第19話 シグナルロスト
最初の曲が始まってすぐに、異変は起きた。
イントロの終わりでフォーメーションを変更するはずの由里佳が、一瞬遅れた。
よほど熱心なファンでなければそれと気付かぬほどの些細なミスだ。しかし、椎奈と真以子にはすぐにわかった。彼女達にしてみれば、由里佳がダンスでミスをするなど今まで一度もなかったことである。些細とは言え、それがとても気になった。それだけなら、たまにはそういうこともあるだろう、と済ませられたかもしれない。
そして、当然それだけでは済まなかった。
Aメロの途中で、マイクを落としそうになって態勢を崩した。
その後すぐに、ターンの方向を二度も間違えた。
ここまで来ると、何かがおかしいというのは誰の目にも明らかである。
極めつけはBメロからサビに入るところ、由里佳がソロで歌うはずの部分で、ぱったりとその歌声が途絶えた。
その時椎奈は、とにかくフォローに入るために歌い出そうとしてそれに気づいた。
由里佳がふらつき、今にも倒れこみそうになっている。見るからに尋常な倒れ方ではない。危ない、と思った時には体が動いていた。既に傾いていた由里佳の体を無理な態勢で支えようとして足首に強烈な痛みが走る。そのまま由里佳の体が倒れていれば、支えることなどできずに諸共倒れこんでいたに違いない。
しかし、そうはならなかった。
ほんの一瞬前まで気を失ったようだった由里佳がにわかに気を取り戻したかと思うと、椎奈の支えを足掛かりにして態勢を持ち直した。良かった――、と椎奈が思うのも束の間、由里佳の顔を見ると、そこには何のも感情も窺い知れないゾッとするほど冷たい無表情があった。
あっと思う間もなく、由里佳に腕を掴まれる。そして、その手に万力のような力が込められた。か弱い女の子のものとはとても思えないほどの力だ。椎奈は何が起きているのかわからずに目に涙を浮かべて、抵抗さえできない。ミシッという嫌な音が聞こえたような気がして、気が遠くなると同時に、由里佳に表情が戻った。一瞬わけがわからないという顔をした由里佳は、あろうことかその直後に両手で椎奈を突き飛ばした。
そして突き飛ばされた椎奈は、
背中に衝撃を感じて意識を失うまでの間、コマ送りのような視界の中で、由里佳が再びステージに
椎奈が次に気がついた時、
彼女の体はベッドの上に寝かされていて、真以子がそのすぐそばにいた。
とても心配そうな顔をしている。
あの真以子がである。
そんな顔初めて見た。
そこそこ付き合いは長い方だけど、まだまだ知らないこともあるんだな――、と椎奈は埒もないことを思った。
真以子は椎奈の意識が戻ったことに気付いたようだが、少しハッとしただけで、何と言っていいのかわからない様子でじっとこちらを覗き込んでいる。その真以子らしからぬ表情が面白くて、くすりと笑みをこぼすと、彼女の顔が途端に訝し気なものに変わった。
椎奈は努めて明るい声を出して、
「おはよう、真以子。――えーっと、ここはどこかな? 今何時? ベッドに寝た記憶はないんだけど、もしかしてわたし、気を失ってた?」
「ここは都内の病院で、もうすぐ十九時になるとこ。ステージで倒れたときに頭を打ったみたいで、それからずっと意識がなかった」
真以子は椎奈の矢継ぎ早の質問にひとつずつ律儀に答えた。
抑揚の感じられない声だった。
「そっか。それで真以子は、わたしのことが心配でずっとそばについて看病してくれてたってわけね」
うんうん、と椎奈がわざとらしく頷きながら言うと、
「別に、心配なんてしてないけど」
「ええー? 本当かなあ?」
「だって、怪我も大したことないって話だったし、」
むしろ心配して損した――、と小声でこぼしたのを椎奈の耳は聞き逃さなかった。
やっぱり心配してくれてたんじゃない、と思ったがあえてそこには触れずに、
「それにしてはなんだか物々しい感じだけど、すぐに帰れるのかな?」
ベッドの周囲を見回しながら言った。
どうやらこの部屋は個室であるらしい。
白一色の内装の無機質な部屋で、これまた白一色のシーツを掛けたベッドの上に、椎奈は横になっている。おまけに、いつのまにか着せられている検査着のようなものまで、ついさっき漂白しましたとばかりにシミ一つない純白だ。
端的に言って、清潔さと引き換えに温もりを失ったような部屋である。
