第24話 ココロノアリカ

 一本道の先に見間違えるはずもない後ろ姿。

 その背中を目指して、五島は雨の中をひた走った。

 それは図らずも、アラフィフの男が年端も行かぬ少女を追いかけ回しているという、傍から見ればかなり危うい光景である。雨のおかげか人通りがないのがせめてもの救いだ。加えて、五島にとって僥倖と言えることがもうひとつ。それは、由里佳の足があまり速くないということだ。むしろ同じ年頃の少女と比べれば遅い方に違いない。しかし五島とて走るのが得意というわけもなく、寄る年波による衰えがふたりの勝負を五分にしていた。五十メートルほどの差が広がりもせず縮まりもしないまま、ふたりは、雨雲に覆われて薄暗く人気のない通りをどこまでも駆けて行く。

 手を伸ばせば届きそうなその距離が、今は果てしなく遠い。

 時おり流れ落ちる滴が目に入って、五島はそれを鬱陶しそうに拭う。

 まるで引き延ばされた糸のような雨粒は、弱まるでもなく強まるでもなく、相変わらずじとじとと降りやむ気配を見せない。

 そうして足元に溜まった雨水をパシャパシャと跳ね上げながら、このままだと不味いな――、と五島は思う。いざ持久力の勝負になってしまえば、恐らく五島に勝ち目はない。

 それに、確かこの先は車通りの多い大通りへと続いていたはずである。ひとたびそこへ出てしまえば、衆目に晒されるのは避けられなくなるだろう。

 何とかして、その前に追いつきたいところだが――、

 しかしそれは、何らかのアクシデントにより由里佳が急に立ち止まるか、転ぶかでもしない限りは到底不可能なように思われた。

 

 そんな都合の良い偶然が起きるはずないよな、と思った矢先、

 まさかの偶然が起こった。

 路肩の石ころに足を取られて派手に転倒したのである。

 皮肉なことに、五島が――。

 うおっ、という短い叫びとともにバチャンと派手な音を立てて倒れこんだ五島は、両手を地面についてかろうじて頭から転ぶことを防いだ。痛みに顔をしかめつつ、立ち上がりかけて視線を上げてみると、先ほどの音に気付いたのか、やはり五十メートルほど先で由里佳がにわかに立ち止まり、振り向いてこちらを見た。

 何やら強烈に迷っている気配がする。

 もしかしたら、心配してこちらへ近づいて来てくれるかもしれない。そんな淡い期待が五島の胸に生じる。下手に動いて刺激すると、また逃げられてしまうかもしれない。ここはじっと我慢だ――、と思い、五島はそのままの姿勢で由里佳の動向を固唾を呑んで見守った。

 図らずも、傍から見れば非常にである。

 そして、

 一瞬、由里佳と目が合った。

 ――合ったと思う。

 そう思った瞬間、薄情にも、由里佳はくるりと踵を返し再び走り去ってしまった。

「おいおい、そりゃないだろ――?」

 五島はどっと力が抜けたようになり、立ち上がる気力すら失いかけてそう呟いた。

 

 どんどん遠ざかる後ろ姿を呆然と見送る。例の大通りはもう目と鼻の先だ。

 しかし五島の予想に反して、由里佳は急に速度を落とすと、その手前で左の道へと折れた。小さな背中が、ついに五島の視界から完全に消える。

 迷うそぶりのない動きだった。

 あれはきっと何か理由があってのことだろう、と五島は思う。 

 けれどその道の先に、果たして何があるのかまでは見当がつかなかった。




 五島がそれを見つけたのは、結局のところ、〝都合の良い偶然〟によるものだったのかもしれない。

 一、二分ほどで気を取り直して立ち上がった五島が由里佳の後を追いかけて大通りの手前を左へ行くと、その先は入り組んだ住宅街になっていた。

 これといったあてもなく、手がかりもない。

 となれば方法は限られる。仕方なしに迷路のような路地を行きつ戻りつ出鱈目に進んでいくと、しばらくして唐突に開けた場所に行き着いた。

 どうやらそこは、住宅街に合わせて造られた公園のようだった。遊具と言えば、ブランコと鉄棒と小さな木製のジャングルジムがあるだけのこじんまりとした広場である。そのモダンなデザインや塗装の剥げ具合などを見るに、造られてからまだ日が浅いようだが、当然この天気では人気はなく〝寂れた〟と形容するのが相応しく思える場所だ。そしてその物寂しい公園を、ぽつぽつと置かれた、薄暗闇にぼんやりとした明かりを灯す照明が、どこか非日常的な空間に仕立て上げていた。

