第29話 約束

 八月三十一日。埼玉県某所。

 暦の上でも感覚的にも夏の終わりの一日。

 そのはずである。

 けれど、例え「冷やし中華はじめました」の張り紙が街から消えても、それをまったく気にも留めない空と雲と太陽は、今日も涼しい顔をして、まるで「あと一二カ月は夏を続けさせてもらうぜ」と言わんばかりの様相で、下界の汗水足らす生き物達を見下ろしている。

 

 そして、

 屋根があり空調も効いている。それにも関わらず、まるで外の日差しの中にいるのかと錯覚するほどの熱気に包まれた大きな多目的ホール。その片隅にある楽屋の一室で、由里佳は少し前にステージ衣装に着替え終え、今は自分達の出番が来るのを静かに待っていた。

 今日は由里佳達『STAR&LINEミ☆☆☆スタートライン』にとって、久しぶりのイベント参加である。それも前回とは比べ物にならないほどの大舞台だ。

 リハーサルの時に初めてここのステージの上に立った由里佳は、その大きさに思わず圧倒されてしまった。ステージの向こうに広がる、がらんどうの客席。その途方もなく広い空間が観客で一杯になると言われても、由里佳には想像もできなかった。

 ただ〝見たこともない眺めになるに違いない〟という確信と、〝とんでもない場所に来てしまった〟という実感だけが強く印象に残った。

 

 きっとそのせいだろう。

 時間が迫るにつれて、近頃はすっかり疎遠になっていたあの厄介者がひたひたと忍び寄るように近づいてくるのを由里佳は感じた。

 しかも、始末の悪いことにそいつは、こちらが嫌がれば嫌がるほどに近づいてくるという意地の悪いやつでもある。

 それが分かっているから、由里佳はそいつのことをあえて追い払おうとはしない。

 厄介者ではあるが、適度な距離を保っている分には悪いことばかりでもないのだ。

 ひとまず、そいつのことはあまり意識しないようにして――、

 

 何か別のことを考えようと思った由里佳は、鏡の方に目をやって、ふと自分の唇に目を止めた。そういえば――と、先日、三人で買ったお揃いのリップクリームがカバンの中に入っていることを思い出した。普段使いする習慣がない上、何だか使うのがもったいない気がしてそのままにしていたのだ。

 でもせっかくのハレの日だし、試しに使ってみようかな、と思う。

 カバンの中をがさごそとやり目当てのものを取り出そうとしたところ、不意に手が滑って、摘まみ上げたそれを落としてしまった。

 カツンという音を立て、小さな円筒形の物体が床の上をコロコロと転がっていく。慌ててその行方を目で追いかけると、それは狙い澄ましたように隣で身支度をしている椎奈の足元で止まった。

