第26話 それは月明かりのように A-side

 そのロボットタクシーが指定された住所で由里佳を降車させた時、時刻は二十時を回り、すでに辺りには夜の帳が下りていた。

 闇の中にあってなお黒々としたアスファルトが、街灯の明かりを反射して艶やかに光る。きっとその表面がまだしっとりと濡れているせいだ。そして、鼻孔を通り抜ける空気にも微かな雨の残り香が混じっていることに由里佳は気づく。


 築数年という、まだ真新しい十五階建てのマンション。その十階の、右から五番目のドアの前まで来ると由里佳は足を止めた。

 このマンションの各部屋の玄関には、指紋認証と顔認証及び声紋認証を組み合わせたセキュリティシステムを搭載する、いわゆるスマートドアが設置されている。

 いま由里佳が前にしているドアの利用者登録に、彼女の情報が追加されてから、もう二カ月以上が経った。

 由里佳は、ノブのない真っ平なドアの表面に右手を触れようとして、

 初めてこの扉を開けた時のことを思い出した。

 確かあの日は、日課だったダンスのレッスンを終え事務所に戻ろうとして、突如、「今日からお前の家はここだ」と五島から住所を書いたメモを渡されたのだった。そういえば、初めて起動した日からその日まで、三日ぐらいは事務所で寝起きしていたんだったっけ、と釣られて思い出す。

 そして、メモに書かれた住所を頼りに、ひとりでここを訪れた。

 あの時はまだ、ここが織部の住む部屋だとは知らされていなかった。

 このドアには、本当にわたしの情報が登録されているんだろうか? もし、この手を触れてもドアが開かなかったら――。そんな不安を胸に抱いて、祈るような気持ちで手を伸ばしたあの時。

 そして今は、

 もしかしたら、わたしの情報は消されてしまっているのかもしれない、と思う。

 もしかすると、ここはもう、わたしの居場所ではないのかもしれない、と思う。

 もし、この手を触れてもドアが開かなかったら――、

 わたしの〝心〟の奥の、大事なものをしまった箱もきっと永遠に開かないまま。

 それを確かめるのは怖かった。

 今すぐこの扉に背を向けて、箱のカギは失くしてしまったことにして、

 開けられないんじゃなくて、その必要がないから開けないだけなんだ。

 そう思い込む方が、百倍マシかもしれないと思う。

 

 ドアに触れるか触れないかのところで手を止めて、息も殺して、由里佳は人気のない廊下にぽつねんと立ち尽くしている。そのままどれぐらいの時間が経っただろう。一、二分か、あるいは十分か。そうして時間の感覚が麻痺してきた頃、迷った末についに由里佳が手を下げかけた時、まだ手を触れていないはずのそのドアがひとりでに右から左へゆっくりと開いた。

 

 下げかけた手をやはり中途半端な位置で止めたまま、由里佳はスライドするドアをただ呆然と見守った。

 やがてドアが半分以上開いて、その向こうにいた人物と不意に目が合った。

 織部さん――。

 ハッとした由里佳は咄嗟に何かを言い掛けて、用意していたはずの言葉がどこにも見当たらないことに気づく。

 どうしてかな。

 言わなきゃいけないことが沢山あるはずなのに――。

 由里佳が必死に言葉を探しているうちに、ドアは完全に開ききった。

 すると、織部が眩しそうに目を細めてから泣きそうな顔で器用に笑って見せた。

「遅かったね、。……ずっと心配してたんだよ」

「心配、してくれてたんだ」

 俯いて、ポツリと言う。

 違う。

 こんなことを言いたくて、戻ってきたわけじゃない。

「そんなの当然じゃない。だって――、」

「だって……?」

「……由里佳は、わたしにとってかけがえのない――〝妹〟みたいな存在だもの」

 由里佳が顔を上げて問うと、織部の口から思いがけない言葉が返ってきた。

 それはきっと、いつかの問いの答え。 

「いもうと――」

「わたしね、由里佳がいなくなって、ようやくそれがわかったんだ。ひとりぼっちになって、あまり広くないはずの部屋がすごく広く思えるようになって、やっと気づいたんだ。……もうひとりの『ユリカ』は、わたしにとって娘みたいなもので、守ってあげなきゃいけない存在。でも、『由里佳』はそうじゃない。わたしに守られるだけじゃなくて、そばにいてくれて、時にはわたしを守ってくれたり、支えてくれたりする……そんな妹みたいな存在なんだって。きっと、知らず知らずのうちにそれが当たり前になっちゃってたから、わからなかったんだ」