あまり長居はしたくないかな、と思う。
「今はまだ検査の結果待ちだから何とも言えないけど、念のために一日だけは入院することになるって」
「そっかあ。それじゃ今晩はここに泊まることになるんだね」
椎奈が少し残念そうに言うと、真以子は何も言わずただこっくりと頷いた。
「まあでも、わたし、入院なんて初めてだからちょっとわくわくするかも。――ね、病院食って美味しいのかな?」
「わたしも入院したことないからわからない」
「そっか。でも真以子らしいね」
「?」
何が、と真以子は訝しむように小首を傾げて見せる。
「真以子ってさ、ぱっと見はなんかこう儚い感じで病弱そうだけど、実は全然病気もしないし、健康でしょ。そのギャップが真以子らしいなって」
「人は見かけによらないから」
「真以子が言うと説得力あるよ、それ」
椎奈がくすりと笑って言うと、不意にふたりの間に沈黙が訪れた。
普段あまり口数の多くない真以子のことだから、ふたりでいると、こういうことはままあることではある。けれどいつものそれは不思議と心地良いものであるのに、今はなんとなくピリピリしたものを感じて落ち着かない。
「――あの後どうなったの?」
椎奈は意を決して、しばらく前から舌の上で転がしていたその言葉を口にした。
すると真以子は少し言葉を探すようにしてから、
「ライブが中止になった」
「うん、まあそれはそうだよね」
それはもちろん大変なことではあるけれど、聞きたかったのはそうではない。
恐らく、そんなことは真以子もわかっているはずなのに、と思う。
けれど、聞きたいことをはっきりと聞かずに曖昧な言葉で濁したのは、外ならぬ椎奈自身であるから文句を言えた義理もない。
もう一度、今度はちゃんと聞こうと心に決めてから口を開こうとして、
病室のドアが開けられる音に遮られた。
「おう、気が付いたか――。気分はどうだ?」
入ってくるなり、五島は椎奈に向かってそう聞いた。
普段からあまり覇気があるとは言えない五島だが、今は、いつものだらしなさとは趣の違う憔悴したような顔をしている。
「平気です。――強いて言えば、少しお腹が空いたかなって」
「ふむ、食欲があるなら大丈夫そうだな」
五島はフッと力を抜いたような笑みを見せた。
「検査の結果、出たんですか?」
真以子の問い掛けに頷いて見せてから、五島は再び口を開いて、
「ああ、幸い、何ともないそうだ。あくまでも今のところは、だけどな。一応経過を見るために今日一日はここに入院してもらうことになる」
後半は椎奈に向けて、いいな、と念を押すように言った。
「その話はさっき、真以子から聞きました。それであの、怪我の方は――」
「――そうだな。幸か不幸か、今はそっちの方が問題か。足の捻挫は大したことないんだが、その腕の方はどうやら骨にヒビが入っちまってるらしい」
五島が目を向けた椎名の右腕は、包帯でぐるぐるに巻かれている。感触からするとどうやらギプスのようなもので固定もされているらしい。気が付いた時からそういう状態なわけで、大方症状の見当はついていた。むしろ折れていなかったことを僥倖と言うべきかもしれない。
「まあそれも、医者に言わせればそこまで大したことじゃないらしい。治療用のナノマシン打って安静にしておけば、一週間もあれば治っちまうとか何とか。ただ、その間は運動なんてもってのほかだと口うるさく言われたけどな」
「ふむふむ。でも、そういうことなら再来週には復帰できるってことですよね。もっと時間が掛かるかなと思ってたので安心しました」
そう言って屈託のない笑みを向けるも、五島は何やら難しい顔でむっつりと黙り込んでいる。
「――どうしたんですか、いつものプロデューサーらしくないですよ」
ああ、悪い、と言ってから、五島はいつになく真面目な顔で、
「ちょいと話があるんだが、聞いてくれるか」
いつになく、真面目に切り出した。
予感はあった。
けれど、確かめずにはいられなかった。
「話って……、由里佳さんのことですか」
「――そうだ。こうなった以上、話さないわけにはいかないと思ってな。お前たちの今後についても関係のある話だ」
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