 すると、

 やはりステージ衣装姿の椎奈が、腰をかがめてリップクリームを拾い上げ、はい、と由里佳の方に差し出した。

「――ありがとう。ごめんね、邪魔しちゃって」

 由里佳が礼を口にして差し出されたものを受け取ると、

「ううん、丁度終わったところだから平気。それより、大丈夫? もしかして緊張してる?」

 椎奈は由里佳の顔を覗き込むようにしてそう聞いた。

「わかる? ――うん、実はちょっとだけ。でも、へいきだよ」

 別に隠していたわけではないけれど、もしかするとそれは、自分で思っている以上に表に出てしまっていたのかもしれない。

「そっか。イベント出演なんてデビューライブの時以来だし、無理もないよね」

「というより椎奈が図太いだけじゃないの」

 こちらも準備を終えたらしい真以子が、椎奈の反対側から揶揄するように口を挟んだ。

「どういうこと?」

「だって、椎奈も今日みたいな大きな会場でライブするのは初めてでしょ。ふつうなら、少しぐらい緊張を表に出しても良いんじゃない」

「そういう真以子も平然としてるようにしか見えないけど?」

「――あはは。ふたりとも、なんていうか、肝が据わってるよね」

 いつものやり取りに由里佳は自然と笑顔を浮かべて言った。

「ふふん、こう見えて一応年上だし、こういう時ぐらいは頼れる先輩っぽさを出していこうかなってね。どう? 今のわたし、頼りがいありそうじゃない?」

「そういうの椎奈には似合わないと思う」

「そんなことないよ! ……そんなことないよね?」

 椎奈は自信満々に言い返したかと思いきや、不安げにポツリと呟いて、由里佳の方に縋るような眼差しを向けてきた。

 そういう目を向けられると、思わず意地悪したくなってしまう。だって、それもこれも全部椎奈が可愛いのがいけないのだ、と由里佳は誰にともなく言い訳をする。

「うーん、どうかな。似合うかどうかはともかく、いつもとあまり変わらないかも」

「えー、そんな!」

 椎奈ががっくりと項垂れるようにすると、それにはまったくお構いなしに真以子が意外な告白をした。

「……でも実を言えば、わたしもほんの少しだけ緊張してるかも、なんて」

「ふふ、奇遇だね。実のところ、わたしもちょっとだけ――」

 すると、椎奈は何故か不敵な笑みを浮かべて真以子に同意した。

「本当? ふたりでも緊張したりするんだ」

「それは、まあ、やっぱりこんな大舞台ともなるとね」

「ほんの一カ月前までは、ここでライブができるなんて夢にも思わなかった」

 そう言う真以子は、どこか遠くを見るような目をしている。

「わたしも同じ。そのせいか、なんか未だにあまり実感がないんだよね」

「おかげであまり緊張しないですんでるのかも」

「それはあるかもね」

 

 そう、ほんの一カ月前――。

 あれは、由里佳が生まれて初めての家出をして、それから色々なことがあって、心機一転再スタートを切ることを決意したその数日後のことだった。




「おう、由里佳。新しい足はどんな感じだ?」

 五島が現れて開口一番にそう言ったのは、この日、白金義体研究所で新型の脚部パーツへの換装を済ませた由里佳が、「ここで少し待っていてください」と研究所にある応接室に通されてしばらくのことだった。

「プログラムのアップデートも同時にやったので、慣れるまで少し時間が掛かるかもしれないって言われましたけど、でも、すごく良い調子です」

 ほら、この通り、と由里佳はソファから立ち上がって、その場で足踏みをしたりぴょんと小さく飛び跳ねてみせる。

「それは何よりだ。良かったな、由里佳」

 思いがけず、父親が娘に見せるような顔を向けられて、何だかむず痒い気持ちになりながらも由里佳は「はいっ」と素直に頷いた。

 それから、 

「……あれ、そういえば、織部さんと岡田さんは?」

 今朝方ここを訪れた時は一緒だったふたりの姿がないことに気づいて、由里佳は尋ねた。

「あー。あのふたりは、制御プログラムの今後のアップデートについてここの担当者と打ち合わせをしたいっていうんで、俺だけ先に抜けてきた」

「そうだったんですね」

 由里佳が「なるほど」と頷くと、

「まあ立ち話もなんだしな、俺も座らせてもらうか」

 そう言うなり、五島は、由里佳の座っているソファと組になったもう一方に座を占めた。座面が沈みこむのに身を任せて、ふうと息をついてから、思い出したようにこちらへ顔を向けゆっくりと口を開く。

