3 弟が新しくできました? その1


(会ったこともない父親なんか、当てにするもんですか……。順雪、お姉ちゃん、頑張って働いて、借金完済を目指すからね……っ)


「ん、う……」

「気がついたか」


 少年特有の高い声。額に触れている自分より小さな手に、明珠は自然とその手を握り返し、慣れ親しんだ名を呟く。


「順雪……」

「順雪?」


 問い返された声に、急激に意識が覚醒する。

 順雪の声じゃない!?


「っ!?」

 がばっと布団から起き上がろうとして、視界が揺れる。くらくらする頭を上げることができず、明珠は再び枕に頭を落とした。


「急に動くな。熱はなさそうだが、気を失っていたんだぞ」


 呆れた眼差して見下ろしているのは、初めて見る少年だ。

 年は、弟の順雪と同じくらいだろう。十か十一。利発そうな顔立ちをしていて、いかにも良家のお坊ちゃんという印象を受ける。


 少年がまとう光沢のある生地の着物を見た途端、明珠は自分が気を失う前にしでかした大失態を思い出した。


「あーっ! あの、私、助け……」

 まだめまいの残る重い身体を、何とか起こす。


「まずは名前! 身元! そして、どうしてこんな事態になったのか、説明をするのが先でしょう!」


 突然、物差しで線を引いたような厳しい声に叱られて、明珠は思わず背筋を伸ばした。


 声のした方をみると、しかつめらしい顔をした若い男が腕を組み、不審者を見る眼差しで明珠を睨みつけている。


季白きはく……。気がついたばかりなんだ。少しくらい混乱していても、仕方なかろう」


 少年が吐息混じり若い男をいさめる。


「しかし、英翔えいしょう様。まずはこの娘の身元を確かめなくては、今後の対応が考えられません」


 季白きはくの声に、明珠は寝台の上にぴしりと座り直した。


 ここが蚕家なら、英翔と季白の服装から判断するに、明珠の主人か上司になるはずだ。第一印象は大切だ。お給金のためにも、職場の人間関係は、大事にするに越したことはない。


「申し遅れました。わたくし、楊明珠ようめいじゅと申します。今日からこちらのお屋敷で下働きをさせていただきます。どうぞ、よろしくお願いいたします」


 母に仕込んでもらった所作で、丁寧に頭を下げる。


「ああ、新しい侍女を雇うという話は聞いています。が……その新参者が、なぜ、御神木から落ちる羽目に?」


「御神木だったんですか、あれ!?」


 思わずすっとんきょうな声を上げた明珠は、刺すような季白の眼差しを受けて、首をすくめた。


「その……」


 ここへ来る途中まで、荷車に乗せてもらったこと。その後、方向と目印だけを教えてもらって、林の中の獣道を歩いてきたこと。

 その途中、賊と思われる怪しい男達に出くわして逃げたことなどを、明珠は順を追って説明する。


「追いかけられて、捕まったら何をされるかと、すごく怖くて……。そうしたら、塀が見えたので、中に逃げ込んだら追いかけてこないんじゃないかと……」


「それで、あの高い塀をよじ登ったんですか?」

 季白の冷ややかな声は疑わしげだ。


 だが、術を使ったのだとは、できれば言いたくない。明珠はこくこくと何度も頷いた。


「もう、ほんと無我夢中で……。木登りは得意なんです! 近くの木によじ登って、塀に飛び移って……。その時に、体勢を崩してしまって」


 落下した際の大失態を思い出し、明珠は身を縮める。顔から血の気が引くのが、自分でもわかった。


「あの……。その、私を助けてくださったお方は……?」


「きみをここまで運んだのは俺だが」

 部屋の隅に控えていた体格のいい若い男が片手を上げる。


「ありがとうございます。いえ、でもその……」

 頭を下げた明珠は、部屋の中を見渡した。


 さほど大きくない部屋だ。家具が必要最小限しか置かれていない。よく言えば掃除しやすい、悪く言えば殺風景な部屋だ。


 部屋の中にいるのは、明珠の他には、英翔と呼ばれた少年と、季白と呼ばれた厳しそうな若い男、そして片手を上げた武人らしい男の三人しかいない。


 だが、剣を腰にいた武人は、先ほど明珠が上に落ちた青年とは明らかに別人だ。青年は二十歳過ぎくらいだったが、男は二十代半ばくらいだし、顔立ちも身なりも、まったく違う。


