第6話:鬼の鉄槌
「それじゃ、また明日!」
そう残して、安原の姿は徐々に薄れていった。
一人部屋に残された僕は、まだ誰の足跡もついていないダブルベッドに倒れこむ。身体的には消耗していなくとも、精神的な疲労は着実に蓄積されている。
今日は本当に長かった。初めてTCKの世界の土を踏み、他のプレイヤーと知り合い、その日の内に魔物と戦った。次々に移り変わる展開に目を回しながらも、何とか初日を乗り切ることができた。
ジェスチャーでメニューを呼び出すと、僕は改めてログアウトボタンを探した。だが事前の説明通り、そんなものはどこにも見当たらない。
「一般プレイヤーと異なり、皆さんは自らログアウトすることができません。その代わり、現実世界の身体ケアは我々が行います。皆さんの普段の生活よりは幾分健康的かと思うので、ご安心頂ければと思います」
そうは言っても、やはり不安だ。食事は点滴でどうにかなるのだろうが、ずっと同じ姿勢では床ずれする可能性もあるし、排尿などの生理現象もある。自らの与り知らぬところで他人が己の身体を触っているというのは、どうにも気持ちが悪い。
1カ月後、万が一ゲームから出られなければどうなるのだろう――
ふとそんな不安が胸を過ったが、杞憂だと打ち消した。
開発・運営元のブースリレインにとって、僕たちのような被験体は効果測定のためのモルモットの性質をもつ反面、利益を圧縮するコストそのものだ。ただでさえ応募者が殺到していて枠が足りていないのに、金喰い虫の僕らを優先するなんてのは愚の骨頂だ。
ベッドに横たわっていると、次第に現実世界と変わらぬ睡魔が視界の端に迫ってくるのを感じた。仮想世界にあっても、人の脳は休息を必要とするらしい。
目蓋を閉じると、あっという間に暗闇が僕を飲み込んで、そのまま深い眠りへと沈みこんでいった。
******
長く続くその廊下を、僕はゆっくりと歩いていた。
床も壁も天井も、一面白無垢だった。天井から吊るされた蛍光灯の灯りもまっ白で、僕はその光に消毒されている気分になった。社会の隙間に落ち込んだ僕のような屑には、きっと数多の雑菌がこびりついていることだろう。
……僕は一度、ここに来たことがある。
そうだ。妙なアルバイトに応募したのだ。1カ月ゲームをするだけで60万円もらえるという、いかにも胡散臭い募集に手を挙げたのだ。
廊下はどこまでも続いており、両側の壁にはそれぞれ扉が据え付けられている。
扉同士の間隔はひどく狭くて、一室一室がまるで牢獄のようだ。明るく清潔感のある廊下はその無機質さを際立たせ、立ち並ぶ扉の非情さを逆説的に描き出しているようだった。
僕は黙って歩き続ける。
足音が壁や天井にぶつかって反響し、奥へ奥へと拡散していく。
何だろう。気分が悪い。
頭蓋骨の中身をミキサーで滅茶苦茶にかき混ぜられたように世界が揺れている。
初めてこの世界にやってきた時の感覚。初めて祖父のヨットに乗せてもらった時に喉元にせり上がってきた味噌汁の味がする。
廊下はどこまでも果てがないように思われたが、歩き続けているとやがて行き止まりにぶつかった。そこにも1つ扉があったが、両側に並ぶ扉と異なりプレートはついていない。ドアノブに手をかけると、重みもなく扉はするりと内側に開いた。何の躊躇いもなく、僕はその脚で部屋の中へと踏み込んだ。
部屋の中には、ただ1脚の椅子が忘れ去られたように置かれている。そしてその椅子に腰かける、若い男のシルエットがあった。
「……おや。誰だい君は」
俯いたまま、男はそう口にする。向かい合っているはずが、顔の辺りは陰っていて表情が判然としない。
「いや、やはり言わなくて良い。大方新しい“リソース”なんだろう。時々迷い込んでくるんだ、君のようなのが」
「ここは、どこです」
「見ての通り、私の部屋だ」
「ここに住んでいるんですか」
「住んでなんかない。ただ“ある”だけだ。住むなんてのは人の営みであって、私がやったところで猿真似にしかならん」
「人では……ないんですか。あなたは一体誰です」
男は低く嗤った。声はにノイズのような不協和音が混じっている。
「君はどう思う」
「え」
「私は何に見える。どんな形をしている」
「……人間に見えます。若い男に見える」
「そうか」
男は座ったまま、ゆっくりと右手を頭上に挙げるとパチンと指を鳴らした。同時に光は消え失せ、後には深海よりも暗い闇が広がった。
