第三話~戸乃上香海未

(なんで……)


 考えたのが先か、動いたのが先かも定かではない。ただ俺は、病院の反対側へと駆け出していた。どこへ逃げれば良いかも解らない。それでも、病院に逃げるのは駄目だ、ということだけは解った。


 走って少しして、人目があれば襲えないはずだと気付く。


「繁華街に……、って、ここどこだ!?」


 雑に走り過ぎて、自分がどこに居るかも解らなくなっていた。


 だがここは住宅街。大声を上げれば、誰かが助けに来てくれるかもしれない。


「っ……!?」


 走りながらおもいきり息を吸って、声を上げようとした瞬間だった。風切り音を立てながら、杭のような何かが耳を掠めていった。


 多めに息を吸う事も出来ない。そうするだけで追いつかれる。ただ全力で走るしか無い。そうしなければ斬られる。


(なんで、なんでなんでなんで!!)


 俺は確かに魔物だ。だが、魔物の本能に従って人間に害を及ぼした事なんて1度も無い。魔物の力で美少女達を救う事は多々あったが、それ以外では殆ど魔物の力を使っていない。


 殺されるような覚えは無いのだ。背中から刺されるなら、不倫の末が良い。あんな、どこの誰かも知らないやつに突然殺されるなんてまっぴらだ。


 そういう。


 そういう葛藤が脚を鈍らせていた、なんて自覚は、無かった。


 けれど。


「ぐあ!!」


 ふくらはぎにおかしな痛みを感じた。立っていられなくなって、コンクリートの上を何回か転がる。


 見ると、細長い杭がふくらはぎに刺さっていた。


「くっそ」


「もう、悲鳴はあげなくて良いのか?」


 追い付いて、俺に刃を突きつける女。さっき絶妙なタイミングで俺の声を止めたのは、狙ってのことだったらしい。


「……っ……ぉ」


 声が上手く出なくて、呼吸のリズムがまともじゃ無い事に気付く。歯を食いしばって、無理矢理呼吸を整えた。


「お、おいおい、あまり俺を舐めるなよ、悲鳴じゃなくて咆哮による反撃を試み──うそですうそですうそです!」


 女の刃が俺を切り裂こうとしてきたため、地面を転がって回避する。


「咆哮で反撃出来るということは、龍の派生……? ならば事情が変わるな。貴様は姿形も残さずに消す」


「うそだって言っただろう! そんな伝説級のもんじゃない、さっきのはただの悲鳴だ!!」


「……騙したな」


「おいおい、自分で言うのもなんだが、怒るなよ……お前だって、俺を殺そうとしてるじゃないか」


「……そうだな。道徳を説く資格は私には無いか」


「そこに気付いたついでに、俺を殺す必要も無いってことにも気付いてくれないか」


「退魔師は魔物を処分する必要がある」


 振り上げられる刃。


「くっそ!」


 惨めに転がって回避して、ふくらはぎに刺さっている杭を引き抜いた。一瞬血が吹き出るが、力を込めれば軽減出来る。


 そして駆け出す。


 つもりだった。


「っ!?!?」


 またも地面に突っ伏して、コンクリートに引きずられた。今度はふくらはぎではなく、足首──アキレス腱に杭を刺された。


「こん……の……」


 痛みとかよりも、場所がまずい。これではしばらく走れない。


「私を恨むのは構わないが、ついでに自分の浅はかさを呪うと良い」


 そう言いながら、女は俺を見下す。


「魔物が隠れて暮らさなかった結果だ」


「ふざけるなよ……隠れてただろ……」


 後ずさりながら答える。その分、女も近付いてくる。


「隠れていたなら、車に轢かれた後は、相応の処置をすべきだったな。いや、あの事故に反応を示すあの反応速度、あの時点で貴様は、自分が魔物と名乗ったも同然だった」


「助けないべきだったって、そう言うのか」


「人として振る舞うなら、助けられないはずだったからな」


「ふざけんな! 目の前で起きかけてた事故を、見て見ぬ振りなんて出来るわけがないだろう!!」


「前方不注意が2人。起きるべくして起きかけていた事故だ。それに、見て見ぬ振りではない。反応出来ないのが人間だと言ったつもりだ」


「そのつもりだったなら日本語学び直せよ、お前、そんなこと1度も言ってなかったから」


「そうか。そうだな。善処しよう」


 ふわり、と何かが浮き上がったような気がした。浮き上がっているのはその女の髪と服だ。ジーパンにTシャツの、普通の格好の女に殺されかけているんだ、笑い草にもならない。


