第3話:初めての街へ

男は安原康夫と名乗った。


落ち着いて見れば、安原は小柄なものの目鼻立ちがはっきりしており、かなりの美男だ。歳の頃は20代後半。リスのような丸い瞳に、整った鼻筋。口元には気品が溢れている。

頭のてっぺんから爪先まで卑しさ満点の僕とは正反対だ。


柔和な笑みを浮かべる安原に、僕は素朴な疑問をぶつけてみた。


「こういうのって、ハンドルネームで呼び合うのが普通じゃないんですか?」

「いやね、私こういうの初めてなんだ。本名の方がしっくりくる。それに、外見もそのままだろう?こんな顔して欧米風の名を名乗られても、聞いてる人は吹き出しちゃうんじゃないかと思ってさ」

「やっぱり、外見も現実そのままなんですね」

「?そりゃあそうだろう。そういう説明だったし、参加前に色々身体のデータを取られたじゃないか。それはそうと、君、名前は」

「あ、すいません。丈嗣です。吉田丈嗣」

「丈嗣君ね。よろしく!」


手を差し出されたが、それが握手を求める手だと気づくのに時間がかかった。慌てて手を取ると、安原は力強く手を握り返してくる。


「そういえば、何で僕に声をかけてきたんです?」


予想外の質問だったのか、安原は少し苦笑いを混ぜた表情を寄越した。


「いやね、気を悪くしてもらったら申し訳ないんだが、何だか君は私と似ている気がして」

「どういうことです」

「ゲームに不慣れで、少し人見知りっぽかったから。明るく騒ぐ人種が苦手でね。似た人を探してたんだ」


噓がつけない性格なのか、随分とはっきりものを言ってくれる。

だが苛立ちはない。そんなこと、母親の胎内から頭を出した時から今まで二十五年間、嫌というほど味わってきた。


「気にしないですよ。僕の方こそ、一人じゃ不安だったんです」

「それなら良かった、うん!」


安原は安心したようににっこりと笑った。


******


安原と言葉を交わす内に、彼がどんな人間なのか分かってきた。安原はプレイヤーとして今回のベータ版に応募し、見事当選したらしい。両親は都心に土地を幾つも有する素封家で、彼らは一人息子に毎月二百万円程度の仕送りをしているらしかった。


安原も僕に色々と尋ねてきたが、適当にはぐらかした。

今回ゲームに参加することになった経緯は他言無用である。無論、ゲームの中においても――事前に何度も念押しされ、また支払い条件にも含まれていたから、僕は喋るわけにはいかなかった。今回の応募に一体幾らかかったのかという浮薄な好奇心が何度も胸を揺さぶったが、60万円を棒に振る虞のある質問はするべきではない。


「それにしても、ホントに凄いね。こんな技術が実用化するレベルに達したなんて信じられない」

地面に転がっていた小石を蹴飛ばすと、安原は感嘆の溜息をつく。

「僕も未だに信じられないです、現実の身体はここにないなんて」

「むしろ、現実って何なんだろうな。今まで疑ったことなかったけど、少なくとも今私の脳みそは、すっかりここが現実だって思い込んでる」

「五感も完璧に再現されているって聞きました。不思議ですよね。存在しないはずのものを見て、聞いて、触れて、嗅いで、味わうことができるなんて。ふと我に返ると幽霊を相手しているみたいで、何だか恐ろしい。……そういえば、1つ疑問があるんです」

「何だい」

「痛みは感じないと聞いてるんですが、触覚があるのに痛みはないなんてどういうことなんですかね」

「んー、私もまだ痛みを受けるような状況になったことはないから分からないなぁ。まぁでも、体感させることはできるよ」

「本当ですか」


安原は足を止めて振り返った。顔には少し躊躇いの色が見える。


「体験してみる?」

「ええ、是非!……危なくないのなら」

「それなら大丈夫。私も経験済みだから」


安原はつかつかと私に近づいてくる。僕は若干の不安と緊張で身体を強張らせていたが、これではいけないと無理に脱力しようと心掛けた。


「いくよ」


言うが早いか、突然安原の拳が腹目掛けて飛んできた。避ける間もない。電子空間上に再現された僕の腹に、安原の色白の拳がめり込む。

いきなり何するんだ―そう食ってかかりそうになり、妙なことに気づいた。痛みがない。それ以前に、何の感触もなかった。呼吸に支障はなく、悪寒を伴った冷や汗も流れない。そもそも、現実であれば殴られた瞬間に食ってかかるなんてできっこないのだ。

口をぽかんと開けて殴られた腹をさする僕に、安原は「突然悪かったね」と頭をかいた。


「先入観がない方がより純粋な体験ができるかなって思ってさ。気を悪くしたらすまない」

「いえ、とんでもない。それにしても、不思議な感覚ですね。確かに殴られているところは見たのに、その感覚がない」

「ああ。これはPK禁止のルールに基づいた仕様だ」

「PK……って何でしょう」

「Player Kill-つまりプレイヤー間での殺し合いだ。こいつがないと、例えば僕が背後から丈嗣君に襲い掛かって、殺すことができてしまう。あくまで、ゲーム内の話ではあるけど」

「そんなことして何になるんです?」

「プレイヤーは千差万別。おかしな考えや嗜好をもった連中も多い。ゲームクリアなんて目もくれず、同じプレイヤーを狩ることに愉悦を感じる輩がいてもおかしくはない。まぁ、私には分からんがね」


安原は背を向けると、そろそろ行こうか、と言って歩き出す。僕はその横に並ぶと、興味本位でもう一つの質問を口にした。


「ところで、敵から攻撃を受けた時にも今と同様な感覚なんでしょうか」

「それは、さっき僕に殴られた時のことかな」

「ええ」

「前提として、私もまだ敵から攻撃されたことはないから実体験を話すことはできない。ただ、聞いた話だと少し違っているらしいな」

「というと」

「PK禁止の仕様の目的はプレイヤー間でのトラブルを防ぐためのものだ。一方で、完全没入型を謳うこのゲームの売りは、まるでその場にいるような感覚。例えば戦っている時には、ヒリついたスリル――戦っている実感が不可欠なんだ。だから、敵から攻撃を受けた際にはそれ相応のフィードバックが身体的に返ってくるような仕様になっていると聞いた」

「それってつまり、痛みを感じるってことなんじゃないんですか」

「いや、それはない。一応痛みを感じ取れるような設計にはなっているらしいが、間違いなく機能はオフになっているはずだ。腹に穴を開けられたり、手足の骨を折ったりする度に激痛を感じながら、それでも尚魔物と戦いたいなんて思うやつはいないだろう」


確かに安原の言う通りだ。しかも、今回のゲーム参加者は僕のような例外を除いて金持ちばかり。これまで札束で頬をはたくだけで相手を従わせてきた連中が、血腥い暴力の渦に自らも飛び込もうなどとは考えにくい。


「ま、そんなことはいずれ分かるだろう。これから嫌というほど身をもって経験するはずだ。さあ、どうやら着いたようだよ」


道の先に、ぼんやりとした影が見える。それが木々ではなく建物の連なりだと理解した瞬間、僕は自ずと駆け出していた。

近づくにつれて、人々の喧騒が大きくなる。現実世界とは異なり、信号機や車の走る音は聞こえない。耳に入ってくるのは、人々の息遣いと、行き交う足音、そして呼子の叫び声。


狭い空の下で林立するビル群の狭間で、アスファルト上を靴音だけが響く。そんな冷え切った世界にはない活き活きとした人の営みが、ここには確かに存在した。


「街だ」

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