第21話 夏嵐が来る前に
――夢を見ていた。
夢の中で由里佳は、
大切な人によく似た誰かを傷つけた。
――傷つけた?
いいや、それは違う。
傷つけたなんて、そんな生易しいものじゃない。
だって、由里佳のせいで彼女は×××しまったのだから――。
その女の子は、
椎奈とよく似た顔をしていた。
笑った表情がそっくりだった。
椎奈によく似た女の子の、その細い腕を掴んでねじり上げた。
由里佳の手に無機質な力が宿り、女の子の腕がギシリと軋んだ音を立てる。
悲鳴ひとつ漏らさずに、女の子は目に涙を溜めてじっとこちらを見ている。
信じられないといった表情で。
何が起きているのかわからないという顔つきで。
唐突に終わるはずのその光景は、
しかし、
バキンという取り返しのつかない音が鳴り、
女の子の腕が奇妙な方向に捻じ曲がっても、終わることはなかった。
そして――、
ついに、女の子の口から嗚咽交じりの呻きが上がる。
その顔が苦痛に歪められているのだからそのはずだ。
けれど、由里佳の耳に彼女の声は届かなかった。
気づけば、世界は唐突に音を失くしていた。
聞こえない。
聞こえない。
聞こえない。
何も聞こえない――。
声なき悲鳴を上げる女の子の白い喉を、両手で包み込むように押さえつけた。
じわりと締め付けた手と手に、温かい脈動とその声の残滓だけが伝わる。
次第にそれが失われていくまで、由里佳はずっとそうしていた。
その最後の一片が消えて無くなった時、
由里佳と世界を繋いでいた大切な何かも、一緒に消えた気がした。
ふと目を上げて、いつの間にか大きな鏡がそこにあるのに気づく。
その鏡の中にいる由里佳が、
感情のない人形のように、冷たく透き通った顔でこちらをひたと見つめていた。
由里佳が目覚めたのは、あの日から四日が経った木曜日のことだった。
目を開けた時視界にあったのは、少し年季の入った天井と、そこから眩いばかりの光を放つ大きな照明。
それは由里佳が初めて起動した時と何一つ変わらない光景だった。
こういうのデジャブっていうんだっけ、と考えてから、
あれは実際には体験したことがないはずなのに体験したように錯覚することを言うんだったな、と思い直した。
埒もない考えである。
似ているけれど、あの時とは決定的に違うことがふたつある。
ひとつは、由里佳はすでに自分が何者であるかわかっているということ。
もうひとつは、胸の裡に、あの時はなかったはずのどんよりと重い感情が渦巻いているということ。
その存在を意識すると同時に、夢の中の光景を唐突に思い出した。
慌てて、ガバリと跳ね起きる。
すると、
「のの、どうしたの。大丈夫――?」
声を掛けられてはじめて気づいた。
見ればすぐ近くに織部が立っていて、心配そうな顔で由里佳を覗き込んでいる。
「椎奈さんは!?」
由里佳の口から、普段にない大きな声が出た。
その声の大きさと鬼気迫る表情に気圧されたのか、少し間を開けてから織部が口を開いた。
「――落ち着いて、のの。大丈夫だから」
「大丈夫って、だってあの時、わたし……」
「平気。怪我はしてるけど、でもそんなに大したものじゃないんだって」
「怪我って……?」
「足の捻挫と、腕の骨にひびが入っちゃったみたい」
「――他には?」
「ううん、それだけだよ」
と、首を振ってから、由里佳を安心させるように優しい口調で言う。
「だから平気。ののが心配してるようなことにはなってないから」
「本当に……? でも、だって夢で――」
「夢って?」
織部は少しだけ呆気に取られた表情で聞き返した。
由里佳は、うん、と頷いてから、
「いつもは実際に起きた、現実の出来事しか夢に見ないから、だから、」
「――そっか。悪い夢を見たんだね」
「悪い夢……」
「人はね、何か心配事とか不安なことがあったりすると、それが現実になったかのような夢を見ることがあるんだよ。いわゆる悪夢っていうやつ。どうしてわざわざそんなものを見せるんだって思うよね。ののは初めてだから驚いたのかもしれないけれど、でもそういうものだから」
そこで一度言葉を区切ると、また優しく言い聞かせるような口調になって、
「だからそういう時はね――。夢で良かった、って思えばいいんだよ」
――夢で良かった。
織部の言う通りなら確かにそうだ。
