第2話:こんにちは異世界

小学生に上がったばかりの頃、父方の祖父の持っているヨットに乗せてもらったことがある。

父の生家は海沿いにあり、祖父はそこに独りで住んでいた。

毎年夏になると、お盆休みを利用して祖父の家に泊まりに行くのが我が家の恒例行事だった。


「俺、じいちゃんのヨットに乗せてもらいたい!」


そう駄々をこねて、ついに乗せてもらったヨット。

その日は快晴で、群青色の空から降り注ぐ太陽の真っ白な光が、海に反射して煌いていた。あれほど渋面だった両親も、いざ乗船すると歳不相応にはしゃいでいた。


5分後、その宝石のような海面に、僕は泥水色の味噌汁をぶちまけた。味噌汁の次に焼き魚、その後に白米と、僕の口からは胃液で半分溶解した「朝ごはん」の成れの果てが次々に飛び出していった。


初めての乗船体験は、こうして船酔いという三半規管のなせる黒魔法により、辛く酸っぱい思い出として頭の奥に蓋をされた。


そして今、その悪夢がまさに蘇り、僕は広場のど真ん中で口を押えてしゃがみこんでいた。

咄嗟のことに、何が起こったのか理解するまで時間がかかった。つい先ほどまで、僕は棺桶じみた部屋のベッドに横たわっていたはずだ。それがどうして屋外のこんな見たこともない場所で、酔いと吐き気に苦しみながら醜態を晒す羽目になっているのか。

霞む目で周囲を見渡すと、何人か人影が見える。皆一様に訝しげな視線を向けてくるが、声をかけるでもなく立ち去ってしまう。


「あの……」


声をかけようと口を開きかけた時、喉奥から熱い感覚がせり上がってきた。僕は再び口を鉄扉のように閉ざすと、頭を揺らす悪辣な酔いに耐えた。

暫くそうしてうずくまっていると、徐々に酔いは引いていった。口の中には酸っぱさが糸を引いている。僕はゆっくり立ち上がると、人が見ていないのを確認してから、粘性のある唾液を広場の石畳に吐き出した。


しかし、これは一体どういうことだ。

まさかこれが、僕の夢見ていた世界―ゲームの中だとでもいうつもりか。コンピュータの演算処理が生み出した、電子的仮想世界……それにしては、あまりに現実的に過ぎる。


正直な話、インターネットで求人情報を見た時には詐欺か何かだと思った。ゲームに参加するだけで、1ヵ月60万円支給。それもただのゲームではなく、世界初の完全没入型MMO。

怪しい。怪しすぎる。虎穴に入らずんば虎子を得ずという言葉もある。ゲームで遊んで60万円ゲットだなんて、そんな美味い話があるはずがない。


だが喉から手が出るほど金に困っていた僕は、気づくと応募フォームを送信していた。ほんの軽い気持ちだったのだ。説明を受けるだけ受けてみて、危なそうであれば帰ってしまえば良いと。


……やはり、帰るべきだった。どう考えても、この状況は尋常ではない。


その場に留まっていても始まらないので、恐る恐るではあるものの、まずは適当に歩き回ってみることにした。

僕がいる場所は、黄土色の石畳が敷き詰められた広場だった。古代ローマの建造物のような趣きで、歩くと石畳の上の砂塵がざりざりと音を立てる。とてもゲームの中にいるとは思えない。

100メートルほど先に、同じく黄土色をしたアーチが見える。そこをくぐると、眼前には森が広がり、その更に向こう側に街らしき影がぼんやりと認められた。


ひとまず、人がいる場所に辿り着きたい。空を仰ぐと、太陽らしきものが中天に浮かんでいる。ここが仮にゲームの世界だとすれば、この空はどこまで続いているのだろう。空の向こう側には何もなくて、あの太陽らしきものも球の内側に張り付けられた二次元イメージに過ぎないのだろうか。

そんなことを考えながら森の中へと続く第一歩を踏み出そうとした時、


「あの、すいません!」


叫び声とともに、木陰から唐突に人が飛び出してきた。

同時に僕の喉からも、女性顔負けの黄色い悲鳴が飛び出した。


「うあああああああああああああ」

「お、落ち着いて下さい!魔物とかモンスターじゃないです」


飛び出てきた男は必死の形相で僕を宥めようとしたが、彼の様子があまりに鬼気迫っていたために、僕の喉からは最大ボリュームの悲鳴が休むことなく溢れ続けた。

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