「……それでな、実はお前達にまだ伝えてない話があってな」

「達ってことは、椎奈さんや真以子さんにも?」

「ああ」

「それで一体どんな話なんですか」

 まるで、蛇が出そうな藪を恐る恐るつつくように警戒した声で由里佳が聞くと、

「何、別に悪い話じゃないからそう身構えるなよ。ちょうど一カ月ほど先の話なんだが、この前の秋葉原でやったのと同じようなイベントに出演を依頼されててな」

「そのイベントで、あの時みたいにライブができるんですか?」

「おう。規模はあれよりずっと大きいが、恐らくまたワンステージだけって形になるだろうけどな」

「そんなに大きなイベントなんですか?」 

「それがな……聞いて驚け。今度の会場は『SSA』だ!」

「SSA? ってどこですか?」

 聞き覚えのない名前に、由里佳が首を傾げて聞き返すと、

「――おいおい、そりゃないぜ由里佳さんよ」

 五島は背もたれに倒れかかるようにして天井を仰いでから、か細い声を出した。

「……まあいい、それについては後であのふたりにでも聞いてくれ。それよりだな――」

「あの――、また大きなイベントに出られるなら、お願いしたいことがあるんですけど」

 由里佳は五島の言葉を遮って、思わず早口になって言う。

「お、おう? なんだよ藪から棒に」

「今度の新曲のダンスは、わたし自身の力で踊りたいんです」

 すると、五島は意外なものに出くわしたという表情で由里佳の顔をまじまじと見つめた。

「わたし、何か変なこと言いましたか?」

「いや、由里佳の方からその話が出るとは思わなくってな。また随分と心境の変化があったもんだ。あのふたりのお陰か?」

 由里佳は急に見透かされたような気がして、結局はいつかの五島の思い通りになってしまったことに少しだけバツの悪さを覚えて、そっぽを向いて答えた。 

「ご想像にお任せします」

「何だそりゃ。まあいずれにせよ、やる気になってくれたってのはいいことだ。――いや、なに、実は俺も同じことを言おうとしてたんだよ。今度のライブではを使わずに、お前の実力だけで勝負してみたらどうだって」

 由里佳はそむけていた顔を再び五島の方へ向けて言う。

「――いいんですか?」

「ただしひとつだけ条件がある。遊びでやってるわけじゃないとなれば、半端なものを客に見せるわけにもいかないからな。期限を切って、それまでにお前達三人のダンスが満足いく出来になっていなかったら、その時は、本番は今まで通りのやり方でいくことにする。つまり、お前達の努力次第ってわけだ。……どうだ、やれるか?」

「やります……!」

 由里佳はずいと身を乗り出すようにして、いつになく力強い口調で断言した。

「そう来なくっちゃな。それで期限についてだが、どう転ぶにせよ、ある程度の余裕は欲しい。となれば、そうだな……、イベントの一週間前までには結果を出してみろ。最長でで三週間ってところだな。期待してるぜ、由里佳」

 そう言って、五島はニッと笑って見せた。




 その日の午後から早速、由里佳は椎奈と真以子に合流して一緒にレッスンを始めることにした。しばらくご無沙汰にしていた貸しスタジオに由里佳が到着したのは、予定されているレッスンの開始時刻よりも三十分以上も早かった。