 あるいは、それに釣られてここまで来たのかもしれないな、と五島は思う。

 

 俺もあいつも――。

 

 入り口から一目見てそれとわかる場所に、

 降りしきる雨の中ブランコに座って、漕ぐでもなくただ俯いて、地面を見つめるようにしている奇特な少女がひとり。

 確かめるまでもなかった。

 五島が近づいて来たことに気づいているのかいないのか、由里佳は足元に目を落としたまま微動だにしない。

 パチャリパチャリと音を立てながら、ゆっくりと近づく。音は聞こえているはずなのに、由里佳はまだ顔も上げない。絶対にありえないと思いながらも、もしかしたら寝ているのかもしれないと思う。いくら何でも、こんな場所で寝るようなエキセントリックな性格にした覚えはないのだが、あるいは今回のことが由里佳にそうした予測もつかない変化を及ぼしたということも絶対にないとは言えない。

 果たして由里佳は、最後まで顔を上げなかった。

 もう一歩、また一歩と五島は進み、ついに手が触れられるほど近くまで来ると意を決して、物言わぬロボットのような少女に声を掛けた。

「――なあ、おい、由里佳。そんなところで寝ていると風邪ひくぞ」

 託された傘を開いて、その小さな背中を覆うように差し向けるが、ブランコの鎖に邪魔されて思うようにいかない。

 すると、

「馬鹿ですね五島さんは――」

 ポツリとそう言って、由里佳がついに顔を上げた。

 雨に濡れたような黒目がちな瞳が五島の目を射貫く。

 そして、

「ロボットが風邪をひくわけないじゃないですか」

 胸を掴まれるような切ない笑みを浮かべて、そんなことを言った。

「……今のは言葉の綾ってやつだ。それに実のところ、身体の怪我や病気は、今日日それほど大した問題じゃねえ。本当に厄介なのは心の怪我や病気で、こればっかりは昔からどうにもならねえもんでな。人間もロボットもそれは同じだ」

「心の――――?」

 五島は、ああ、と頷いてみせる。

「――それこそ、絶対に、ありえないですよ。だってわたしには、そもそも心なんてないんですから。わたしの中にあるのは、心があるように見せかけるだけのただの偽物だって、今回のことがあってようやくそれが身に沁みてわかったんです。そんなこと、初めから知っていたはずなのに」

 馬鹿ですよね、わたしも――――、と由里佳は付け加えるように呟いた。

「どうしてそんなことが言える?」

「どうしてって……、だってわたしは、友達を――、大切だと思っていた人を傷つけたんですよ? もしかしたらそれだけじゃ済まなかったかもしれない。本当に偶然に、奇跡的にそうならなかったっていうだけなんです。エラーか何かのせいかはわかりませんけど、あの時、わたしのOSが強制終了されていなかったら……。まさか五島さんは、これがどれだけ重大な事態かわかってないんですか?」

 由里佳がで振り絞るように訴えると、五島はそれに答えて静かに言った。

「あれはお前の意思じゃない」

「だから何だって言うんです? プログラムを上書きされてしまえばなかったことになる心なんて、偽物以外の何物でもないじゃないですか……! それに、だからこそわたしは自分に絶望しているんです。自分の意思とは無関係に、命令されてしまえば抗うこともできずにどんなことだって平気でする、結局はただのロボットでしかない自分自身に」

 顔を上げて挑むように五島を見つめる由里佳の頬を、まるで涙のように幾筋もの滴が伝う。

「なあ由里佳、ロボットと人間の違いって何だと思う?」

 五島がだしぬけにそう言うと、何をいきなり、と由里佳の視線が少しきつくなる。

 すると五島は少し考えてからもう一度口を開いた。

「いや、スマン、今のは質問の仕方が悪かったな。――そうだな、例えば、お前みたいな人型のロボットと人間の違いだ。細かいことは置いといて、お前が思う、〝一番の違い〟ってやつを言ってみろ」

