3 なべ、ヒビる

 

 腹へった。


 これはもう、「お腹が空いた」なんてお行儀の良い状態じゃない。

 頭、くさいかも。お風呂、入りたい。

 けど、そうするには一階に下りて母と顔を合わせなければいけない。


 カンナは昼寝明けの猫みたいにのっそり窓に向かい、暗い庭を見た。

 風呂場から湯の音と父の下手っぴな鼻歌が聞こえる。中学生の娘に「うっさいわ」となじられて、叱りにも来ないとはノンキな親だ。

 ふいに庭の一角に明りが差した。母が勝手口を開けたのだ。ポリバケツにゴミを捨てる背中は、なんだか知らないおばさんのように老け込んで見える。あのゴミの中には、カンナが台無しにしてしまった苺ジャムの残骸も入っているのだと思うと胸がちくんと痛んだ。

 風呂場の鼻歌が止み、もう一度湯の流れる音を聞いてからカンナはこっそり一階へと降りた。思ったとおり、今度は母が風呂に入っているらしい。いつもならカンナに「先にフロ入りぃ」の一言が飛んでくるはずだが、それがないところをみると、母も母でこのまま冷戦突入のつもりか。

 つっかけサンダルを履いて暗い庭に出ると、カンナは青いゴミバケツに向かってパシッと手を合わせた。

「ごめんなさいごめんなさいハタさんごめんなさいイチゴさんごめんなさい。あんなに美味しかったのにいっぱい無駄にしちゃってごめんなさいいっ」

 小声でひたすら謝っていると、また涙が出てきた。ジャムの瓶がどうとか、本当はそんなみみっちいこと、どうでも良かったのだ。ただ、母に何か言われるたびに無性に腹が立って。そんなことで苺にまで八つ当たりしてしまう自分が情けない。


「ほー、謝ることも知っとるんか。ただのヒステリー娘やなかったな」

 いきなり声を掛けられてぎょっと顔を上げると、父が頭をもさもさとタオルで拭きながら立っていた。

「お母ちゃん風呂に入りよるから、ゴハン食べるんなら今のうちやぞ――と言いたいが!」

 父の顔がきゅっと厳しくなった。

「人様が好意でくれたもんを粗末にするような娘は晩メシ抜きや。おまけにお母ちゃんまで泣かして……頭下げるんならゴミバケツじゃのうてお母ちゃんの前でせい」

「な、泣かすって。え、お母ちゃん泣いとったん?」

「おう。あの鍋、中にヒビが入ってなあ。見てみ」

 父が指差す先を見ると、さっきの白い鍋がゴミバケツの隣にひっそりと置かれていた。内側を覗くとホーロー加工の表面に細かいヒビが入って、ところどころコーティングが剥がれている。忘れていた。こういう鍋は金属鍋と違って、空焚きしたり急に冷やしたりは厳禁だと母に聞いていたのに。母が背を向けて見ていたのは、これだったのだ。

「まあ安モンやけどな。これ、新婚の時お母ちゃんに初めて買うたった鍋や。カンナが生まれてからはこれで離乳食作って、幼稚園の弁当も作って、結構大事に使っとった。いや、俺も言われるまでは忘れとったけど」

「……ごめんなさい」

「ほやからー、謝るんならお母ちゃんに謝れや」

 父の大きい手がカンナの頭をワシャワシャとする。

 謝れるだろうか。目尻の涙を拭きながら、カンナは思った。父には何度でも素直に謝れる気がする。けど、母にはなんだか頭を下げたくない。自分が悪いのはじゅうじゅう分かっているけど、謝ったりしたら『負け』な気がする。何に『負け』なのかは知らないけど。


 蚊に喰われるぞ、と声を掛けて父は先に家に入った。とっくに喰われてるよ、とつぶやいて、カンナは痒い腕を掻きながら月を見上げた。

「なーんか悪い子になったな、あたし……」

 今夜あたり満月のはずなのに、見上げる夜空はぼやぼやとした白い光しか見せてくれない。

 

 明日は、雨になるかもしれない。

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