唐突に、己の身体が闇に溶け込んでしまうのではないかという不安が全身を貫いた。目の前にかざした掌さえ視認できない。そのまま顔に触れると、確かにそこに僕の身体は存在していた。僕は自身の存在を確かめるように、自らの身体を強く抱いた。
周囲を見回す僕に、男の声が響く。
「私は何に見える。どんな形をしている」
僕は恐怖を無理矢理押し隠すように、半ば怒鳴るように応じた。
「見えませんが、さっき見たままです。若い男だ」
「本当にそうだろうか」
「そうですよ。さあ、早く灯りをつけて下さい」
「今、君の目の前に立っている」
呼吸を止めた。生唾を飲み込む音が、身体の内側から鼓膜に届いた。
目の前にいるのか――分からない。一寸先さえ見通せない。
気分が益々悪くなる。上下左右があべこべになり、思わず膝をつきそうになる。
「私は何に見える。どんな形をしている」
「そんな、何を――」
「触れてみたまえ」
「……嫌だ」
「触れてくれ。確かめてくれ。私は今、どんな形をしている」
僕は眩暈の中、闇に向かって手を差し伸べた。
******
TCKで安原とともに過ごして、そろそろ3週間になる。
ここまで安原はほぼ毎日ログインを欠かしていない。それも一度ログインしてきたら、最低でも6時間ほどはぶっ通しだ。仕事などせずとも、両親からの仕送りだけで悠々自適に生活できているのだろうか。僅かで良いから僕にもお裾分けしてもらいたい。
安原にしても、いつも自分より先にログインしている僕は相当なゲーム狂に映っていることだろう。ただ現実世界に戻ることができないだけなのだが、そんなことは彼が知る由もない。
「なぁ、良い加減次の街に移動しないか。君もレベル上がってるんだろう」
街のレストランで肉を頬張りながら、安原は今日で6回目の提案を口にする。
安原の言葉通り順調にレベルは上がっているものの、僕たちはまだ最初の街に留まっていた。
「前も言ったでしょう。僕はもうあと1週間ほどでゲームをやめなきゃならない。今更別の街に行くのもちょっと」
「だから、そんな親御さんとの約束破ってしまえば良いじゃないか。こんな素晴らしい世界があるんだ。勿体ないよ」
「ええ、しかしなかなか聞き入れてはもらえなさそうです。もし何だったら、僕を置いて次の街へ進んだって良い」
「そんなこと言うなよ。ここまで2人で仲良くやってきたじゃないか」
安原には、両親との約束で1ヵ月しかゲームができないと伝えている。元来人が良いのか、安原は何の疑いもなく僕の言葉を信じ切っている。
「ま、丈嗣君がいなくなるまでは僕もここに残るよ。お別れをしたら、私も次の街に進むとしよう」
安原と僕は食事を終えると、いつも通り街の外へと向かった。
魔物が出現するエリアにつくと、安原は真っ先にその最奥に位置する森へと向かった。途中で出現する魔物を軽やかに切り伏せながら、彼は歩みを止めずに進み続けた。その背中にぴたりとくっつきながら、僕は遅れまいと後を追う。
やがて木々が深くなり、それに合わせて頭上から降り注ぐ陽光はまばらになる。鬱蒼とした森の中では、時折茂みがざわつく音や正体不明の唸り声が響く以外には、安原と僕の息遣いだけが微かにこだましている。
「大丈夫かい」
「ええ。何とか」
「それにしても、ちゃんとステ振りはしてるの?レベルは僕と同じくらいのはずなのに、やけに苦労してないか」
「魔力とかにもちょっと振っちゃってるんで、そのせいですかね」
「何だ、丈嗣君魔術師志望?その割には鎧と剣で見た目は完全に戦士そのものだけど」
その時、鎧ごしにでも分かるほどに地面が震えた。木々が落とす影の中から、何か巨大なものが近づいてくる気配が滲んでくる。
安原と僕は剣を握り直すと、互いに背中を預けあう。
「……本当にやれるんですか」
「今日こそこのエリアの完全クリアを狙うんだ。何がなんでもやる」
「答えになってないですよ」
軽口を叩きながらも、緊張で口の中は渇き切っている。
僕は唇をひと舐めすると、ミトンの中に収まる柄をしっかりと握り直した。
そして影の中から、そいつは姿を現した。
3メートルはあるかと思われる巨躯は筋骨隆々としており、生半可な攻撃ではまるで通じそうにない。右手には僕らの身の丈ほどもある槌を引き擦っている。あんなものを喰らったら一溜まりもない。現実ならば身体に穴があくだろう。
冷や汗が脇を伝って横腹へと滑り落ちていく。
単眼の鬼、キュクロプス。