 明珠を助けてくれた青年が、煌めく宝石ならば、武人の青年は大地にしっかり落ち着いた岩といったところ。鍛えられた身体とは対照的な、人好きのする穏やかな表情が印象的だ。


「私が言いたいのは、運んでくださった方ではなくて……」


 言った途端、季白の目が鋭くなる。もし視線が本物の刃だったら、今頃、明珠は針ねずみになっているだろう。


(やっぱり私が迷惑をかけたのは偉い方だったんだ! 私クビ!? 一日も働かない内にクビになったら、やっぱり支度金は返さないと駄目なのかしら!?)


「なぜ、その方について尋ねるんです?」

 季白の声は万年雪のように冷たい。


「そ、その……」

 正直に言っていいものかどうか迷い、明珠は言葉を濁した。


「ご、ご迷惑をおかけしたので、お詫び申し上げたいと……」

 話しているうちに、どんどん不安がふくらんでくる。


 もし、服を汚したことを許してもらえなかったらどうしよう。弁償にはいくらかかるんだろう。こんな粗忽者そこつものは雇えないと言われたら?


 仕事をクビになった上に、借金まで増えたら……。


 明珠は思わず首から下げた守り袋を服の上から握りしめる。


「……季白きはく。女子どもを怯えさせるものではない。お前の物言いはいつも厳しすぎる」


 英翔のたしなめる声に、明珠は慌ててにじみかけた涙を手の甲でごしごしぬぐった。


「すみません! 違うんです、これはっ。その、安心してちょっと気が緩んだだけでっ」


 これ以上、減点を食らうのは御免だ。明珠は無理矢理、笑顔を浮かべると、英翔達を順に見る。


「は――っ」

 と額を押さえて深い溜息をついたのは季白だ。


「英翔様。わたしはいじめているつもりはありません。ごく一般的な確認を行っただけです。誤解を招くような物言いはおやめください」


 季白はてきぱきと告げる。


「わかりました。新しく雇われた侍女というなら、ひとまず本邸に連れて行きましょう。張宇ちょうう、本邸へはわたしが案内しますから、あなたは離邸周辺の安全確認を。……賊がいつまでものんびりうろついているとは思えませんが、念のためです」


 張宇ちょううと呼ばれた若い男が、「了解」と頷く。


「というわけで、あなたは支度ができたら声をかけなさい。わたし達は、いったん部屋の外に出ますから」


 髪も服も乱れに乱れた明珠への気遣いを見せてくれた季白は、他の二人をうながして部屋を出ようとする。その背に、


「あの、本邸というのは……?」


「ああ」

 と振り返った季白は頷く。


「ここは蚕家の離邸です。使用人の管理などは本邸で行っていますから」


 「はあ」とあいまいに頷いた明珠に、季白は「ああ、それと」と寝台のそばの卓を指し示す。


「あなたの荷物ですが、汚れがひどいので勝手に開けさせてもらいましたよ。女性の荷物を開くのは本意ではなかったのですが……染みが広がってもいけないと思いまして」


「あああああっ、すみませんっ、ありがとうございます!」

 明珠は寝台から下りて卓に寄る。


 荷物を開けられたことに文句はない。もともと、ろくにない荷物だ。それより、染みを防いでくれたのがありがたい、


「では、支度したら声をかけなさい。言っておきますが、手早くするように」


「は、はいっ」

 荷物の確認は後にして、明珠は身だしなみを整えるのに専念した。

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