5 母、コケる
雨は時間を追うごとに強くなり、午後は短縮授業になった。
台風が近づいている影響で、大雨暴風警報が出されたからだ。
当然部活も全て中止となり、久しぶりにチハルちゃんと一緒に帰ろうとしていると、校門前にパン屋の車が止まった。
「あ、チハルちゃんのお母さん……」
「ああカンナちゃんも一緒やね、良かった。早うお乗り、あんたのお母ちゃん、仕事場でコケて病院に運ばれたんよ!」
雨は叩きつけるように降り続いている。ワイパーがせわしなく右左に動く音が耳につく。
「狭くてごめんね、カンナちゃん大丈夫?」
「うん……」
四角いパンケースの隙間で揺られながら、カンナの頭の中ではドラマでよく見るシーンがぐるぐるしていた。
『お母さんが倒れました、すぐ帰りなさい』という言葉に青ざめるヒロイン。大抵はドラマの中盤、一時間ドラマなら始まって二十五分頃。しかし『コケた』と聞いて青ざめるシーンは見たことがない。『コケた』って……
「いやー目から火ぃが飛んだわ、ほんと」
病院から帰るなり茶の間の座椅子にどてっと身を預け、顔を氷のうで冷やしながら、母は人ごとのように笑った。
「商品搬入口のスロープ、雨で滑り易うなっとったんやね。台車を押したままツルー!顔からどーん! んで、あいたたたー言いよるうちに病院よ。ほんでも商品は無事だったらしいわあ。前歯は欠けてしもたけど」
「笑いごとやないやろお母ちゃん!もう、チハルちゃんのお母さんにまで世話かけて恥ずかしい」
カンナの抗議を聞き流し、母はお見舞いのひとくち饅頭をもぐもぐしている。
結局、たいした怪我ではなかったようだ。
車に乗せてもらって病院に向かう途中、母が死んだらどうしよう、なんてずっと心配していたのがアホらしくなってきた。
こんなノーテンキな母親を心配なんかして損した、とカンナは頭をかきむしった。
「ま、腕を折ったとかじゃなくて良かったな。早めに歯医者にも行っとけよ。前歯欠けたとか余計にブサ……いや、目立つとこやし」
知らせを受けて急いで職場から駆けつけた父は、無事を確認すると再び玄関で長靴を履こうとしている。
「なに、お父ちゃんまだ仕事? 台風やのに」
「今頃の台風は上陸せんわ。それに工場は大勢の人が働いとるんぞ、お父ちゃんの部署は小っさいけど、責任者が抜けるわけにはいかん。お母ちゃんを頼むぞ、カンナ」
そう言いおくと、父はカッパを着こんで大雨の中を出かけて行った。
頼むぞと言われても。ただでさえ昨日のことで気まずいのに、と母を横目で見る。
「ああそうだカンナ、お土産があるんよ。お母ちゃんの手さげ開けてみ」
言われるまま母の手さげ袋を開けてみると、新聞紙の包みが三個、ゴロッと出てきた。
「なにこれ……ビン?」
「今度お母ちゃんの担当する産直コーナーで使うジャム瓶や。可愛いかろう? カンナにあげる」
新聞紙を開いてみると、赤いギンガムチェックの布を被った蓋が見えた。市販のジャム用よりちょっと平たいが、確かに可愛い。カンナの胸がきゅっと痛んだ。
「あ、あのねお母ちゃん。あの鍋、お小遣い貯めて同じようなの買うから……」
「アホたん。あんなんもうええわ」
ケロリと言う母に、カンナは言葉が続けられなくなってぱくぱく空気を噛んだ。
アホたん? せっかくこっちから謝ろうとしているのにアホたん? これだからデリカシーのない大人ってやつは……
「十二年も使って昨日で役目を終えたんよ、あの鍋は。それよりまた頑張ってジャム作りなさい、一生懸命『予習』したんやろ?」
氷のうを半分ずらして、母はこっちを見ている。目を合わせられなくて、カンナはわざとぶっきらぼうに答えた。
「まあ、ビンは貰っとくけど。折角やけん」
でも言わなくちゃ。『ごめんなさい』を今、言わなくちゃ。
さんざん迷った挙句、カンナがやっと顔を向けた時には、母は軽いイビキをかいて眠っていた。
「あーもう、なんっちゅう親や。人の気も知らんとぉ!」
文句を言いながら、押入れから毛布を引っ張り出して母に掛けてやる。
ごめんね、とカンナが小声で言ったのも、母に聞こえたかどうかはわからない。
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