幸せな過去には戻れない
「アイル。おかわりは?」
優しく微笑むのは義姉であるティマ。
「うん。ありがとう」
アイルは義姉の言葉に頷き、空になった木の椀を彼女に差し出す。
「俺ももう一杯頼む」
「バルー。ドサクサに頼まないの。お酒はもう十分でしょ? 飲みすぎると明日がきついわよ」
「ばれたか」
「当たり前でしょ?」
軽快に笑い、ティマは背を向けると鍋を杓子でかき回し、アイルのためにスープを注ぐ。
義姉の作るスープは村一番、いや世界で一番だとアイルは思っていた。
畑で野菜を作り、森で獣を狩り、毎日を静かに生きていく。
そしてアイルはいつの日か、義姉のようになって、優しい人のお嫁さんになる。そういう人生を送ると考えていた。
「ティマ!ティマ!」
アイルが十四歳の時、義姉が病で死去。兄は家に閉じこもるようになってしまった。何も食べず、寝ることもせず、ただ生きる屍のようだった。
このままでは、兄も死んでしまう。
痩せていく兄を見ながら、アイルは毎日を過ごしていた。
しかしある日の朝。
目覚めると人が変わったような兄がそこにいた。
生気に満ち溢れており、掻きこむようにスープを口に入れていた。
「兄さん?」
元気になってよかった。
その反面少し恐ろしい気持ちで、兄に呼びかけた。
「アイル!昨日の夜。神の啓示があったんだ!ティマを生き返らせる手段があるんだ」
とうとう、兄は気が狂ってしまった。
アイルはそう思ってしまったが、差し出された魔法の地図を見て、兄の話を信じてみることにした。
嘘だったとしても、あの屍のような兄よりも今のほうがずっといいと思ったからだ。
そうして、兄と共に五つの精霊の石を探す旅に出かけた。
「ナル! ナル! 大丈夫か?」
――ナル?
ベッドの上で、扉を叩く音と、自分を呼ぶ声で起こされる。
夢うつつの頭で、呼ばれる名を反芻し、それがあの優しい戦士の名で、今の自分の名前であることを自覚した。
騒がしいのはセンミンだ。
銀髪に整った顔をしているが、性格が子供っぽい男。
「ナル」は身支度をさっと整え、扉を開けた。
「すみません。寝てしまったようです」
「いや、えっと、それならいいんだけど」
「あらあら。センミンたら。ナル。夕食の準備ができてますわ」
なぜか顔を少し赤らめるセンミンの隣に、金の精霊が笑いながら現れる。
「くそっ。なんで、俺はこう」
「センミン。悔しがってもしかたないことですわ。それが「恋」というものでしょう?」
「は? 「恋」俺が?」
半分ぼんやりしている「ナル」の前で、いつもの二人の会話が始まる。
――これはいつまで続くのだろう。
話題にされているのは自分という自覚もなく、「ナル」は早く終わってほしいと溜息をつく。しかし、会話はそれ以上続くことはなかった。
痺れを切らしてウェルファが呼びにきたからだ。
☆
ウェルファの用意した夕食は、スープにパンという質素なものであったが、その味はナルとセンミンを満足させるには十分だった。
「このパン。お前が焼いたのか?」
「ああ」
「信じられねぇ」
センミンはパンを口に含み、何度もウェルファとパンを比べながら唸っていた。
「スープも美味しいですね」
「ああ」
ウェルファは言葉少ないながらも、感嘆の声を上げながら食べる二人に対して嬉しそうに頷く。
「残念ですわ。ワタクシも食べられるものだったら、食べてみたいもの」
「ああ、精霊は食べれないですもんね。そういえば。セフィーラもそんなこと言っていたなあ」
「セフィーラ?」
チェリルにそう聞き返され、「ナル」は口を噤む。
優しいスープの味、賑やかな食事の雰囲気。
思わず気が緩んで、今では存在しない水の精霊の名を口にしてしまった。
「……水は楽しい旅をしていたみたいですわね」
ふわりと肩に手を置かれ、「ナル」はチェリルの顔を見上げる。少しだけ悲しそうに見える微笑を浮かべる彼女の顔、自分の気持ちが見透かされたみたいで、「ナル」はすぐに表情を引き締めた。
「もう、彼女はセフィーラではありませんから」
自分に言い聞かせる意味でもそう言って、「ナル」はパンに噛り付いた。
☆
「なあ、ナルの様子がおかしくないか」
「そうですわね」
深刻な表情のセンミンに対して、チェリルは単に相槌を打つに留まる。
「何を思い悩んでるんだが」
「気になりますの?」
「ああ、物凄く」
「時がくれば話してくれるはずですわ。きっと。まあ。あなたがナルと信頼関係を築ければ、ですけど」
「信頼関係……。ウェルファの奴もいっていたけど、俺ってそんなに信じられないような奴なのか?」
「……まあ、ワタクシはあなたを信じてますわ」
「沈黙があったな? お前に信用されてもなあ」
「ご不満そうですわね。ワタクシも最初は判断を誤ったかと思ってましたけれども、今はあなたを選んでよかったと思っています。なので、きっとナルもウェルファのあなたのことをそのうち信用してくださるでしょう」
小言を言われるかと思いきや、慰めてもらい、センミンは思わずチェリルを見てしまった。
「おかしなこと言いましたかしら?」
チェリルはそんな彼に優雅に微笑を返す。
「……そのうち、そのうちか」
「そうですわ。ほら気づきました? ナルがあなたの事を敬称なしで呼んでること。それは少し信用し始めたって事ではなくて?」
「そう言えばそうだな」
センミンは仲裁に入った時に「ナル」が、ただ「センミン」と自分を呼んでいたことを思い出し、嬉しくなって口元が緩む。本人は気がついていないが、それからずっと「ナル」は、センミンを敬称なしに呼んでいる。
「単純なことはいいことですわ」
「……何か言ったか?」
「いえ、別になんでもありませんわ。ほほほ。さて、ワタクシも休みますね」
チェリルは優雅な笑みを浮かべると、センミンの意思など無視して一方的に石の姿に戻る。
「言い逃げかよ」
口を尖らして文句を言うが、今日は本当に疲れているらしい。石から声が返ってくることはなかった。
「……俺も休むか」
一人で思い悩んでも仕方ない。
とりあえず、徐々に「ナル」との距離は近くなっている気はしていた。
チェリルの言う通り、いつの日か、彼女から悩みを打ち明けてくれるかもしれない。
そんな希望を持ちつつ、センミンは身につけている皮の鎧を脱ぐと、そのままベッドに倒れこむ。
体は思っていたより疲れていたようだ。それはそうだろう。三日間寝る以外はずっと馬を走らせていたのだ。その上、砂漠に瞬間移動で飛び、「ナル」と出会ってここまで来た。
体は正直で、それ以上「ナル」のことを考えるよりも先に、眠りに落ちていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます