第7話:鳥籠
頭蓋が燃えている。
小気味良い乾いた音を立てながら、眼球の裏で火花が散る。
僕は気づかぬ内に立ち上がっていた。
脚は震え、腕は動かない。
それでも尚、僕の身体は執拗に立ち上がることを求めた。
10メートルほど先に、キュクロプスの巨躯が見える。
しかし、どこか奇妙だった。
呆然といった様子で怪物は立ち尽くしていた。まるですぐ傍に広がる木々のように、鬼は啼かず動かず、じっとその場に生えている。
次に視界に飛び込んできたのは、相変わらず横たわったままの安原の姿だった。幸い、まだ無事のようだ。
ほっと息を撫で下ろしたところで、朦朧とする頭の中に1つの疑問が灯った。
キュクロプスは、攻撃を途中でやめたのか。
一体何故。
改めてキュクロプスに目をやったが、相変わらずぴくりともしない。胸の内で、違和感が益々膨れていく。
そういえば、頭が熱い。まるで、脳味噌が燃えているようだ。
それに、今にも胃袋から泉のように胃液が噴き出してきそうだ。世界がぐるぐると回転している。
……一体、何が起こった。
キュクロプスもそうだが、僕の身体も普通ではない。ひどく悪酔いした後に、ウォッカをしこたま飲んだような感覚。
その時、キュクロプスの身体がぴくりと動いた――ように見えた。
あれは危険だ。早く排除しないと。
無意識下で、何かがそう囁く。考える間もなく、動く方の腕を前に突き出す。自分ではない何者かが、内側から身体を操っているような感覚。
「……消えろ」
身の毛のよだつような恐ろしい声が口から漏れた。それは僕の声ではなかった。何か別の、おどろおどろしい存在が紡いだ“言葉のようなもの”だった。
僕はキュクロプスに全神経を集中させたまま、突き出した手を思い切り握りしめた。
「消えろ」
その瞬間、一つ目の鬼の身体が2つに折れた。形容しがたい音が耳に届いた気がしたが、空耳だったかもしれない。
握った手に力を込めると、魔物の身体は折り紙のように何重にも畳まれていく。手から血が滲むほど強く、骨が折れてしまうほど固く、僕は拳を握りしめる。
やがてキュクロプスは1つの小さな点になり、最後に断末魔のような赤い発光を残して――消えた。
後には何も残っていない。
怪物の死体も、血の一滴さえも。
頭蓋が燃えている。
小気味良い乾いた音を立てながら、眼球の裏で火花が散る。
「なんだ、これ」
しわがれた呟きを最後に、僕の視界は暗転した。
******
「……だから、無理」
「何で」
「何でも」
「さっきから言ってること支離滅裂じゃない。阿羅も見たでしょ。この子サンプルよ。間違いない」
誰かが喋っている。うっすらと目蓋を開くと、フードを目深に被った2人組の人影が見えた。声音から想像するに、若い女性のようだった。
ひどく気分が悪い。頭の内側で思い切りシンバルを打ち鳴らされているような響きがある。
「それは認めるわ。でも明らかにこいつは異物よ」
「阿羅!」
「こっちこそ訊くけどさ、宇羅、あんた責任取れんの?こんなんが“蟲堕ち”でもしたらどうすんのよ」
「この子はサンプルだからそんなこと有り得ないわ」
「ただのサンプルじゃない。魔物をオブジェクト化してから、完全に消失せしめたのよ。こんな化け物じみた力、一度だって見たことない。何があるかなんて分からないわ」
「でも、流王ならきっと連れてこいって言う」
「あんたまた迷惑かける気なの?ただでさえこの間帰ってきたばかりだってのに」
「……あの」
声を発した途端、2人はぎょっとしたようにこちらに首を向けた。
「君、大丈夫?」
「あ!ちょっと宇羅」
宇羅と呼ばれた人影が顔を覗き込んでくる。
フードに隠れた顔が露わになった。薄っすら茶色がかった大きな瞳と、丸みを帯びた小さい鼻、そして少しぽってりと厚めの唇。僕と目が合った瞬間、その人懐こそうな顔がくしゃりと破顔した。
「良かった!意識戻ったんだね。頭がボーっとしたりしない?」
「ああ、有難う……ございます」
「頭は?ボーっとしたりしない?」
「ええっと、ボーっとというより、ガンガンします。吐きそうだ」
「んっ、それはまずいね……!」
宇羅は可愛らしい顔を一瞬歪めたが、すぐに覚悟を決めた強い眼差しを僕に向けた。
「良いよ、吐いちゃって!」
……そういう問題ではない。
徐々に頭にかかった靄が晴れていく。深呼吸を何度か繰り返すと、悪酔いも次第に薄れていった。それと同時に、気を失う前の闘いの記憶が呼び覚まされてくる。
そうだ、キュクロプスに闘いを挑んだのだ。
僕が囮となり、安原が削る。そんな役割分担だったはずだが、そう上手く事は運ばなかった。結局作戦は破綻して、安原は――。
「安原さんは」
「何?」
「もう1人、男がいたはずだ。その人はどこにいますか」
「ああ、あのプレイヤー安原さんて言うの。そこに、ほら」
宇羅の指差した先に安原は横たわっていた。どうやら意識は戻っていないらしい。
「大丈夫なんでしょうか」
「ただのスタン状態でしょ。ほっとけばいずれ気がつくわ」
阿羅と呼ばれた女が素っ気なく答える。
彼女は既にフードを脱いでいた。宇羅とは対照的に、切れ長の目と高い鼻筋をしている。唇は薄く、ともすれば酷薄な印象を受ける。整った顔立ちだけに、怒った顔は怖そうだ。
「そんなことより、あんた、さっきのは何」
「何の話です」
「魔物を消したでしょう。どうやったの、あれ」
「……分からない、です」
「そんなことだろうと思った。訳も分からず力を使ったわけね」
「ちょっとやめなよ。この人だって吃驚してるんだから。私達だってそうだったじゃない」
宇羅は僕を庇うように立ち塞がると、振り返ってにこりと微笑んだ。
「そうだ。君、名前は?」
「……丈嗣。吉田丈嗣です」
「丈嗣君ね!私は宇羅。それからこっちの怖い顔したのが阿羅」
「ちょっと!やめてよ」
「阿羅はもっとにこにこしたら可愛いのに、いつもしかめ面なんだから」
「あんまり調子乗ると燃やすわよ、宇羅」
宇羅は大袈裟に驚いた素振りを見せてから、こわ~いなどとふざけている。
阿羅はやれやれと首を振ると、僕に向き直った。細い眉がひそめられ、一層怜悧な印象が濃く影を落とす。
「単刀直入に訊くけど、プレイヤーじゃないでしょ、あんた」
「……」
「答えたくないのね。ホント、嫌になるくらい最初の私たちとそっくり。
それじゃこっちから話すわ。私と宇羅はね、金を払って参加してるプレイヤーじゃない。妙な求人に飛びついてこの世界にやってきたの。最先端のゲームを体験して、お金までくれるっていうんだから当然話に乗ったわ」
「……!!」
「あんた、噓が下手ね。顔に書いてあるわ。『僕と全く同じだ!!!』ってね」
どういうことだ。
僕は阿羅と宇羅の顔を眺めたが、2人とも平然としており、一片の動揺も見られない。視線は宙を彷徨わず、しっかりと私に注がれている。これで噓をついているとしたら、2人揃って現実世界では詐欺師だったに違いない。
「まだあるわ。あんた、初めてTCKにやってきた時に“酔わ”なかった?さっき力を使った時も、頭が燃えるように熱くならなかった?
ここまで辿り着くということは、レベルも上がっているでしょう。それにしてはおかしいわね。最初からあなたたちの闘いを見ていたけれど、あんたの攻撃はさっぱりキュクロプスに通っていなかった。あそこに倒れているお友達が相応の実力だったのに比べると、おかしな話だわ。その恰好を見るに、魔術にステータスを振ってるわけでもなさそうだし。
……ひょっとして、ステータスが数値通りに反映されてないんじゃないの」
その通りだ。
レベルは上がっていたし、ステータスだって騎士に適した振り方をしていた。安原と同じように、体力や攻撃力を重点的に高めてきた。数値だけみれば、安原や他のプレイヤーとそう変わらないはずだ。
しかしステータス画面で見える数値とは裏腹に、僕の体力バーはちっとも増えず、剣技では初心者にも後れを取り、耐久力は紙のように貧弱だった。
安原には言えなかった。
気を遣わせるのも申し訳ないし、それにこの話が“バイト”に関する情報だとすれば、報酬が減額されるかもしれないというさもしい損得勘定が働いた。
「何で、僕たちを見ていたんですか」
「馬鹿ね。あんたたちなんかアウト・オブ・眼中よ。私たちはさっきどこかに消えたキュクロプスに用があったの」
「リスポーンするまでまた暫く待たなきゃねー。ま、あんな消え方してリスポーンするのか分からないけど」
宇羅はおかしそうに笑っている。
一方の阿羅は仏頂面を崩さず、氷のように冷たい瞳で僕を見下ろしている。
僕は阿羅を睨み返すと、半ば喧嘩を売るような語気で尋ねた。
「そんな話して良いんですか」
「何故」
「報酬が……減るんじゃないですか」
「そんなもん、もう関係ないのさ」
「何言って――」
「そういえば丈嗣君、こっちに来てからどれくらいになるの」
宇羅が屈託ない声で割り込んでくる。突然のことに少し面食らったが、僕は淡々と答えた。
「3週間くらいです」
「あ!まさか、まだ1ヵ月経ってなかったの」
「ええ」
「……阿羅、やっぱりやめよう。1ヵ月過ぎてから、また声かければ良いじゃない」
「どういうことです」
「え」
「1ヵ月経ったら、僕はこのゲームには戻らない予定です。……阿羅さんと宇羅さんは、ここに来てからどれくらいになるんですか」
刹那、宇羅の顔にしまったという文字が浮かぶ。慌てたように何度も瞬きをしながら、彼女は何とか笑顔を繕った。
「へ、へえええ、ぐ、偶然だねぇ。じ、実は私たちもまだきてから2週間くらい――」
「1年」
「ちょっと阿羅」
「遅かれ早かれ知ることになるんだ。早いに越したことないだろ」
阿羅はその薄い唇をいやらしく吊り上げる。
「バイトは終わりだ。あんたもう、鳥籠に囚われちまったんだよ」
……意味が分からない。
悪ふざけに決まってる。
何を言ってるんだ。僕は1週間したら現実に戻る。そこからは60万円使って豪遊してやるんだ。
矛盾があるはずだ。何しろこれは噓なんだから。綻びを見つけて、阿羅に突き付けてやれば良い。
僕は絶句していた。目を皿のように見開き、吐かれた言葉に粗を見つけようと躍起になる。
「1年もゲームに閉じ込められたままってことですか。馬鹿馬鹿しい。笑えないですよ」
「笑えないよな。だってこれは冗談じゃない。ホントの話だ」
「僕はあと1週間したらこことはおさらばだ。金を貰って二度と戻らない」
「私たちもそう思ってたよ。ほんの1年前にはね」
救いを求めるように宇羅を見たが、彼女は力なくうなだれている。
その姿を見て瞬時に悟った。
彼女たちが言っていることは、真実だ。
絶望が視界の淵からひっそりと這い上がってくる。目の前が真っ暗になるような錯覚を覚える。
――このまま帰れないなんて、そんな話があるか。
茫然自失となった僕を前に、阿羅は不憫そうに顔を歪めた。
「何にせよ、こんな混乱した状態で流王のとこへは連れていけない。一旦こいつには頭を冷やしてもらう。あの安原ってのといれば、魔物にやられる心配もないだろう。良いね、宇羅」
「……うん。丈嗣君にとっても、そっちの方が良いと思うし」
「じゃ、そういうわけで私たちはもう行く。あの安原ってのが目を覚ます頃合いだろう。関わり合いになったら面倒だ」
「辺りの魔物は片付けておくから、できるだけ早く森を出てね。本当は付き添ってあげたいけど、阿羅の言った通り、プレイヤーと関わると色々面倒だから」
安原を一瞥して、宇羅は申し訳なさそうに頭を下げた。
去り際、彼女は突然顔を近づけてくると、耳元で囁いた。
「死んじゃダメだよ」
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