 そのジーパンもTシャツも、髪も身体も、あたかも受ける重力を軽減しているかのように、柔らかく宙に漂う。


「貴様の失態は、まず事故に遭いそうだった少女を助けたこと。そして、私と遭遇してすぐ、病院から遠のいたことだ。──あの病院に、他の魔物が居たのだろう? 私とそいつらを鉢合わせさせないため、1人になる道を選んだ」


「!?」


「図星か。教えてくれてありがとう」


「……るきだ……」


「なんだ、聞こえんぞ」


「何をする気だって聞いたんだ……」


「──退魔師は魔物を処分する必要がある、と言わなかったか?」


「ふざけんな!!!!」


 全身に力を込める。身体を膨張させるイメージをする。普段閉じている魔力回路まりょくかいろを開いて──


「遅い」


 何が起きたのか解らなかった。


 起こそうとしていたはずの身体は、仰向けに倒れている。


 最初はヒリヒリとした痛みがあって、痛みが染みてきて、急に痛みが増した。


「う、がっ……ぁぁぁああああ!!!!」


 なんだこれ、なんだよこれ。右耳を抑えてのたうち回る。


「たい、いたいっ! いたい!」


 まるで神経を直接、ノコギリで削られているような、もしくは、雑な石で丁寧にすり潰されているような痛み。それは神経を伝って、瞬く間に全身へと広がっていった。


「本来は封印に使うものだが、それを局地的に送り込んだ。死よりも辛い痛みだ。動くこともまともに出来まい」


 正確には、止まることが出来なかった。のたうち、地面を殴り、蹴り、他のどこかを痛めつけなければ、何かで気を紛らわさなければ気が狂いそうな、そういう痛み。


「魔力回路の解放をやめろ。そうすれば収まる」


 それを実行するのに、1分近く掛かった。


 魔力回路という、魔物に存在する神経の1部。これを閉ざす感覚というのを、想像を絶する痛みの中で保とうという。無茶苦茶だ。


 痛みが引いても、後遺症でしばらく呆然としていた。


「良いか、知っておけ」


「ひっ」


 何を知るって言うんだ、今更。どうせ殺すんだろう、こんな痛めつけてどうするつもりだ。


「おい」


「いやだ、たのむ、やめてくれ、たのむ、あんなの生物に味合わせて良い痛みじゃない」


「…………」


「人間に危害を加えるつもりはなかった。ほんとにただ反射で助けただけなんだ。だって美少女だったから。可愛い女の子を合法的に抱きしめられる機会だったから」


「貴様は何を言っている」


「俺はオークなんだよ!!!!」


 声の限り叫んだ。自分が今、何を喋ってるのかも、どうでも良い。ただ叫びたかった。


「ちょっとした身体能力と生命力と性欲だけが特徴で、だけどビビりな性格もあるからまだ童貞の、そういうオークなんだ! その程度の存在で、それだけの存在なんだよ! 魔物だけど、人間じゃないけど、ほんとにそれだけなんだ! それだけで殺されたくなんて無い!!」


