とつないだ手に力を込める。


「こんなに興味深い侍女は初めてだからな。不採用にしたら、もったいないだろう?」


(それって私、珍品扱いでは……?)


 明珠は心の中で呻いたが、季白の視線が恐ろしくて、口には出せなかった。

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