「そんなの言うまでもないと思いますけど」

「心があるかないか――、か?」

 五島が探るように言うと、由里佳は渋々と頷いて見せる。

 そして、それがどうした、とでも言いたげな顔をする由里佳に、五島は重ねて問い掛けた。

「じゃあな、その心ってのは一体なんだ? 何色で、どんな形をしてる? 人間にはそれがあるってどうしてわかる?」

「それは――、…………」

 由里佳が俯いて黙り込むと、少し待ってから、五島は淀みない口調で言う。

「わかるわけないよな。そもそも心ってのは、実態のないあやふやなものなんだから。それがあるっていう証拠なんかどこにもありゃしない。だからあるいは、人間の心なんてものはただの幻想に過ぎないかもしれないんだぜ」

 その言葉が由里佳の胸の裡に届くか届かないかの間を開けて、再び口を開く。

「――でもな、それがないっていう証拠もやっぱりどこにもねえんだ。そして、それはお前も同じだろ、由里佳」

 呼び掛けられて、由里佳は再び顔を上げて五島を見る。

 その顔に浮かぶのは、不安と期待と諦めがない交ぜになったような、そんな表情。

 あるいはそれは、五島がそう思っているからそう見えるだけなのか。

 もし仮にそうだとしても、言うべきことは変わらないと五島は思う。

 だから――、

 処理しきれない感情を抱えて途方に暮れる、見た目もその中身も、まるで年端のいかない少女のようなロボットに向けて言い聞かせるように言った。

「お前に心がないなんて、誰が決めた? その心が偽物だってどこに書いてある? 仕様書に載ってたか? 少なくとも俺は、そんなもの見たことねえぞ」

 それから一呼吸分の間があって、だからな――、と由里佳に口を挟む間を与えずに続けて言う。

「それは誰が決めたわけでも、そうと決まってるわけでもない。お前がただそう思い込んでるだけじゃないのか?」


 ようやく五島が言い終えると少しして、答えを探して視線を彷徨わせるようにしてから、ポツリと漏らすように由里佳は言った。

「でも、だって……、そんなの詭弁ですよ」

「そう思うか? ――まあ、すぐに考えを変えろとは言わねえよ。でもこれだけは覚えておいてくれ。心の在処なんてのは心の持ちようでどうにでもなるってことを。今のお前に、俺から言えるのはそれで全部だ」

 五島がそう言うと、由里佳は思い出したように聞いた。

「……じゃあ最初の質問の答えは?」

「最初の質問?」

「ほら、あの人間とロボットの違いって」

「ああ、あれはな……、――――正直俺にもよくわからん」

 五島が悪びれもせずにそう言うと、由里佳が不機嫌な声を出した。

「何ですかそれ。人を悩ませといてそんな言い草ってないと思います」

「いやいや、待ってくれよ。わからないっていうのも立派な答えだぜ? つまり俺はな、ロボットと人間の間にこれといった明確な違いなんてないんじゃないかと思うんだよ」

「そんなの嘘です」

「嘘なものか。人間だってな、時に大切な誰かを傷つけるんだ。その点においては人間とロボットに違いなんてない。少なくとも今は本当にそう思ってる。――あるいは、その違いってやつを見極めるために俺はこの仕事をしているのかもしれない」

 五島が嘯くように言うと、由里佳は何も答えずにただじっと五島の目を見つめた。

 その真偽を推し量ろうとするかのように。

 すると、五島はその目を見返して、

「――なあ由里佳、戻ってまたステージに立ってくれないか?」

「それは、無理ですよ」

「二度とあんなことは起こさない。約束する。そのための努力もしてる」

「努力? 約束? それがあれば、本当に絶対に起きないって言えるんですか?」

 由里佳が強張った声で頑なな態度を示すと、五島はそれを見越していたように、

「俺達が信じられないならそれでもいい。でもお前は、自分自身を信じてやるべきなんだ」

「――どういう意味ですか?」

「お前はさっき、偶然、奇跡的にエラーか何かのおかげで、椎奈があれ以上の怪我を負わずに済んだって言ってたがそれは違う。あの時お前は自分の力で、自分自身の、その全機能を強制終了したんだ。本来緊急時に作動するはずのサブシステムも含めて全部、な。そこまでしなかったら、恐らくあの時のお前は止まらなかっただろう」