「……やりすぎたな。気が触れたか」


「助けてくれ……見逃してくれ……こんな惨めで無意味な死に方は嫌だ……死ぬなら美少女のために死にたい……いやだ……いやだ……」


「……畏怖の念を解除。退魔のつるぎよ、我、神辺千登勢こうのえちとせが願いたてまつる。月の輪に沿い、淡い光と安寧を照らせ。深閑しんかんの環を形成。発動」


「そもそもなんであんなことができるんだ、異常だ、暴力なんてもんじゃない、拷問じゃな──」


 す、と。


 心の中から感情が消えた。


 自分が何も感じなくなっている事にすぐ気付いて、言葉を失う。失うというよりも、言葉を放つ理由が無くなった、というほうが近いかもしれない。


 顔を上げると、鉄のような無表情がそこにあった。


「退魔師の術で、一時的に感情を制御した。今回は殺さないでいてやるから、大人しく聞け」


「え。……あ、ああ」


「魔物であることを自覚し、慎め。そして考えて行動しろ。病院に居た連中に魔物が居ることも、貴様によって知った。今回はそちらも見逃してやる。次に同じことをしたら、貴様含めて全員死ぬと思え」


「い、いいのか……?」


「むろん、貴様が人間に危害を加えないことを絶対条件にだがな」


「加えない、加えない、絶対に」


「その言葉、忘れるなよ」


 そして、何事も無かったかのように、本当に、今の一時が全て幻だったかのように、女が消えると、辺りが静まり返る。


「……は……はは……」


 しばらくそこから動けなかった。不幸中の幸いなのは、この情けなさを極めたような状況を、誰にも見られていないということか。




 ⿴⿻⿸──⿴⿻⿸──⿴⿻⿸




「昨日何があったの?」


 見られてないが悟られた。


 翌日の昼休み、教室の隅で弁当を食べていた俺のところへ来た戸乃上香海未。神が彩色を間違えたのでは、と思えるくらいにキラキラと輝く瞳に見つめられ、俺はたじろぐ。


「いや、特になにも?」


 咄嗟に嘘を吐いたが、香海未は目を細め、神が素材を間違えたのでは、と疑うくらいにプルっとした唇をニヤリとひん曲げ、俺の鼻先をつつく。


「なーんも無いのに右脚びっこ引いて、落ち込んでるっぽくテンション下げ下げになっちゃうようなおマヌケさんだったかなー、翔ちゃんは」


 卵みたいなショートボブが、笑って上下する肩に合わせて揺れる。


 気分のほうは自覚していたが、脚のほうは無自覚だった。痛みは僅かに残ってるとはいえちゃんと歩けていると思っていたのだが、出来ていなかったらしい。


「ん……あ、ああ、実は軽く事故してな。脚も痛いしテンション落ちるしで、最悪なんだ」


「うわーお、災難。慰謝料ふんだくろう、慰謝料」


 悪戯っぽく言うのが可愛くて癒される。むしろ俺が戸乃上に慰謝料を払いたいくらいだ。


「大した事故じゃなかったからな。そういうのは断った」


「もったいない! 事故の慰謝料あれば良い楽器が買えたのに!!」


「俺は今持ってるベースで充分だぞ」


「ちがうよ、私のギター」


「え、俺の慰謝料から出すつもりだったの?」


「ワンチャンあるかなって」


「ねぇから」


 いや、ほんとは多分ある。ハグ&キスでギター1本とか買う可能性も否定出来ないが、おそらくそれは売春に当たるから自重する。


「じゃあニャンちゃん」


 そして「にゃーお」と猫真似をする戸乃上。


「慰謝料無くても買う」


 可愛すぎるわ。意味は解らないが。


「冗談だよ。目が本気だから割と怖いよ」


 いや、割と本気だ。初心者向けの安いギターなら2万で買える。戸乃上のためなら払える。


「そういうのは自分で買ってこそ、って、どっかのバンドマンが言ってたしね、ニヒヒ」


「そーだぞ、自分の好きなものを、自分で買うのが大事なんだ。わざと高いのを買って、『せっかく買ったんだから』って頑張らざるを得ない状況にするってやり方も、どっかのベーシストが言ってた」


