第18話 あれからのこと、これからのこと

 由里佳が目覚めた時、時刻は十時を僅かに過ぎていた。

 覚醒しきらない頭で時計を確認して、

 もしかしたら、これが俗にいう寝坊というやつかもしれないと思った。

 普段は八時には起きているので、都合二時間も寝過ごしたことになる。

 もしかするまでもなく、寝坊以外の何物でもなかった。

 ――いけない!!

 慌てて猛然と飛び起きてから、はたと気付く。

 そういえば、今日のライブは夕方からだった。

 よかった――――。

 由里佳はへなへなと力を抜いて、ベッドのふちに腰掛ける。

 安心すると同時に、先ほどまで見ていた夢の内容が不意に思い起こされた。

 久しぶりだな、と思う。

 初めて起動したときのことを夢に見るのは。

 最初の一週間ほどは、それこそ毎日のように夢に出てきたその光景は、

 いつの間にか他の記憶の中に埋もれて、その手触りも不確かなものになっていた。

 それから急に、色々なことがあり過ぎたせいだと思う。

 あれだけ色々なことがあれば、無理もないよねと思う。

 だって、あのデビューライブの日から今日でもう

 それまでの一カ月に負けず劣らずの、忙しないひと月だった。

 つまり、由里佳が起動してからもうすぐ二カ月が経つ。

 それだけの時間をかけて、次第に思い出さなくなったその記憶とその思いは、

 けれどもやはり、風化してしまったわけではなくて。

 真新しいまま、ずっと手の届くところにあったのだ。

 

 ――そうだ。初めは〝ただそれだけ〟の理由だった。

 ――今もまだ〝ただそれだけ〟の理由なのだろうか。

 

 わたしがアイドルを続けるのは、そう命令されたから?

 そうすればわたしは、自分自身を見失わずに済むから?


 それとも、

 それとも、

 

 それとも――?

 

 由里佳のとめどない思考を打ち切ったのは、

 ぐう、という情け容赦も情緒もなければ、空気も読めない腹の虫だった。

「おなかすいた」

 由里佳はわざわざ誰にともない独り言を呟いた。

 それから気怠そうな仕草で立ち上がると、身繕いもそこそこに部屋を出てリビングへと向かった。

 

 果たしてガチャリとドアを開けると、織部がリビングの中央あたりに置いてあるテーブルに座って手に持ったタブレット端末に目を落としていた。

 窓から取り入れられた、白くて少しだけ黄色っぽい光が、その周囲を柔らかく包み込んでいる。

 由里佳はドアを閉めるのもしばし忘れて、

 切り取られた絵画の一片のように静謐で、まるで時が止まってしまったかのように優しいその光景を、一時ただ見つめた。集中しているせいか織部はこちらに気付いた様子はなく、由里佳の視界の中に動くものは何もなかった。

