第17話 電気羊の夢
――夢を見ていた。
ロボットだって夢くらい見る。
けれど由里佳にとってのそれは、普通の人間が見る一般的な夢とは少し違う。
由里佳にとっての夢とは、単なる記憶の再生である。
それ以上でも、それ以下でもない。
ところで、由里佳は記憶力がすこぶる良い。見たもの、聞いたものを、すべてそのまま記憶することができる。できるというよりも、無意識のうちにしてしまうと言った方が正しいかもしれない。普段はそれと意識していなくても、思い出そうとすれば、何でも思い出すことができるのだ。
まことに便利な体質である。
けれど、それを本人が望んでいるかと言えば、それはまた別の問題である。
それはさておき――、
そういうわけで夢の中では、由里佳が体験したことが寸分違わずに再現される。
だから、先ほどまで見ていた夢の中の光景は、すべて現実に起きたことだった。
――それは、由里佳が初めて目覚めた時の記憶だ。
目を開けた時視界にあったのは、少し年季の入った天井と、そこから眩いばかりの光を放つ大きな照明。
その瞬間、はじめて光というものを認識した。
それから、自分の身体の重さに気付き、肌に触れる空気の感触を知った。
どれも知らないはずのものなのに、全てが知っているものだった。
全て知っているはずのものなのに、言葉にできないくらい驚いた。
目をぱちくりとさせる。
ついで、とにかく起きなきゃ――と思い、横たえていた身体を起こした。
何だか身体がふわふわするような感覚がして、どうにも馴染まない。
はじめて身体を動かすせいもあるかもしれないけれど、もっと別の根本的な原因がある気もする。そうして少し硬い感触の寝台の上で、上半身を起こしたまま束の間ぼーっとしていると、
「――おい、大丈夫か?」
不意に横から声を掛けられた。
「?」
そちらへ顔を向けると、訝しむような表情の四十代後半と思しき男の顔があった。
――誰だろうこの人。
不思議と頭の中にその情報はなかった。
「自分の名前わかるか?」
名前のわからない男にそう問われて、はたと気づく。
わたし、この人どころか自分の名前も――。
答えに窮し、首を振って見せると、
「まあそりゃそうだ。何たって、まだ教えてないからな」
そう言って、男は愉快そうに笑った。
――何なんだこの人。
不快感も露わに、じっと睨むように見つめると、
「――おっと、スマン。悪かったから、そんな怖い顔するなよ。えーっとな、お前の名前は、ゆりか。『ののかわゆりか』だ。そして俺は『ごしま』。漢字はこう書く。お前のはこうな」
五島と名乗った男は、携帯端末を取り出して名前を表示させて見せた。
差し向けられた画面をしげしげと眺める。
そこに表示された『野々川由里佳』という名前は、初めて聞いたはずなのに不思議と懐かしい感じがした。
「で、こっちにいるのが岡田で、こっちが織部な」
そう五島に紹介されて初めて、この場に他の人がいることに気付いた。
画面から目を離して、ふたりの方を見る。
「よろしくな、由里佳」
岡田と呼ばれた男性が少しぎこちない笑みを浮かべた。
織部という女性は、何も言わずにこちらをじっと見ている。
何と言ったらいいか迷っている風な顔だ。
すると彼女の言葉を待たずにまた五島が、
「――ああ、そうだ。俺のことはな、〝プロデューサー〟って呼んでくれ」
ぷろでゅーさー?
「どういうことですか?」
「アイドルってわかるよな?」
予想外の質問が返ってきて、由里佳は少し面食らいつつも答える。
「ええと、歌ったり踊ったりするやつですよね」
「そう、その歌ったり踊ったりするやつだ」
由里佳が、それが何の関係が? という顔をすると、
「つまりだな、俺はお前をアイドルとしてプロデュースするためにここにいて、お前は俺にアイドルとしてプロデュースされるためにここにいるってわけだ」
「――わたしがアイドルに?」
「おう、お前はそのために作られたと言っても過言じゃない」
「何か理由があってのことなんですか?」
「それはもう、のっぴきならない事情があるんだがな。こいつは話すと長く――」
「教えてください」
――お、おう。やけに食い気味に来たな、と五島は少しだけ狼狽えた様子を見せてから、
「わかったわかった、別に隠すつもりはない。ちゃんと教えてやるよ」
「あ、その前に――」
「何だ、岡田。良いところで水を差すなよな」
「いえ、ここで長話もなんですし、移動したらどうかなと思って。とりあえず、座れるところに」
五島は、それもそうだな、と頷いて、
「なら一旦事務室に戻るか。えーと、確かこれをこうして……。――どうだ由里佳、立てるか?」
五島がストレッチャーについている端末を操作すると、サーボモーターの作動音とともに、寝台の高さが低くなった。すぐに足を下ろせば簡単に床に届く高さになる。
由里佳は頷きを返すと、寝台の上に伸ばしていた足を動かして、そっと慎重に床に下ろした。まずは右足。体の向きを変えて、寝台に横に座るようにして左足も下ろす。両足を床に着けたまま一呼吸置いて、それから――、
えい、と軽く勢いをつけるようにして両足に体重をかけると、由里佳はついに床の上へと降り立った。
やっぱり何だか足元がふわふわとして覚束ない。
「――よし、いいぞ。次はこっちの方に歩いてみろ」
ふと見ると、五島を含めた三人がこちらを固唾を呑んで見守っているのに気付く。
あまり熱心に見つめられているせいで、由里佳はにわかに気恥ずかしさを覚えて、
「わかりました」
と答えながらも、少しだけ注意が散漫になった。
いざ歩き出そうとして、右足と左足をどちらから先に出すべきかなどということに思い至り、思考が錯綜した結果、あろうことかどちらも同時に出そうとしてたまらずバランスを崩した。
それでも二、三歩はどうにか進んだものの、ついにそこで倒れそうになり、もうダメ、転ぶ――、と由里佳は思わず目を瞑った。
しかし、いつまで経っても予期していた衝撃が訪れない。
あれ――、と思うと同時に、柔らかくて温かい感触に気づく。
恐る恐る目を開けてみると、果たしてすぐ近くに織部がいた。
すぐ近くというか、もはや体と体が密着している。
どうやら、彼女が支えてくれたようだと理解するのは容易かった。
それから、彼女に抱き留められたのだと理解するのもほぼ同時で。
由里佳が着ている貫頭衣の薄手の生地越しに、背中の方へしっかりと回された織部の腕と、ほとんど密着している体の感触が伝わってくる。
それを意識した途端、顔から火が出るように火照るのを感じた。
実際には、それは一瞬にも満たない時間だったのかもしれない。
けれど、由里佳には時間が引き延ばされているように感じられて、それはまるで永遠に続くかのように思われた。
というより、由里佳の感覚では実際に時間が引き延ばされていたのである。
プロセッサの暴走により、思考速度が普段の数百倍にもクロックアップされた結果として。
大丈夫? という織部の声も極端なスローモーションになり、引き延ばされ過ぎて由里佳には何を言っているのかわからない。
そして、永遠とも思われた時間は唐突に終わりを告げた。
プロセッサの異常発熱を検知したOSが、強制的に由里佳の思考をシャットダウンしたのだ。一瞬だけ力が抜けたようになった由里佳の身体は、しかしサブシステムの運動制御系によって態勢を維持するように自動的にコントロールされたため、織部がその見かけよりも重い身体に押しつぶされるようなことはなかった。
次に目覚めたとき、由里佳はソファの上に寝かされていた。
無言でむくりと起き上がると、
「気が付いた?」
織部である。
反対側に設置されたソファに座ってこちらを窺っているようだ。
表情がよくわからないのは、その顔を直視できないから。
なぜって、あの時何が起きたのか、思い返すまでもなく覚えているからだ。
ロボットにも当然、気恥ずかしいという気持ちはある。
けれどまさか、あんなことになるなんて――。
初めて起動してから十分も経たないうちに強制終了なんて。
ロボットとしての沽券に関わる事態だと思う。
恥ずかしくてもうお嫁にいけないとすら思う。
由里佳が黙り込んでいると、
「――まだどこか調子が悪かったりする?」
織部が心配そうな声を出した。
ううん、と首を振って答える。
そっか、と頷いてから織部は先を続ける。
「さっきのだけどね、多分、急に色々なことがあり過ぎたせいで処理がオーバーフローしちゃったんだと思う。プロセッサの冷却さえできればもう大丈夫なはずだから」
「えっと、それで、〝これ〟ですか?」
そう言って由里佳は自分の額を指差して見せる。
気が付いた時からそこにあった違和感。
それは風邪を引いた時などに使う、熱冷まし用の冷却シートだ。
何の変哲もない、ただの〝人間用〟である。
「――ああ、うん。ちゃんと冷却装置は用意されてるから、別にそんなの必要ないんだけどね。五島さんがないよりいいだろって、たまたま持ってたのを張ったんだよ」
効果があったかなかったか、既に温くなってしまっているそれに、由里佳は指を触れた。
五島という男の顔を思い出す。出会ってまだ数分と経っていないのに、その顔は鮮明に思い出されて、いかにもこの顔が言いそうなことだな、と思う。
もう必要なさそうなそれを剥がしてしまおうかと思い、けれど思い直してやめた。
別に理由があってのことではない。
何となく、もう少しそのままでも良いかなと思った。
ただそれだけ。
「えっと、それでその五島さんと――、岡田さんは? ふたりとも姿が見えないですけど」
「ふたりともコンビニに行くって言って十五分ぐらい前にふらっと出て行ったんだけど、多分そろそろ戻ってくるんじゃないかな」
そうなんですか――、と頷いた後で、少し迷ってから由里佳は口を開いた。
「あの、織部さんは、怪我とかしなかったですか? さっきわたし――、」
織部はちょっと意外そうな顔をしてから、
「うん、へいき。心配してくれてありがとう。――優しいね、ののは」
そう言って、柔らかい笑みを浮かべた。
初めて見る織部の表情を前にして、
その笑顔の方がよっぽど優しいよ、と由里佳は思った。
果たしてそれから十分ほどで、五島と岡田のふたりは事務所へ帰って来た。
由里佳が「さっきはご迷惑をおかけしました」と謝罪し、一応「これ、ありがとうございます」と冷却シートの礼も口にすると、
「――まあ気にするな、ほら」
と五島に手渡されたのは良く冷えた清涼飲料水のペットボトル。
「えっと、なんですか、これ?」
「オレンジジュースだよ」
それぐらい、ラベルを見ればわかる。
「そういうことじゃなくて――」
「何だ、他のが良いのか? それなら、この中から好きに選んでも良いぞ」
五島はそう言って手に盛った袋を示した。
どうやら、人数分の飲み物を買ってきたようだ。
その〝人数〟の中には、由里佳も含まれているらしい。
「それだけの割には随分ゆっくりでしたね」
織部が五島の持っている袋を見ながら言った。
「何か食わせてやろうかと思ったんだが、何が良いかわからなくて迷っちまってな。よくよく考えたら、最初は食い物より飲み物の方が良いって白金の担当者に言われてたことを思い出したんだよ」
「――ええと、つまりこれ、わたしが飲むんですか?」
由里佳は思わず口をはさんだ。
「ああ、お前にはちゃんと飲食するための機能が付いてるからな。味覚もちゃんと再現されてるらしいぞ。第七世代は伊達じゃないってな」
五島は得意気にそう言う。
由里佳は手に持ったオレンジジュースを見つめて、少しだけ途方に暮れる。
だって、まさかものを食べたり飲んだりできるなんて考えてもいなかった。
ロボットなのに――。
「どうした怖いのか? 心配せんでも、ほうれん草を詰まらせて故障なんてことにはならないぞ。ぐいっといけぐいっと」
「ほうれん草って一体何のことです?」
五島は、何だそんなことも知らんのか、という視線を岡田に向ける。
「昔の映画ですよね」
「織部は流石によく知ってるな」
「やっぱり職業柄、ああいうテーマの映画は気になっちゃうので」
そんな三人の会話を聞くともなしに聞きながら、
由里佳はオレンジジュースのキャップを外して、飲み口を恐る恐る覗きこんだ。ペットボトルの中にはまさしくオレンジ色の液体が並々と注がれている。
意を決して、一息に呷った。
それに気づいた五島が、おっ、という声を上げる。
ごくごくと飲み下し――、
ごほっ。
突然むせた。
小さく涙を浮かべて、目を白黒させながらこほこほとせき込む由里佳を見て、
「おいおい、大丈夫か」
と五島が言う。言葉とは裏腹に顔は笑っている。
「平気?」
近くまで来た織部が背中をさすってくれる。そのおかげかようやく落ち着いた。
「しかし、本当に自然な反応ですよね」
「な、すげーだろ」
岡田が感心したように言い、五島が得意気に応じる。
由里佳は、目の端に涙を浮かべたまま、ふたりをじっと睨みつけるようにした。
「おいおい、そんな怖い顔をするなっての。まあ初めてのことだし、こんなこともあるだろうよ。――なあ、それで味はどうだった?」
「甘かったです」
ぶっきらぼうにそれだけ言った。
五島がその口調に面食らった様子で、それだけか? という顔をする。
だって――、と思う。
初めて感じた〝甘さ〟は、やっぱり甘いとしか言いようがないもので。
それ以外に何と言えばいいのだろう――。
この驚きは、どんな言葉を尽くしてもきっと伝わらないと思う。
その甘さの中にある、爽やかな風味と程よい酸味は今の気分にぴったりだった。
そして、
「とにかく〝それ〟が、わたしのアイデンティティだということはわかりました」
由里佳がそう言ったのは、五島から事の次第をすべて説明された後のことだった。
〝それ〟と言うのはもちろん、由里佳のアイドル活動のことだ。
ひとまず、その理由と必要性はわかった。
正直、荒唐無稽に過ぎる話だと思う。
けれど結局のところ、
由里佳が、そのために生み出された存在だと言うのなら、
つまりそれが、由里佳がここにいる理由だと言うのなら、
従わないという選択肢があり得るだろうか?
ロボットにとって、
〝何をしたら良いのかわからない〟
〝何のために存在しているのかわからない〟
ということほど恐ろしいことは他にない。
だから、
由里佳はなけなしのアイデンティティを守るためにそうするしかなかった。
「うまくできるかはわかりませんけど、精一杯やってみます」
そして由里佳は、三人の前で初めて笑って見せた。
――そうだ。初めは〝ただそれだけ〟の理由だった。
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