けれど、そう思って良いのだろうか。なぜって、結果は違ったとしても、由里佳が椎奈に怪我を負わせたという事実は変わらないのだから。
あの夢は、もうひとつの可能性だったんだ、と由里佳は思う。運良く、きっと本当にギリギリのところで、そうならなかったというだけに過ぎないんだ、と。
由里佳が、でも、と口を開こうとすると、
予期していたようにそれを遮って織部が言った。
「とりあえず場所を移そうよ。ほら、ここ相変わらず殺風景でしょ。美味しいコーヒーも淹れてあげるからさ」
約束通り、美味しいコーヒーを淹れてもらった。
砂糖とミルクは入れなかった。何となく、そういう気分だったから。
それは何の変哲もないインスタントコーヒーだったけれど、不思議と美味しく感じるのは織部が淹れてくれたものだからだろうか、と由里佳は思う。
そして何よりも、その苦みと独特の香りが、気分を落ち着けて冷静に物を考えられるようにしてくれた。
そのコーヒーを飲みながら、今、事務室のソファに向い合せに座って、由里佳は織部から事の顛末を聞いている。
〝プログラムの改変により意図的に引き起こされた暴走〟。
それがあの時の自分の身に起こったことらしい、と聞いて由里佳は、一つの結論に行き着いていた。織部の話を聞きながら、その考えを口の裏の辺りで持て余すように弄ぶ。
「――ごめんね。本当はすぐにでも再起動してあげたかったんだけど、プログラムのチェックに時間が掛かっちゃって」
由里佳は、ううん、それは気にしないで、と言ってから、
「でも、プログラムの改変って、そんなことができるのは……」
「うん。その機会があったのは、岡田さんの他には白金義体研究所の菅原さんぐらいしかいない」
「あの人が――」
由里佳は、仕事熱心で真面目そうな青年の顔を思い浮かべる。
「でもまだ確証があるわけじゃないし、どういうつもりでそんなことをしたのかって言うのもよくわからない。だから今、それを五島さん達が調べてるところなんだけど――」
進捗はあまり芳しくないという口ぶりで織部が言う。
「探偵や警察じゃないんだから、うまくいかなくてもそれは仕方ないよね」
「でもね、万木さんの怪我は一週間もすれば良くなるって話だし、それまでには何とかライブも再開できるようにするんだって、五島さんはいつになく張り切ってる」
「……あのふたりはそれで良いのかな」
「えっ――?」
「わたしのこと、話したんだよね。椎奈さんと真以子さんに。ふたりは何て言ってた?」
少しの間があって、うん、と頷いてから、でも、と織部は言う。
「ふたりに話したのは五島さんだから、わたしはそこまでは聞いてないけど……」
「――そっか」
「のの?」
何を考えてるの、という探るような織部の視線。
コーヒーをひと口啜って、話すべきことをまとめる。
さっきからずっと、頭のはじっこで考えていたことを言葉にしようとする。
それから由里佳は慎重に口を開いて言った。
「ええとね――。わたしは正直なところ、もうステージには立たない方が良いんじゃないかって思ってる」
え――、と織部が声にならない声を上げて目を丸くした。それは、由里佳がそんなことを言い出すなんてまるきり考えてもいなかったという顔だ。
そんなに意外なことだろうか、と思いながら由里佳は続けて口にする。
「織部さんには悪いけれど、わたしはもう、自分を信じられない。だって、一歩間違えれば、椎奈さんだけじゃなく他の人だって危なかったんだよ。いつかまたあんなことをしでかすんじゃないかと思うと、とてもアイドルなんてできないよ」
「でも、今後は、あんなことは起きないようにするから。そのために今、皆が力を合わせて頑張ってるから、だから、」
「――本当に、絶対起きないって言える?」
「それは――」
口ごもり、言葉を探すようにしてから織部は言う。
「由里佳はそれでいいの……?」
「どうして?」
「――どうしてって……」
「そもそも、わたしがアイドルをしていたのは、そうしなきゃいけないから。それがわたしにとってのアイデンティティになるから。――ただそれだけだもの」
すると、織部は声を震わせるようにして、
「それは嘘だよ。だって、ののも楽しそうだったじゃない。友達ができたって喜んでたじゃない。あれも全部嘘だったって言うの?」
由里佳は何も答えない。
ふたりの間に気まずい沈黙が流れた。
少ししてから、鋭い口調で由里佳が再び口を開く。