 

 織部の言葉は、星のない夜の月明かりのように由里佳の〝心〟を優しく照らす。

 けれど、それを素直に受け入れたい気持ちと、期待が裏切られることを恐れる臆病な気持ちがぶつかって、その反動で、由里佳の口からはとてもそっけない声が出た。

「ひとりぼっちって……、でも、織部さんにはイコがいるじゃない」

「うん、だけどわたしはイコとはお喋りできないもの。――ううん、それだって以前は気にもしなかった。一方的に話しかけるだけで寂しさが紛れていたのかも。……でもね、由里佳とイコのやり取りを見ていたら――、由里佳を通して、今まで知らなかったイコの〝声〟を知ってしまったから、それが聞こえなくなった途端に、急に意思疎通ができなくなっちゃったように思えたんだよ。由里佳がうちに来るまでは、それが当たり前だったのにね。由里佳がいないと、イコの気持ちや考えていることを知ることすらできないんだなって、余計に寂しくなっちゃったんだ」

 言い終えて、

 今度は肩の力を抜くように柔らかい笑みを浮かべてから、織部は由里佳の目を見て言う。

「由里佳はさ――、わたしがお姉ちゃんじゃ嫌?」

 織部さんは優しい。

 だけど、ときどきずるいと思う。だってそんな風に言われたら――。

 少しだけ迷って見せてから、けれど結局はその視線を受け止めて、

「――そんなわけないよ。だって、」

「だって?」

「あのふたりに――、椎奈さんと真以子さんにも、もうそう紹介しちゃったもの」

「本当に? わたしが由里佳の姉だって?」

 由里佳は、うん、と頷いてからまた口を開いた。

「あの時は、そう説明するのが自然だと思ったからっていうのもあるけど、でも、でもね――。本当はずっと、織部さんとわたしは姉妹みたいだなって思ってたよ。最初の頃はそれがどういうものかよくわかっていなかったから、別にそうなりたいって思っていたわけじゃないけれど、いつの頃からか本当にそうなれたらなって思ってた。――ううん、今もそう思ってる」

「由里佳――」

「ごめんね、織部さん。心配かけて。……あと、あんなこと言ったりして」

「わたしもごめん。自分のことばっかりで、由里佳の気持ちなんて全然わかってなかった」

「ううん、それはわたしも同じ」と首を振ってから、上目遣いに織部を見るようにして、由里佳はおずおずと口を開いた。

「あの、それでね、その呼び方なんだけど……」

「あ――、やっぱり急に変えるのはおかしかったかな。……もしかして嫌だった?」

「ええと、嫌なわけじゃないんだけど、なんだかくすぐったい感じがして恥ずかしいし、やっぱり織部さんには『のの』って呼んでもらいたいかも、なんて。……だからね、ふたりだけでいるときは今まで通りに呼んでくれたら嬉しいな」

 すると少し考えてから、

「何だかそれはそれで恥ずかしい気もするけど――、うん、わかった」

 そう言って、織部はひとつ頷き、

「えっと、それじゃあ、改めて――」

「?」

「おかえり、のの」

 思いがけないほどにささやかな言葉の、思いがけないほどの温かさに気づいて、

 束の間、由里佳は呆けたように頭の中を探してから、そっと口にした。


「――うん、ただいま」


 長らくしまい込まれ、もう使うことはないかもしれないと思っていたその言葉を。

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