 決められた利用開始時間になり次第、先に個人練習を始めるつもりで待っているとほどなくしてふたりが現れた。

「やっほー、由里佳さん。早かったんだね」

「うん。今日から一緒にレッスンが出来ると思ったら、何だか居てもたってもいられなくってつい」

「もう運動しても大丈夫なの」

 真以子がちらりと由里佳の足元に視線を向けて尋ねてきた。

 足のことについてはすでに話していたので、由里佳は詳しい事情は抜きにして答えた。

「一二時間ぐらいはちょっと違和感があったんだけど、もう全然。何だか体まで軽い気がして、今なら何でも踊れちゃいそう」

「言うねえ。さてはわたし達が教えることなんて何もないかな? ねえ、真以子」

「むしろわたし達が教えてもらった方が良いかも」

 真以子が真面目な顔で重々しく頷いて言った。 

「ごめんなさい、言い過ぎましたっ」

 それは困る、と由里佳は慌てて頭を下げた。

「――あはは、謙虚でよろしい」

 椎奈の笑い声にほっと胸を撫でおろして顔を上げると、由里佳はそわそわしながら言った。

「ねえ、もうそろそろレッスン室に入れるかな?」

「うん、後ちょっとかな。それにしても初日から張り切ってるね」

 由里佳は、どうせ言うなら早い方が良いと思い、五島から聞いたことをこの場で話すことにした。

「実は、今日ここに来る前に五島さんから聞いたんだけどね。来月の終わりにイベント出演が決まったんだって」

「来月の終わりって……、」

「うん、八月三十一日。あと一カ月しかないなんて、ちょっと急過ぎるよね」

「それって、もしかして『SSA』の!?」

 椎奈が素っ頓狂な声を上げる。

「――ええと、うん、そうそう。たしかそんなことも言ってたかな」

「まさか――。未発表のサプライズ枠があるっていう噂は聞いていたけど……、」

「信じられない」

 ふたりの反応が想像していたものと少し違ったせいで、由里佳はにわかに不安に駆られて恐る恐る聞いた。

「……ふたりはもしかして、出たくないの?」

「ううん、そんなことないよ。ただ、ちょっと理解が追い付かないっていうか驚いちゃって。だって『SSA』って言えば、わたし達の憧れのステージでもあるからね」

 椎奈がそう言うと、真以子もこっくりと頷いて同意を示す。

「そうなんだ。それじゃふたりの憧れが実現するんだね」

 頑張る理由がもうひとつ見つかった。

 それが無性に嬉しくて、由里佳は勢い込んで言葉を継いだ。

「それでね、五島さんに、あのことを話したんだ」

「プロデューサーはなんて?」

「イベントの一週間前までに、わたしを含めて、三人のダンスがステージで披露するに足るものになれば許可してやるって。まあ、ふたりはもうほとんど完璧だし、実質わたしひとりの問題だけど――」

「そんなことないよ! わたし達も今まで以上に頑張るから。ね、真以子」

「ついに本気を出す時が来た」

 言葉の真意は良くわからないが、真以子の背後に見えない炎がめらめらと燃え上がっているような気がして、その熱意は十分過ぎるほどに由里佳に伝わった。

「ふたりとも――」

「言ったでしょ、由里佳さんがちゃんと踊れるようになるまで、練習につきあうって。これはもう由里佳さんだけの問題じゃないんだよ。――だから、三人で頑張って、一緒に最高のステージにしようよ」

 すると、真以子はこっくりと頷いてから、顔の前に右手の小指を持ち上げて言う。

「約束」

 それを見た椎奈は「お、いいね」と真以子に倣って同じポーズをする。

 ほら、由里佳さんも、と誘うような視線を向けられて、

「うん! 約束っ!」

 由里佳は弾んだ声を上げて、ふたりの小指に自分の小指を重ね合わせた。


 


 それからというもの、思い出したように戻って来た夏らしい日和の、そのうだるような暑さも物ともせずに由里佳達はレッスンに明け暮れた。

 そして、由里佳が復帰してから初となる定例のライブを行った日、その帰りに真以子がバイトをしているあの〝猫の店長の店〟に寄った折、椎奈がとある提案を持ち出した。


 いつも通り、客の少ない店内の中央寄りのテーブルに座って、連日のレッスンとライブの疲れからか、三人が珍しく言葉少なに思い思いの時間を過ごしていると、アイスティーのグラスを傾けながら真以子がふと口を開く。

「そういえば、椎奈、何か話があるんじゃなかったの」

 グラスに入ったストローを口にくわえたままぼんやりとしていた椎奈が、我に帰って、あ、と口を開く。その口からストローがポトリと落ちる。

「えーと……、そうそう。ほら、仕方ないとはいえ、せっかくの夏休みなのに、結局わたし達どこにも行けてないでしょ。それで、わたし考えたんだけど――、」

 真以子が胡散臭そうな目を向け、由里佳が耳を澄ませると、椎奈は少し勿体ぶってから言った。


「今度、三人で合宿をしてみない?」

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