チキンクリスプと存在の軽さ
僕は日雇いバイトの派遣スタッフである。派遣会社に所属し、派遣先の企業でこき使われるのが僕の仕事だ。奴隷商こと派遣会社の社員は会社の奴隷で、僕たち派遣スタッフはその奴隷の奴隷だ。派遣先の企業は下請け会社の下請けの社員だから言ってみれば奴隷の奴隷の奴隷で、俺たちは奴隷から奴隷にレンタルされて奴隷の奴隷の奴隷の奴隷になる。
書いてて自分でもよくわからなくなってきたが、要するに、僕は社会の最底辺で仕事をしているということだ。
派遣スタッフ労働初日。朝八時に起きて派遣会社に連絡を入れ、同じ派遣会社のスタッフが集まる集合場所へ向かった。
集合場所には僕を含め7人のスタッフが来ていた。年齢も性別もバラバラ。僕たちが集団で工場まで移動していく様子は、ネットのオフ会の集まり以上に不自然なものだった。向かっているのはおもちゃ工場。クリスマス商戦に向けて、十一月には既に出荷が始まっているのだ。
工場の前で少し待たされる。他の会社の派遣スタッフも次々と到着する。まるで、工場まで移動してくる様はドナドナで、工場の前に派遣スタッフが集まる様は奴隷市場のようだ。
「どいたどいた~!」
若い女性三人組がおしゃべりをしているところに自転車が突っ込んでくる。どうやら、若い女性を嫌うお局様の登場のようだった。こんなところにもヒエラルキーはあるのだ。
工場の中に入り、事務室で首にかけるペラペラのナンバープレートを渡される。そのあとは控え室に通され、狭い荷物置き場でボロボロの汚いカゴに荷物を置く。
「まるで、本物の奴隷じゃないか」
奴隷三昧といった様子に、僕は笑いがこらえきれなかった。しかし、ふと気付く。僕はそうやって自分が売られていくときにも他人事のようにへらへら笑っている。そうした当事者意識の無さ、危機感の無さが僕をこの場所へと堕したのではないかと。
荷物を置き、仕事場へ出ると、工場長の挨拶が始まった。他の日に出荷する商品と今日並べる商品を混同しないように、という注意だった。工場長の挨拶が終わり、いよいよ始業。
この現場は初めてだったので、工場長は僕に指導係のおじさんをつけた。先ほどから視界の隅をヨタヨタと歩いていたおじさんだった。おじさんもどうやら、派遣スタッフの一人であるようだった。工場長に話しかけられると、おじさんはヘラヘラと笑いながら言った。
「な、なんですか~。よ、四十八歳ですけど~」
突然年齢をアピールするおじさんの意図を掴めず、周囲の時間が止まった。どうやら、おじさんなりの冗談を言おうとしたようなのだった。
「じゃあ、よろしくね」
工場長はおじさんに指導係の任務を言いつけると、自分の持ち場へと去っていった。おじさんは何も指示せずにどこかへ行こうとしたので、こちらからどうすればいいですかと聞くと、吃音混じりに「こ、こっち」と言った。どうやら、かなりコミュニケーションや説明が苦手な人のようだ。
このおじさんだけでなく、周りを見回すと日雇い派遣労働スタッフの民度はかなり低いと言わざるを得なかった。「僕はここに派遣されて来るような奴らとは違う!」と思わなければやってられないくらいの民度の低さだが、実際にはこんな奴らと同じかそれ以下の存在だからこんなところで働いているのだという厳然たる事実が、僕の前に立ちふさがった。そうだ、そうなのだ。今の俺は間違いなく底辺の中の底辺で、その認識を誤れば一生地を這って生きることになる。
最初の二時間はとても忙しかった。僕の仕事は、おじさんと一緒にダンボール箱をひたすら運ぶ仕事だった。ダンボール箱を運んで、決められた場所に積む。
前の人がダンボールに物を詰めて、僕がそれを運ぶ。運ぶ、積む、運ぶ、積む。「社会の歯車」という比喩がよく使われるが、本物の歯車になったような気分だった。だってこんなことは、本物の歯車にだってできるのだ。人間である必要が無い。
前の人がどんどんと作業を終わらせてダンボールを積む。僕がそれを回収する。間に合わない。おじさんは積みすぎた箱を別の場所へ移動するように社員の人に注意されていたが、そんなことは意に介さず、箱の移動などせずマイペースに仕事をしていた。他人の話を聞かないタイプのようだ。
汗が出てきた。めまぐるしい。忙しい。運ぶ、運ぶ、僕、運ぶ。この仕事に思考が介入する余地は無かった。ただ無心に、ひたすらに運ぶ。そうこうしているうちに、昼休みのベルが鳴りハードな午前中が終わった。
駅の購買で買ったコッペパンをもそもそと食べた。席が少ないので、他の派遣スタッフとも相席だ。無言。会話が無い。隣の席の大柄なスタッフ二人は知り合い同士らしく、部屋で唯一ベラベラと話をしていた。
突然、その大柄な二人のスタッフが大きな声を出した。
「皆さん! お菓子を持ってきましたよ!」
そういって大柄なスタッフ二人はお菓子を配る。半分くらいのスタッフがそれを貰う。俺の方には来ず、俺は貰えなかった。