「でも、そんなのわたしのログには……」

「残ってないってんだろ? そりゃ当然だ。何せ再起動する前に汚染されてそうな部分はあらかた初期化しちまったからな。だけどデータは取り出してちゃんと保存してあるから、何なら後で見せてやってもいいぞ」

 由里佳の反応を確かめるように、一度言葉を区切ってから五島は再び口を開いた。

「そりゃまあ確かに、運が良かったのかもしれないさ。でもな、全部が全部偶然や奇跡の賜物ってわけじゃねえ。お前が椎奈を傷つけたくないと思ったからこそ、そしてそのために行動したからこそ、最悪の結果が防げたんだ。お前は覚えてないかもしれないが、椎奈を突き飛ばしたのだって、あれ以上の危害を加えないために咄嗟にやったことだろう。――つまりな、お前はただ上書きされた命令に唯々諾々と従ったわけじゃなくて、それに抗うことができたんだ。他ならぬ、お前自身の意思でな」

 

 言い終えて、五島は由里佳の言葉を辛抱強く待った。

 ふたりの間に中途半端に差し掛けられた傘。その傘を叩く、ポツポツという雨音だけが五島の耳朶を打つ。

 やけにゆっくりとした時間が流れた後、雨音に同化しそうな声で由里佳が言った。

「五島さんが言っていることが本当だとしても、やっぱりわたしは――」

「他に何が気に掛かってるってんだ? ちゃんと聞いてやるから、洗いざらい話しちまえよ」

 五島がそう言うと、由里佳は再び五島の目を見て静かに言った。

「五島さんは、あのふたりに私のことを話したんですよね」

「ああ」

「わたしはずっとふたりを騙してたんです。嘘をついて、その上傷つけて、今更どんな顔して戻ればいいんですか? ……きっともうあのふたりは、わたしと一緒にステージに立ちたいなんて思ってくれませんよ」

 声を震わせ、瞳に痛いほど切実な色を映して訴える由里佳のその目の端に、まるで雨粒のような小さな滴が浮かぶ。

 その滴が零れ落ちる前に、揶揄するように五島は言った。

「なんだ、そんなことか。――お前は本当に馬鹿だな」

「馬鹿なのは認めますけど、そんなことって……」

 まあ、ちょっと待て、と言ってから五島は懐をごそごそとやり、取り出したものを由里佳へ差し出して見せた。

「ほらよ。次に家出したくなった時は、せめて友達との連絡手段ぐらいは持って行けよな」

「それは――」 

 五島の手の中にあるもの、――自分の携帯端末を見つめて、由里佳はハトが豆鉄砲を食らったような表情をした。

 それからすぐに、

「返してくださいっ」

 と由里佳が手を伸ばすと、五島はあっけなくそれを手放した。

「返すも何も、お前が忘れたまま飛び出してったから持ってきてやったんだろうが」

「だって、あの時は、そんなことを考えている余裕なんてなかったし……」

「――まあそんなこたいいさ。とにかく、何日もほったらかしだったんだ、何か新しい着信がないか確認してみろよ」

 すると由里佳は訝しむような表情を浮かべながらも、言われたままに画面に目を落とす。

「これって……」

 そうして、少しの間画面に視線を走らせてから、上目遣いに五島を睨んで言う。

「――見たんですか?」

「中身まで確認しちゃいねえよ。でもな、なんて書いてあるかは大体わかるさ。お前もこれでわかったろ? 自分がどんだけ馬鹿だったかってことがよ」

「――――」

「お前がもうアイドルなんて絶対にやりたくないって言うならそれでもいい。――いや、実のところあんまり良くはねえんだが、それでも何とかする。お前がそうしたければ別の生き方を見つける手助けだってしてやる。せめてもの罪滅ぼしにな。それに、仮にそうしたとしても、あのふたりがお前の友達でなくなるわけじゃないんだ」