「ここにいるベーシスト?」


「いや、ちがう。割と沢山のバンドマンが言ってると思うぞ」


 実際、俺は中学の頃もバンドをやっていて、ライブハウスとかも使った事があるのだが、その時はまだ幼かったせいか全然モテなかった。いや、その話では無かった。俺はこれでも少しだけバンドマンとの繋がりがあって、話は聞いているということだ。


「あとあれだ、自分で買った楽器は恋人。他人から貰ったのは愛人、みたいに言ってた人も居たぞ」


「翔ちゃん?」


「ちげぇよ。なんで俺に言わせたがるんだよ」


「じゃあ、お財布とかと同じで他人から楽器を買ってもらうのはすごく良いことだからオススメ! って言ってたバンドマン居なかったの?」


「そんな今のお前のためだけに用意されたみたいな言葉はない。自分で買え、自分で」


「戸乃上香海未はバンドに向いてる、って言ったバンドマンとか、ワンチャンどっすか」


「だからねぇよ、そんなお前のためだけに用意されたバンドマンの言葉は」


 バンドマンじゃなくて良ければ、ここにいくらでも戸乃上のためだけの言葉を用意するヤツは居るが。


「そっかー、居ないかー」


 大して残念じゃなさそうに残念がる戸乃上。そこでふと、あんな会話でテンションが上がっている自分に気付く。少し前までは昨日の事で気が滅入っていたのに、これだから美少女というのは困る。


「こういう積もる話も、声掛けたメンバー今から集めてしたかったんだけど、気分とか体調、大丈夫?」


「ん、ああ、いや、問題ない」


 昼メシも食い終わった所だったため、俺は早々に立ち上がる。


「音楽室借りてるから、行こ」


「あいよ」


 いつまでも過ぎた事を気にしていても仕方ない。女の子が大好きだというオークの血のおかげか、それとも単に単細胞なだけなのかはともかく、なけなしの元気は出た。このなけなしの元気を頼りに、昨日のトラウマを乗り越えるしか、俺に選択肢は無いのだと思う。


「それにしても、ほんといきなりだったな。なんでバンドなんだ?」


 聞くと、香海未はさも当然のように答えるのだった。


「だって翔ちゃん、やりたかったでしょ?」


「…………まぁ、好きだからな、ベース」


 オークという特徴上、普通の人間と比べて刺激に強い。身体が頑丈だから痛みを耐えられるだけでなく、鈍いからあまり感じないのだという事も相成って、生半可な刺激では物足りないのだ。


 そこへ来て、ベースのあの振動だ。


 空間ごと包み込んで、あらゆるものを刺激するあの低音は、刺激に強い俺の身体を刺激し、鼓動さえも狂わせてみせた。


「音の振動が心臓を鷲掴んで、なにもかも揺らしてみせるあの快感は、きっと、他では味わえない。だから俺はベースが好きだ」


 これが俺の、ベーシストとしての見解。


 元バンドマンとしての見解は他にあるのだが、それはまた別の話だ。


「うんうん、これからはその快感にどんどん浸ってくれたまえー」


 そうこうして到着した音楽室。


「じゃあ、行くよー」


 扉に手をかける香海未。


「こちらが、今日から仲間になるメンバーでーす」


 そして開かれる、新しい音楽への道。


 俺はときめいていた。


 昨日の事なんて忘れて、過去なんて放り捨てて、今から、明日からの楽しみに胸を踊らせていた。


 そのはずだったんだ。


「…………な…………」


 黒く長いポニーテールが、開かれた扉から入った風に靡(なび)いた。


「ようやく来たか、戸乃上。……と……うむ、なるほど」


 音楽室の中で俺たちを待っていたそいつは、きっと、おそらく、美女と言えるだろう。


 特に何を意識するでもなく強烈な目力を常備しているらしいそいつは、自然、さらりと言葉を紡ぐ。


「なんとも言えぬ偶然があったものだな」


 ほんとうだ。


 ほんとうに、なんとも言えない。


 香海未から紹介されたバンドメンバーは、昨日、俺を殺そうとした退魔師だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る