場に活気が溢れる。なんだ、こんなところにもコミュニケーションがあり、馴れ合いに適応しなければ生きてはいけないのか。ついていけない。なんだというのだ、社会。
蛇口から出る冷水をチビチビと飲んでいると、休憩終了のチャイムが鳴った。
午後の勤務開始。
忙しかった午前中とはうってかわって、午後は僕の仕事の前の工程である箱詰めの作業に時間がかかっており、やることがなくなっていた。なので、真剣な目つきをしてその辺をうろうろしたり、時折何かを理解したかのようにその辺を指差して深く頷いたりしてやり過ごしていたら、横を通った社員たちが「よし、やってるな!」みたいな感じで通り過ぎて行った。ボケっとしたツラで真面目に仕事をするよりも、姿勢を正して真剣なツラで何もしない方が良い。真面目な人間よりも、真面目そうな人間が評価されるのだ。真面目なツラをしていたら、顔の筋肉は疲れた。
ようやっと僕が暇をしていることに気付いた社員は、僕をダンボール崩しの作業に移した。ダンボール崩しというのは、セロテープで繋いで組み立ててあるダンボールの結合をカッターで切り、ペシャンコにする作業だ。これもまた、僕は無心に、ただひたすらに切った。頭など使わない。ただただ手を動かすのだ。
しばらくダンボールを崩していたら、前の工程が終わったらしく僕は元の作業に呼び戻された。
ひたすら歩いて、ダンボールを運ぶ。
工場の中には陽が差さない。夜でもないのに、長いこと太陽の光を浴びていなかった。空気が悪く、呼吸するたびにダンボールの粉塵が肺へと届き、気持ち悪くなる。服はもう
真っ黒だ。皆黙々と作業をする。殺伐とした空気を緩和させようという狙いなのか、この雰囲気には不似合いな、オブラディ・オブラダの陽気なメロディが電子音で流れた。精神の異常を喚起しそうな音であった。ときおり聞こえる包装用のビニール袋を作成するために鳴る「ブゥン」という音は、SFで空想されるディストピア小説のようなグル-ヴを生み出していた。ディストピア小説のよう? いや、ここはディストピアそのものだ。
一瞬、積み上げたダンボールを外に運ぶために、シャッターが開かれ外の陽が差した。光が愛しく思えた。それと同時に、この中は外の世界とはハッキリとした境界線の引かれた場所なのだということを体感してしまった。
労働もラスト二時間というところで、感覚が狂った。時間を今までの何倍にも感じる。実際の五分が体感としては三十分の長さに感じた。歩きすぎで足が痛む。疲れから、ダンボールの箱が何十倍の大きさに見えることもあった。パッと後ろを振り向くと、わずかに脳が揺らされ、頭が真っ白になり、一瞬記憶が飛んだ。ここはどこだ? 俺は何をしている。
ここはおもちゃ工場。子供たちに夢を運ぶための場所。子供たちの夢と薄氷一枚を挟んだ水面下では、奴隷たちが夢を搾り取られ、子供の夢を支えていた。
疲れで気絶しそうになりながらも、何とか今日の労働を終えた。時計は遅れており、就業のチャイムは3分遅れで鳴った。
事務所に行って作業時間を記入し、荷物を取って帰路に着いた。フラフラだった。
自分などいなくてもいい労働だった。誰にだってできる、いくらでも代えの利く仕事。末端の人間ほど代えが利く。いや、仕事だけじゃない。僕の人生全てがきっとそうなんだ。僕らは皆、代用品なんだ。代えの利くパーツの一つなんだけど、人はたまに錯覚して「あなたは私にとってかけがえのない特別な人」なんて言ったりもする。その錯覚が恋と呼ばれるものなんだ。あるいは仕事でだって「これは俺にしかできない仕事」なんて思って仕事に誇りを持ったりもする。それもやりがいと呼ばれる錯覚だ。錯覚であってもそう思えることは幸せであるに違いない。だけど、僕は錯覚としてすら誰かに特別な人だと思われたことはない。錯覚すらない。僕は特に純粋な代用品なんだ。労働においても他の人生においても、代用可能な、一番外側の歯車。
お腹が減った。何か食べなくては。しかし、380円しか持っていない。しかも、帰りの電車賃で260円かかる。120円しか使えない。仕方ないので、駅前にあるハンバーガーショップで、100円のチキンクリスプというメニューを頼んだ。
この粗悪な鶏の屍肉で作られたチキンクリスプと僕は同じだ。
大量の羽数を小屋に詰め込まれ、悪質な衛生環境で育てられたブロイラー。肉になる鶏はどれだってよかった。金持ちの私腹を肥やす為に生かされ、殺される。一緒だ。ファストフードと等価の人生。わずか数百グラムのチキンクリスプ。なんという存在の軽さだ。
なんだか疲れてしまった。僕はチキンクリスプを握り締め、ハンバーガーショップの机に突っ伏して、そのまま意識を途切れさせた。
ボトムオブ社会 短編集 ボトムオブ社会 @odio
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