 本当に時間が止まったみたいだ、と由里佳は思う。

 その得難い光景を壊してしまうのが惜しくて、由里佳は音を立てないように慎重にドアを閉めた。

 カチャリ。

 ――少しだけ音がしたけれど、うん大丈夫。気付かれてない。

 何だか一仕事終えた気分の由里佳が、ゆっくりと息を吐いた時それは起こった。

 止まっていた時計の針を動かしたのは、

 ぐう、という血も涙も躊躇もなければ、空気も読まない腹の虫だった。

 今更慌ててお腹を押さえても、それは後の祭りというやつだ。

 こいつのことを忘れてた――、と由里佳が忸怩たる思いで項垂れるのと、織部がハッとしてこちらを振り向くのがほぼ同時。

「――あれ、のの。おはよう、今日は珍しく遅かったね」

 由里佳が悪戯を見つかった子どものように首をすくめて、おはよう、と返すと、

「お腹、すいてるんでしょ?」

 織部は、ふふ、と小さく笑ってからそう言った。

由里佳は少しだけ迷ってから顔を上げて、

「――うん、じつはぺこぺこ」

 諦めと恥ずかしさが半分ずつの、器用で不器用な笑顔を返した。


「今日は夕方からだって言ってたよね」

 いつもより遅い朝食を食べ終えて一息ついた由里佳に、テーブルの向こう側から織部が声を掛けた。

「うん、十七時からいつもの場所で」

「いつもの場所、か――」

「?」

「あ、別に深い意味はないんだけどね。ののもすっかりアイドルだなあと思って」

「そりゃ、この一カ月毎週のようにライブしてるからね。流石にもう慣れてきたよ」

 由里佳は少し冗談めかして言ってみせる。 

「土日にそれぞれ二回ずつだもんね。――そっか、考えてみたらもう十三回もライブしてるんだ」

「うん、そう。それで今日が終われば十五回。お客さんも結構増えてきたよ」

 どうだ、すごいだろと由里佳は子供のように得意気に胸を張る。

 と思いきやすぐに相好を崩して、たはは、と笑いながら言った。

「まあそうは言っても、最初の時に比べたらずっと小さいステージなんだけどね」

「それでもすごいよ」

「――うん、でも椎奈さんと真以子さんのおかげかな。ふたりには、前にいたグループの時からのファンの人とかいてね。いつもすごいんだよ。最初の単独ライブの時のお客さんなんて、半分ぐらいふたりのファンの人達だったんじゃないかな」

「残りの半分は?」

「――え?」

のファンの人だっているでしょってこと」

「ええと、それはどうかな――」

 由里佳はあさっての方向に視線を泳がせてから歯切れ悪く言った。

「デビューライブの時の〝あれ〟、すごく話題になってたじゃない」

 ――やっぱりそうきた。

 由里佳はどういうわけか上気した顔にわざとらしい笑みを浮かべて、

「あはは――。……あ、そういえばさ、さっき織部さんは何見てたの? ほら、わたしが起きてきた時」

 あまりにも強引に、話題を変えようとした。 

 織部は一瞬きょとんとしてから、

「ああ、あれね」

「熱心に見てたから、面白い本でも読んでたのかなって」

「――知りたい?」

「うん、知りたい知りたい」

 織部の口元に浮かぶ、意味深な微笑の理由までは思い至らずに、由里佳はこくこくと頷いて先を促した。

 そこまで言うなら――、と織部はテーブルの端に寄せてあったタブレット端末を取って二、三操作してから由里佳の方に差し出して見せた。

 果たしてその画面上では動画が再生されていて、

 ステージの上で、由里佳とよく似た少女が何やら不思議な踊りを踊っている。

 滑らかで、それでいて角ばってぎくしゃくとした、どこか不思議とユーモラスな動きである。

 例えば今日日の子ども達には、それが元々ロボットの動作を模したものだと言っても信じてもらえないかもしれない。

 そんな変な動き方をするロボットなんていない、と言われるかもしれない。

 つまりそれは昔ながらの、いわゆる〝ロボットダンス〟というやつだった。

 えっと、これ――――、

 それにしても由里佳によく似ている。

 背格好や髪の長さがそっくりである。

 画面の中で、少女の顔がズームになった。

 まだ幼さが残るあどけない、端正だけど少し地味な顔立ち。

 黒髪を肩の下まで伸ばして、前髪を目蓋の上あたりで切り揃えた髪型。

 由里佳に瓜二つで、唯一無二の、まさしく由里佳の顔がそこにあった。

 

 これ、あのときの動画だ――――――――!!

  



「えー、わたしも好きだけどな。真以子も良いと思うよね?」

「いつでも再生できるように端末に保存してる」

「やーめーてー」

 由里佳が悲痛な声を上げて楽屋のテーブルに突っ伏したのは、もうすぐ今日の最初のステージが始まろうかという時だった。

 そのままの姿勢でこてんと首を横にして、

 なんであんなことをしたんだろう、と思う。

 いやでもあの時は、なぜか不思議といけると思ったんだよね。

 それにまあ、実際に受けは良かったみたいだし――。

 由里佳がステージ上でその〝突拍子もない芸〟を披露したのは、デビューライブで一曲目が終わった後のMCトークの時だった。ライブ直前の椎奈の提案により急遽MCを務めることになった由里佳には、トーク用の持ちネタの用意などは当然ない。