 そこまで一息に言い、由里佳に言葉が届くのを待って、でもな――、と続ける。

「もし、アイドルを続けることに関して、義務とか責任とかそんなつまらないこと以外に何か思うことが少しでもあるのなら――、この先どうするか決めるのは、あのふたりとちゃんと話をしてからでも遅くはないんじゃねえかな、と俺は思うわけだが」

 そこんとこどうよ――? と目で問うように由里佳に視線を向ける。

 そして、逡巡するような気配の後で由里佳が、

「でも――」

 と口を開くと、果たして予期していたようにそれを遮って五島は早口に言った。

「まあ聞けよ。今度の日曜日……ってもう明日の話なんだが、いつもの場所で、あのふたりだけでライブをすることになっていてな」

 由里佳は言い掛けた言葉を飲み込んでから、不安そうな声を出す。

「椎奈さんは怪我がまだ治っていないんじゃ……」

「ああ、だから俺も止めたんだが、聞かなくってな。折角お客さんが増えてきたところなのに、あまり間を開けたくないときたもんだ。まあ足の方はもう完治してるし、腕も痛みはないらしい。そういうわけで、腕に負担が掛からないように振付も少し変更するってことで手を打ったんだが。……もちろん医者には内緒でな」

「……それで、やっぱりわたしも一緒に出ろと?」

「そうじゃない。ああは言ってたがな、ふたりは本当は、きっとお前に観に来て欲しいんじゃないかと思うんだ」

「……それは五島さんの勝手な憶測ですよ」

「まあ否定はできないけどな。少なくとも、ふたりと顔を合わせる良い口実にはなるだろう? あと一応言っておくが、これは命令じゃないぞ。だから、どうするかは後でゆっくり考えて、お前のしたいようにすればいい」

 それから、ほら、と手に持った傘を手渡すようにして、

「とにかく、今日はもう帰ろうぜ。家で織部が首を長くして待ってるはずだ」

 その名前を聞いて、由里佳は少しだけ強張った表情を見せる。

「大丈夫だ。あいつもお前が居なくなってから色々と思うところがあったみたいでな、そりゃ反省もしただろうさ」

「……違うんです。悪いのはわたしなんです」

 由里佳は俯きがちに首を振りながら言う。

「なに、向こうもきっと同じことを思ってるぜ。そんならもう一度顔を合わせて、お互いに謝っちまえばそれですっかり元通りってやつだ。な、簡単だろ?」

 五島がニヤリと笑ってそう言うと、少し躊躇ってから由里佳は差し出された傘を受け取った。

「ほら、立てるか? その足――」

 空いた手にもう一本の傘を開くと、右手を差し出して五島が言う。

 その視線は由里佳の左足へと向けられている。

「……気づいてたんですね」

「まあ、な。ここへ来たのも、もうあまり走れないと踏んでのことだったんだろ? 心配しなくても、そいつも何とかしてやるから。それに実のところ目処はもう立ってるんだ」

「直してやる代わりにアイドルを続けろ、とか言わないんですか」

 五島の手を借りて立ち上がった由里佳が、意地の悪い声で言った。

「おっと、その手もあったか。――でも、その必要はないと思うぜ。なあ?」

「……そんなの、知りません」

  五島の返しが予想外だったせいか、そっぽを向くようにして由里佳はもごもごと答えた。

「ま、いずれわかるだろうよ。とりあえず、あの婆さんの店までなら歩いて戻れそうか? ほら、世話になったんだろ。一言ぐらい挨拶もして行かなきゃな」

 あそこまでなら多分、と由里佳が頷くと、五島が思い出したように呟く。

「そういえば――、」

「?」

 すると五島は今までとは打って変わって、言葉を探しながらたどたどしく言った。


「お前が作ってくれたあの飯。あれな――、中々うまかったぞ。……その、なんだ。良かったら、また作ってくれないか?」

 

 それはまったくもって五島らしからぬ台詞だった。

 そのせいで、由里佳が束の間フリーズしたロボットのようにポカンとしたのも無理はない。

 数秒で正常な機能を取り戻した由里佳は、

「ええと、そうですね――。また今度、気が向いたら作ってあげますね」

 そう言って、

 ようやく、はにかむようないつもどおりの笑顔を見せた。

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