「織部さんは、どうしてそこまで拘るの? わたしのことを考えてくれているみたいな口ぶりだけど、でも本当は違うんじゃない?」
織部がはっとした表情を見せたかと思うと、何かを逡巡するような顔に変わる。
しかし、由里佳は答えを待たずに重ねて問い掛けた。
「わたしじゃない方の〝ユリカ〟のため?」
一瞬、織部の時間が止まったように見えた。それから掠れた声で呟くように言う。
「どうして――」
知っているの? と続けられたであろう言葉を聞いて、
やっぱり――、と由里佳は思った。
やっぱり、わたしには隠していたんだ。
「わかるよそんなの。プログラムを自己診断するとね、あちこちにわたしのOSのフォーマットとは違う書式で書かれた箇所があって、それをどうにか適合させようと苦労した形跡があるんだもの。それに気がついて、これはもともと別のOSで動くAI向けに作られたプログラムなのかもしれないって、そう思ったのがきっかけ。その先は、最初に聞かされた話に辻褄が合うように考えたら答えは簡単だった」
由里佳が初めて起動した時に五島から聞かされた〝経緯〟の中には、もうひとりの『ユリカ』の存在はなかったけれど、それを仮定すればすんなりと説明のつく矛盾がいくつかあったのだ。
だけど、決め手になったのは――。
「織部さんが、わたしを『のの』って呼ぶのも、そういう理由なんでしょ?」
言ってから、これは口にするべきではない言葉だったかもしれない、と思った。
確かさっきまでは、こんなことまで言うつもりはなかったはずだ。
いつの間にか、織部の淹れてくれたコーヒーが空になっていることに気づく。
いつの間にか、また冷静さを失っているのかもしれないということに気づく。
けれど、もう遅い。
「はじめの頃は、その呼び方が単純に気に入ってたんだよ。だって他にそう呼ぶ人はいないし、何だか特別な感じがしたから。――でもね、それは違うのかもしれないって。特別は特別でも、その特別の意味が違ったのかもしれないって、そう気づいちゃったんだ」
内に秘めていたはずの言葉が、堰を切ったようにぽろぽろと零れ落ちていく。
「ねえ、織部さん。織部さんにとって、わたしはどんな存在なの?」
織部は答えない。
俯いて、目も合わせてはくれない。
答えに迷っているのか、
答える必要すらないと思っているのか、そこまではわからない。
だけど、それだけでもう十分だった。
十分なはずなのに――、
「わたしともうひとりのユリカ、どっちが大切なの?」
最後に八つ当たりのように投げつけた言葉は、跳ね返って由里佳の胸に刺さった。
そのグサリという痛みに、少しだけ冷静さを取り戻す。
けれど、きっともう遅い。
織部が俯いていてくれて良かった、と思う。
なぜって、どんな顔をしているのか確かめるのが怖いから。
自分が今、どんな顔をしているのか見られるのが怖いから。
だから由里佳は、
織部が顔を上げる前にソファから立ち上がった。迷うことなく、織部に背を向けて歩き出す。絶対に振り向かないと決める。背後で、ようやく織部が顔を上げた気配がする。言葉にならない声が聞こえて、
その声が言葉になるよりも早く、由里佳は事務所を飛び出していた。
最後まで一度も振り返らなかった。
事務所の外は、由里佳の胸の裡とは正反対の陽気だった。久しぶりに目にするはずの太陽が、記憶にあるよりもやたらと眩しく感じて目を細める。
じりじりと焦げつきそうな日差しの中を、そのままあてどもなく走り出す。
人通りのない路地を、車が行き交う国道を、見覚えのある街並みから外れて、見たこともない大きな橋を渡って、
がむしゃらに、どこまでも走った。
そうしてどれぐらい経っただろうか。由里佳をずっと追いかける影の長さが、少しだけ長くなった頃。
一件の寂れた喫茶店の前で転びかけて、由里佳はようやく止まった。
悪夢から覚めたばかりのような顔で辺りを見回して、ここはどこだろう、と思い、それからすぐに、どこでもいいか、と思い直す。
肩で息をして呼吸を整えてから、立ち止まったままに、ゆっくりと空を見上げる。
嘘のように濃い群青の空の向こうに、まるで逆立ちした鯨の親子みたいな入道雲。
それは、
正真正銘の、夏の空だった。
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