 そこでグループの自己紹介もほどほどに始めたのが、例のロボットダンスだった。

 ぐだぐだとつまらない話を続けるよりは良いかと思った。

 ――確か、そういう理由だったと思う。

 何よりあの時の由里佳は、どういうわけか何でもできる気になっていた。

 別に練習などはしたことがない。まるっきり、ただの見様見真似である。

 けれど、人間と同じように踊ることは不得意な由里佳でも、前に動画で見た精密で機械的なその動きを、寸分違わずトレースすることは容易なことだった。そういうことにかけては、ロボットの右に出る者はまずいない。

 最新型のロボットが昔ながらのロボットダンスを踊るということに逆説的なユーモアを覚えながら、ダンスに合わせて、最初のステージで歌った曲をもう一度ワンコーラスだけ歌った。わざと、あの〝味があるとも言えなくもない歌い方〟で。

 結果としてそれは、呆れるほどクオリティの高いものになった。

 初めてやったとは到底思えないほど、完成度の高いものだった。

 そして、アイドルの女の子が、突如として玄人はだしのロボットダンスを踊り始めるという底知れぬギャップが、居合わせた観客の目を惹くことになった。

 

 由里佳にとって想定外だったのは、

 SNS上にアップされた動画が、予想以上に話題を呼んで拡散されたことと、

 改めてその時のことを言われると、滅茶苦茶恥ずかしい、ということだった。

「恥ずかしがることないのに。ね」

 椎奈の言葉を受けて、真以子がいつものようにこっくりと頷く。 

「だって――」

「だって?」

「今思うと、いきなり過ぎてちょっとわけがわからないし……」

「まあ確かに、最初はびっくりしたけどね」

 椎奈は、うん、と頷いた後に、でも――、と続ける。

「意外性があったからこそ、話題になったんじゃないかな。もちろん、由里佳さんの技術の賜物でもあると思うよ」

それにしても、本当に上手で、むしろそっちの方がびっくりしたよ、といつもの笑みを見せて言った。

「プロ顔負け」

 真以子が携帯端末の画面を見ながらこっくりと頷く。

 今もまたあの動画を再生しているのかもしれないと思うと、余計に顔が熱くなる。

「――あ、もしかして由里佳さんて、ロボットダンス部?」

「? えっと、部って?」

「ほら、前に由里佳さんって部活とかしてるのって話をしたでしょ。わたしはダンス部とかやってるのかなって思ったけど、今思えばちょっと違ったのかもってね」

 だからって、ロボットダンス部というのはどうなんだろう――。

 果たして、それが本当に存在するのかどうか由里佳にはわからない。少なくとも高校生の部活として成立するものではない気がする。

「それならふつうにダンス部で良いと思う」

 由里佳の気持ちを代弁するように真以子が鋭いツッコミを入れた。

「やっぱりそう思う? でも良いなあ――」

「良いって何が?」

「ロボットダンス、わたしもやってみたいなって。今まで考えたことなかったけど、由里佳さんの見てたらこういうのもアリだなって思ってね。可愛い衣装とのギャップがまた良いよね」

「わかる」

 真以子が頷きながらしみじみと呟く。

 少し間を開けて、

 それじゃあ――、と由里佳は控えめに提案した。

「今度三人で一緒にやってみる?」 

「一緒にってステージで?」

「うん、そう。――どうかな」

 あれをまた一人でやるのは恥ずかしいけど、三人一緒なら全然平気だと思う。  

「良いと思う」

 食い気味に真以子がこっくりと頷いて同意を示した。心なしか、目が輝いている。

「うん、良いねそれ。やってみようよ」

「それと、三人で、って言えばさ。また一緒にどこかへ行こうよって話もしてたでしょ。あれから毎週ライブがあって中々時間が取れなかったけど、ほら何と言ってもわたし達、今は花の夏休みに入ってるわけだし、それを謳歌しない手はないよね」

 ――〝夏休み〟。

 そう言えばそうだった。

 先週のライブの折にもその話があって、「由里佳さんの学校も、もう夏休み始まってるよね」という椎奈に対して、そんなものの存在を全く念頭に入れていなかった由里佳は、少し慌てふためきつつも、うん、という返事をしたのだった。

「とりあえず明日にでもさ、久しぶりにあの猫の店長のお店に行くのはどう? そこで改めて今後の予定をちゃんと決めようよ。――確かお店はやってるよね」

 猫の店長のお店とは、真以子がバイトをしている例の喫茶店のことである。誰が呼び始めたか、三人の間ではいつの間にかそれで通っていた。

「やってるけど、わたしもシフトが入ってる」

「なら丁度良いじゃない。どうせそんなにお客さんいないんだから、少しくらい話せるでしょ。――由里佳さんはどうかな。何か用事ある?」

「ううん、大丈夫」

「よし、じゃあ決まりね。時間はいつ頃が良いかな――、ってもうそろそろ行かないとかな」

 そう言って椎奈は携帯端末を取り出して時間を確認する。

 釣られて由里佳も見てみると、いつの間にか、開演時間が間近に迫っていた。

 最近気づいたことだが、三人で楽しくおしゃべりしているとあっという間に時間が経ってしまう。〝楽しい時間は過ぎるのが早い〟と云うのはこういうことかと、改めて実感する由里佳である。 

 少しだけ名残惜しいけれど――、

 でもライブが終わればまたすぐ話せるしね、と由里佳は思った。

 それにライブだって、楽しくないと言えば嘘になる。

 だから、由里佳は顔を上げてふたりに笑顔を向けた。

「――そうだね。続きはまた後でにしよっか」




 あまり大きくない会場の客入りは、まずまずといったところだった。

 キャパシティにはまだ余裕があるが、少なすぎるということはない。

 昨今のアイドル人気の低迷を鑑みれば、十分健闘していると言える。

 穿った見方をすれば、競合する相手が減っているからこそ、ある程度の客入りを確保出来ていると言えなくもない。

 ところで、由里佳達『STAR&LINEミ☆☆☆スタートライン』が毎週土日に二回ずつライブを行っているこの会場は、元々椎奈と由里佳が在籍していたグループが定期的にライブを行っていた場所でもある。

 そういうわけで、当時からふたりを応援している熱心なファンも多く、毎回のように顔を見せる常連はこの手の客が大半を占めている。

 一方で新規の客というのも当然いて、こちらはデビューライブの時に偶々会場に居合わせたり、SNSにアップされた動画を見て由里佳達に興味を持ったという層である。初めの頃に比べれば一見の客の勢いは衰えたが、そこから常連になる客も一定数いるので、回を追って少しずつ右肩上がりに客入りを伸ばしていた。

 とまあそんなことはステージの上の少女達には預かり知らぬところであって、彼女たちにとっては、今日来てくれた人達に楽しんでもらうことこそが至上命令である。

 だからこそ由里佳は、今日もお客さんを楽しませることができるだろうか、と一抹の不安と期待に胸をどきどきさせながら、ステージの上に身を躍らせた。


「みなさん、こんにちは! 『STAR&LINEミ☆☆☆スタートライン』です! ――って言わなくても、そろそろみんなわかってくれてますよね?」

 ステージの中央に立った由里佳が、右手を掲げてぴょんと飛び跳ねるようにしながら、いつもと少し違う口上で恒例の自己紹介をした。

 すると、ステージのすぐ近くから、

「わかってるよー!!」

 という威勢のいい声が上がる。

 ――滑り出しは上々だ。

 それにしても、すっかり慣れたものである。

 すでに十回以上こなしていることを考えれば、当然と言えば当然かもしれない。

 というのも、あのデビューライブの一件以来、ライブのMCは主に由里佳の担当となっているからだ。改めて決めたわけではなかったけれど、何となくそういう風になった。初めの頃は完全に手探り状態だったものの、慣れるにしたがって、次はああしたらいいんじゃないか、これを話題にしたら面白いかもしれない、と段々勝手がわかってきて、そうして試行錯誤したトークでお客さんを盛り上げるのは、とても大変だけどやりがいがあった。

 この時も確かな手応えを感じて、幸先の良いスタートを切れたし、きっと今日も良いライブになるはず、と由里佳は思った。


 だから――、

 

 そのすぐ後に、まさかあんなことになろうとは夢にも思っていなかった。

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