水の精霊


 その後、アイルは一人で旅を続けた。

 しかし少女一人の旅は楽なものではなく、お金もなく空腹でさまよっているところを助けてくれた人がいた。親切だと思ったのは、彼女を誰かに売るためで、乱暴をされそうになったところ、黒髪の男に助けられた。


 アイルよりも十歳年上の彼を、兄というよりも、父親のように頼った。

 彼の名はナルで、傭兵稼業を生業としており、たまたま連れ込まれるアイルを見て、助けてくれたようだった。

 親切な彼に、アイルは全てを話すと、ナルは彼女の旅に同行すると言った。会ったばかりの自分に優しい彼に、アイルはさすがに警戒したが、一人だと先ほどのような目にあう可能性もあり、彼を信じて一緒に旅をすることになった。


 そして、旅を続けて水の精霊の石を見つけた。

 ナルは、水色の光を帯びた女性体の彼女に名をつけた。

 セフィーラと名付けられ、水の精霊は可愛らしい女性に変化した。寂しげにナルが水の精霊を見つめるので、彼の大切な人の名前だとわかった。


 水の精霊は強かった。

 時折襲ってくる魔物を簡単に殺し、ナルの出番がないくらいだった。

 だから、アイルはこの精霊が火の精霊をどうにかしてくれると思い、兄を元に戻すため、火の精霊と対峙することにしたのだ。




「ナル!」


 ぱっくりと裂けたナルの腹部から血が流れだし、地面を濡らす。

 アイルは彼を抱き起こし、その傷口を必死に両手を使って塞ごうとした。


「ダメだわ。ワタシでは癒せない!」


 水色の美しい髪に、瞳と肌の色までが青色で統一されている美しい存在。

 水の精霊はこれ以上ナルを傷つけさせないと、彼の前に立ちふさがった。


「もう死ぬのも時間の問題ね。馬鹿ね。守りに徹しているだけで、このアタシを倒せると思ったの? 水、アンタもそう思わないの?」


 火の精霊は身にまとう炎を燃え上がらせ、可笑しそうに声を立てて笑う。


「このっ!」


(あいつのせいだ。 あいつの!)


 ぎりっと唇を噛み、アイルはその緑色の瞳に憎悪の炎を滾らせ、火の精霊を睨みつける。そんな彼女の手をナルが触れた。


「……逃げろ。俺のために。俺のために生きてくれ」


 もう力など残っている筈がない。だがナルはアイルに触れた手に祈るように別の手を添え握り締める。


「セフィーラ。俺の最後の命令だ。アイルを生かせ」


 水の精霊セフィーラは火の精霊に視線を向けたまま、頷く。

 契約主が死ねば、命令は無効となる。新しい契約主の命に従わなければならない。


「セフィーラ。頼むぞ」

「ナル?」


 ふわりと体が浮遊感に包まれる。気がつくとアイルはナルとともにセフィーラに抱きかかえられていた。


「セフィーラ! 俺はもう!」

「一人運ぶのも二人運ぶのも一緒なの! 黙っていて! 今すぐに金を探すから」

「馬鹿ねぇ」


 そのまま光になって消えようとするセフィーラを火の精霊が阻んだ。括れた腰に手を当て、妖艶に微笑む。

 その原型となった人物を知っているアイルは、嫌なものでも見たかのように唇を再び噛んだ。


「このまま逃がすとでも思った? アンタはちょっとやっかいだから、バルーと契約してもらうの。だから、ここに大人しくいなさいよ!」


 火の精霊は炎の鞭を振い、炎がセフィーラを襲う。

 とっさに二人を庇うが、力負けして、地面に叩きつけられた。セフィーラの腕から二人の体が地面に投げ出される。


「ナル!」


 アイルはよろよろと立ち上がり、ナルに駆け寄る。彼の意識はすでになく、その腹部からは更に血が止めどなく流れていた。


「ナル! ナル!」

「もう面倒だから殺すわ。先に契約されても困るし。ねぇ。バルーいいでしょ」


 火の精霊は背後を振り返る。

 そこに一人の男の姿があった。

 アイルは祈るような思いで男を見上げる。

 それは兄であった男、火の精霊に魅入られ魔王と化した存在。

 少しでも良心が残っていないかと、わずかな希望を持つ。


「兄さん!」

「……アイル。私はお前に言っただろう。村に帰りなさいと。なのにお前ときたら。しかも、水の精霊を連れて、私を殺しに来るとは……」


「ち、違う!」


 兄を殺すつもりはなかった。

 ただ火の精霊の呪縛から、兄を解き放ちたかった。

 そして旅の本来の目的を思い出してほしかった。


「ねぇ。バルー。殺しちゃっていい?」


 火の精霊――義姉の容姿と声で兄にそう尋ねる。


「仕方ないな。「ティマ」。君に任せるよ」

「ふふ。ありがとう。バルー」


 兄の頬に口付け、義姉の名までも持つ火の精霊は楽しそうに唇を舐めた。


「……アイル……」

「ナル!」


 腕の中のナルが焦点の合っていない瞳をアイルに向ける。黒い瞳には生気がもうなかった。


「セ……フィ、…ラ、頼ん…だぞ」


 しかし、唇を必死に動かし、そう口に出す。


「ナル!」

「……アイル。生…き、ろ」 

「ナル!」


 ふっとナルが笑ったような気がした。ゆっくりと閉じられる瞼。

 アイルの視界が真っ白に染まる。


「セフィーラ!?」


 氷の礫がアイルを襲った。ナルから引き離され、吹き飛ばされる。

 同時に体が氷で覆われていく。


「……なん、で」


 体が動かなかった。


「水の精霊、君に名を与える。君は今から「アイル」だ」


 急速に薄れていく意識の中で、バルーの声が耳に届く。

 セフィーラと呼ばれていた水の精霊は姿を変えていく。

 新しい名のもとに姿を変える――それは前の契約主の死を意味することだった。


「ナル……」


 氷の中に閉じ込められ、眠気が訪れる。

 このまま眠ってはいけないとわかっていたが、抗えない睡魔が襲ってきていた。

 ぼんやりした視界が捉えるのは、地面の上で微動すらしないナルの肢体。

 その側には、青い光を放つ自分の姿があった。

 水の精霊の変化した姿に満足げに微笑む兄、そんな兄に枝垂れかかる赤い炎を纏う義姉。

 アイルは愕然とする。

 色彩、表情が異なっていたが三年前の家族の姿がそこにあった。

 しかしあの懐かしい、やさしい家族の姿はそこにはなかった。


 アイルの瞳に涙が宿る。

 けれどもその涙が瞳からあふれる前に、彼女の意識はぷつりと途切れた。

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