顔の中央の巨大な瞳がぎょろりと動き、武者震いする安原と僕の姿を認めた。
「いくよ!」
安原の掛け声に合わせて、僕はキュクロプス目掛けて切りかかる。声をあげながら、僕は剣を頭上から思い切り振り下ろした。
しかし手応えがない。刃は魔物の肉体を貫くことなく空を切った。
キュクロプスはその巨体に似合わず素早く後ろに跳ぶと同時に、右手にもった槌を横薙ぎに振るった。文字通りの鉄槌が、屈んだ頭上を唸り声をあげながら通り過ぎる。
ちりちりとうなじが熱くなる。
ふとすればすくみそうになる身に喝を入れ、怪物の動きを目で追った。
僕は屈んだまま距離を詰めると、今度はその脚目掛けて切っ先を突き出す。いきなり急所は無理でも、徐々に弱らせていけば活路は開かれるはずだ。
だがそれも、一つ目の怪物は軽々と躱した。凄まじい脚力で跳躍すると、キュクロプスはそのまま僕に向かって槌を振り下ろしてきた。
ガードしたら剣を折られる。
僕はギリギリまで軌道を読んでから、すんでのところで身を捩った。
ほんの目と鼻の先を、鈍く光る黒鉄が過る。槌はそのままの速さで地面にめり込み、土埃が辺りに舞った。
その衝撃の大きさに、改めて身がすくみそうになる。
キュクロプスが再び僕に向き直ろうとした時、その腹から突如鋼の刃が飛び出た。
魔物は一瞬身体を硬直させたが、瞬時におぞましい叫び声をあげながら背後に向かって思い切り腕を振るった。
「安原さん!」
安原は剣を引き抜くと、流れるような動作で迫りくる丸太のような左手に刃を突き立てた。まだ地面にめり込んだままの槌を引き抜く間も与えぬままに、安原は更なる追撃を加えていく。鋭く砥がれた剣の切っ先が、キュクロプスの頑健な身体を幾重にも切り裂いた。
攻撃力の低い僕では、キュクロプスに致命傷は与えられない。僕がやつの気を引き付けている間に安原が背後に回り、虚をついて一撃を入れる――それが僕たちが立てた作戦だった。
このまま打ち倒せるかと踏んでいたが、キュクロプスは捨て身の攻撃とばかりに腕を滅茶苦茶に振り回した。安原が一歩退いた隙に地面から槌を引き抜くと、今度は僕目掛けて襲い掛かってくる。
こうなることは予想済みだった。もう一度、安原が攻撃できるようこいつを引き付ける。
キュクロプスは両手で槌を握りしめると腰だめに構え、一拍置いてから突き出してきた。その弾丸のようなスピードに、回避動作が少し遅れる。
咄嗟に左手を突き出したが、槌は止まることなく僕の腕をもいだ。
腕が吹き飛んだ。
そう錯覚するほどの衝撃が左腕を襲った。痛みはないが、肩から先にまだ感覚があるのが不思議なくらいだった。
続けざまに、突き出された槌がそのまま横薙ぎに迫ってくる。辛うじて剣で防いだが、片手だけでは支えきることはできず、僕の身体は発泡スチロールのように軽々と吹き飛ばされた。
「丈嗣君!大丈夫か」
駆け寄ってこようとした安原の前に、キュクロプスの巨体が立ち塞がる。
安原は不安げに顔を強張らせたが、歯を食いしばると一つ目の巨人に真っ向から切りかかった。すぐさま激しく得物がぶつかり合う音が響き渡り、周囲の木々から鳥たちが一斉に飛び立っていった。
「駄目……だ。一対一では……勝て……ない」
僕は身体を起こそうとしたが、脚に力が入らない。ステータスを確認すると、左腕と右脚は不能状態になっており、HPも僅かしか残っていない。回復アイテムは道中で使い切ってしまった。
霞む目で安原の動きを追う。
彼は善戦しているようだったが、徐々に追い詰められていた。キュクロプスは槌の攻撃に加え、蹴りや体当たりなどの体術も絡めて安原を攻め立てる。彼の表情が、徐々に苦し気なものに変わっていく。
そして遂に、怪物の鉄槌が安原を捉えた。彼はガードもできないままもろに一撃を食らい、吹き飛ばされて地面に転がった。
「安原さん!!!!立って!!!逃げて下さい!!!」
しかし、安原は地面に転がったまま動かない。
まさか、意識を失っているのか。うつ伏せになったまま、指一本ぴくりともしない。
「安原さん!!!」
僕の叫びに構わず、キュクロプスはゆっくりと両腕を頭上に掲げた。手には例の槌がしっかりと握られている。
トドメを刺すつもりだ。
……やめろ。
やめろやめろやめろやめろやめろ。
「……やめろおおおおおおおおお」
その瞬間、頭の奥で何かがふつりと切れる音がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます